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ハガイ書〔חַגַּי〕

ハガイ書(「ハッガイ」חַגַּי)

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ベレーシート

●今日の夜から、The 2nd Celebrate Sukkot(仮庵の祭り)が八日間にわたって行なわれます。ユダヤ人のように仮小屋を造ってというようなことはしません。ただこの一週間、みことばに集中して、主の再臨を待ち望む日を過ごしたいと思います。本来「祭り」は、曜日感覚を忘れさせてしまうような非日常的な性格をもっているものですが、それほどになっていないのが教会の現実です。今日取り上げる「ハガイ書」の「ハガイ」という名前は、「わたしの祭り」という意味です。「わたしの」とは「神である主の」という意味で、事実、「ハガイ書」が語るメッセージは「仮庵の祭り」の時期に語られているのです。

●ハガイ書には主の語りかけがあった日、預言した日が正確に記されています。その日付は以下の通りです。

(1)1章1節「ダレイオス王の第二年、第六の月の一日に」(第六の月は「アーヴ」、一日は新月の祭り)
15節「それは第六の月の二十四日のことであった。」(主のことばに従って、実際に行動を起こした日)
(2) 2章1節「第七の月の二十一日に」(第七の月は「ティシュレー」、二十一日は仮庵の祭りの最終日)
(3)2章10節「ダレイオスの第二年の第九の月の二十四日」(第九の月は「キスレーヴ」)
(11~19節は祭司たちに対して、20~23節は総督ゼルバベルに対して)

●(2)と(3)の間、すなわち「ダレイオスの第二年、第八の月(ヘシュヴォン)に」、もう一人の預言者ゼカリヤにも【主】のことばが臨んでいます。つまり、主は二人の預言者を通して、ダレイオスの第二年の第六の月の一日から第九の月の二十四日まで語り、さらに同じ年の「第十一の月(シェヴァト)の二十四日」にも主はゼカリヤに語っているのです。そのことが、ゼカリヤ書の1章7節~6章に記されています。

●ユダヤの第六の月は「仮庵の祭り」の一か月前で、収穫の時期とも重なり、「第七の月の二十一日」とは「仮庵の祭り」の終わり頃です。そしてその後も主は同じ年に語り続けたのです。つまり、「仮庵の祭り」を中心として、神が集中して語っておられるということです。そしてその時に語った預言者の「ハガイ」の名が「わたしの祭り」を意味することも意味深いことです。「仮庵の祭り」はメシアが再び来られる日まで、ますます重要視される祭りとなるに違いありません。

●今回取り上げる「ハガイ書」は中断された神殿の再建を促す書です。そこには二つのメッセージが語られています。一つは「あなたがたの歩みをよく考えよ」(1:5,7)というメッセージです。神が同じことばで二度も語っているのです。もう一つのメッセージ「あなたがたは、今日から後のことをよく考えよ」(2:15,18)です。ここに至っては、18節の二度を含めると、合計三度も語られていることになります。神のことばが二度、三度と語られているのは、それだけで特別なメッセージと受け止めなければなりません。今回の礼拝では前者のメッセージだけを取り上げます。後者のメッセージは今晩から始まる「スッコート」(集会Ⅰ)の中で取り上げたいと思います。

1.霊を奮い立たせられた主の牧者「キュロス」

●「あなたがたの歩みをよく考えよ」(1:5,7)、以前の訳では「あなたがたの現状をよく考えよ」でした。「現状」が「歩み」に改訳されています。原文は「デレフ」(דֶּרֶךְ)の複数形が使われています。「デレフ」は「道、旅、習わし」といった意味ですが、正確には「アル・ダルへーヘム」(עַל־דַּרְכֵיכֶם)となっていて、単に「今日の現状や、これからの歩み」だけでなく、「アル」(עַל)という前置詞が置かれていることで、「これまでの歩み、つまりバビロンでの捕囚経験と、さらに帰還してから今日までの歩みを含む」意味で、「よく考えよ」ということだと言えます。また「よく考えよ」の原文直訳は、「あなたがたの心を置け(=据えよ、留めよ)」「スィームー・レヴァヴへム」שִׂימוּ לְבַבְכֶם)です。そのように考えるなら、単に現状だけを見るのでなく、これまで神がなされたことも含めて、これからの歩みに心を留めることをも示唆していると言えます。特に、これまで神がなされたことについてはハガイ書には全く記されていないため、それを理解する伴侶(箇所)を他に求めなければなりません。その伴侶はエズラ記にあります。

【新改訳2017】エズラ記1章1~5節
1 ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就するために、【主】はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。
2 「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。
3 あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。
4 あとに残る者たちはみな、その者を支援するようにせよ。その者がどこに寄留しているにしても、その場所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んで献げるものに加え、銀、金、財貨、家畜をもってその者を支援せよ。』」
5 そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たちは立ち上がった。エルサレムにある【主】の宮を建てるために上って行くように、神が彼ら全員の霊を奮い立たせたのである。

●「ハガイ書」を理解するために、上記で記されていることが背景にあったことが分かります。エズラ記1章1節を見ると「エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就するために、【主】はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。」とあります。Ⅱ歴代誌 36章22節にも全く同じことが記されています。「文書にもした」ことが、後に、神のご計画が実現する上で重要な証拠となるのです。【主】がペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせて行わせたことが、その時には分からなくても、後に多くのことがつながって、結局のところ、神のご計画がなされていく要因となるのです。何という神の計らい、何という神の案配でしょうか。

●イザヤ書には「キュロス」という名前が、以下の箇所に2回出てきます。驚くべきことに、イザヤはキュロスが歴史の中に登場する140~150年程前に、神からの啓示によって、「キュロス」という実名の人物を預言しているのです。真の預言とは前もって書かれた歴史です。イザヤはその人物を全く知らずに語ったのでした。

(1)【新改訳2017】イザヤ書 44章28節
キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。エルサレムについては『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う。

●主はキュロスのことを、「わたしの牧者」と語っています。これは神の民の指導者、神の代理者として神の民を支配する王のことを意味します。聖書で「牧者、羊飼い」は、王や指導者の比喩で用いられます。その意味で、キュロスは神の民をバビロン捕囚の境遇から救い出す解放者であり、その特別な務めのために油注がれた王なるメシアの予型的人物です。「わたしの望むことをすべて成し遂げる」とありますが、成し遂げるその内容は三つあります。その一つ目は「バビロンの国を終わらせること」、二つ目は「捕囚の民を解放して故国に帰還させること」、三つ目は「神殿を再建させること」です。このことのために、神はキュロスをご自身のしもべとして用いられたのでした。

(2) 【新改訳2017】イザヤ書 45章1 節
【主】は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。
「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。

●「わたしは彼の右手を握り」とは、神が弱い者を支えるように、神の支配の下で神の務めをするようにし、彼を勝利の道に導くことを意味します。また、「彼の前に諸国を下らせ」とは、キュロスが諸国の征服者となることを意味します。「王たちの腰の帯を解き」の「帯を解く」とは休息する意味で、武力解除して無力にし、抵抗できないようにすることを意味しています。事実、キュロスがバビロンの最後の王ベルシャツァルを攻めたときは無血入場で、まさに預言されたとおりでした。

●イザヤ書45章は、キュロス個人に対する任命と約束を記した特別な箇所です。キュロスに対する主の召命の目的とその理由が語られています。神がキュロスを召された目的は以下の通りです。いずれも原文には「〜するため」という理由を表す前置詞「レアマン」(לְַעַמַן)があります。

① 神が唯一の真実の神であることを知るため
「それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」(3節)
② キュロス自身のためでなく、神のしもべイスラエルのため
「わたしのしもべヤコブのため、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたを、あなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書きを与える。」(4節)
③ 主をおいて他には神はいないことを人々が知るため
「それは、日の昇る方からも西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。」(6節)

●以上のことから、キュロスの召しの究極的な目的はキュロス自身のためではなく、イスラエルを通して現わされる神のご計画によって全世界の人々が主こそ真の神であることを知るためなのです。このことは、後に来られる御子イェシュア・メシアを通して実現・成就されます。キュロスはこのメシアの予型的存在として神に召され、用いられたと言えます。また、異邦人であるペルシアの王キュロスによってイスラエルの民が解放されたという事実は、イスラエルと異邦人とのかかわりの奥義をも予型しています。マタイの福音書の最初の章にある「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」の中に、異邦人の女性の名前が挿入されています。このことは、イスラエルの歴史の中に異邦人とのかかわりがあることを示唆しています。つまりイスラエルの完成のプロセスの中に、異邦人の助けが関与しているという事実です。この点からしても、キュロスの存在は予型的な意味を持っていると言えます。使徒パウロはこのことを奥義として啓示されました。

【新改訳2017】エペソ人への手紙3章6節
それ(=奥義)は、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。


2. 「霊を奮い立たせられた帰還者たちのかしら全員」

●神はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせただけでなく、帰還者たちのかしら(祭司たち、レビ人たち)の霊を奮い立たせたことが記されています。エズラ記2章には、捕囚の地バビロンから最初に帰還した者たちのリストが淡々と記されています。歴史書とはそういうもので、その背後にある人々の思いや、神の思いなどは記されていません。しかし歴史の中に生きる人々には生き生きとした思いがあるはずです。イザヤはやがて捕囚から帰還する者たちのために、神からの慰めのメッセージを語っていました。それが40章にあります。

【新改訳2017】イザヤ書40章1~2節
1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」

●「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」。ヘブル語では「ナハムー・ナハムー・アンミー」(נַחֲמוּּ נַחֲמוּ עַמִּי)です。この神の呼びかけは、神がご自分の民の罪を赦して、自由にして、新しく立ち上がらせようとする神の励ましであり、力づけです。主の民が悔い改めて(=主に立ち返って)、主のみおしえに従うようになったからです。 エルサレムに帰って来た帰還者たちは、ペルシアの王キュロスの勅令の中に神の慰めを感じたはずです。「その苦役は終わり、その咎は償われている。すべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている」とあります。「二倍のもの」とは長子に与えられる権利です。彼らは自分たちが神に対して罪を犯した者であることを知り、主に立ち返り、二代・三代かけて神が与えて下さった神の教え(トーラー)に従って歩む「トーラー・ライフスタイル」を築くようになりました。彼らはバビロンにおいて神を真剣に尋ね求めるようになって、神を見出したのです。そんな彼らに対して、神は再び長子としての権利を回復されたのです。捕囚から帰還した者たちは、そんな神の熱い思いを与えられた者たちであったのです。

●「神の慰め」にある励ましは、さらに深い意味があります。それが新約聖書に登場する「シメオン」と「アンナ」に表されています。「老シメオン」は使徒でも律法学者でもありません。エルサレムに住んでいる一般のユダヤ人でした。しかし彼は「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」(ルカ2:25)とあります。と同時に「聖霊が彼の上におられた」ともあります。この聖霊は、イェシュアの復活後の「いのちを与える霊」ではありません。やがて「聖霊が人の上におられる」とどういうことになるかを預言的に啓示しているのです。つまりそれは「聖霊によって告げられる」こと、「御霊に導かれる」ことが起こるということを示唆しているのです。御霊に導かれたシメオンが幼子イェシュアを抱いたとき、彼は神の救いのご計画の全貌を見たのです。それは「万民の前に備えられた救い」です。彼はそれを見たとき、安らかにこの世を去る(=眠る、死ぬ)ことができるという思いが与えられたのです。これが「神の慰め」なのです。神のご計画を担う者に与えられる特別な生きる力です。「ノア」はその時代に生きる者に「慰めを与える者」でした(創5:29)。ちなみに、「ノア」=「ヌーアッハ」(נוּחַ)は「安息する、休ませる、憩わせる」という意味で、これが名詞になると「マーノーアッハ」( מָנוֹחַ)となり、「永遠の身の落ち着きどころ」の意味となります。

●老シメオンがこの慰めを人に語ったとは記されていませんが、アシェル族のぺヌエルの娘アンナという女預言者が、シメオンのところに近寄って来て神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人に、神のご計画を実現する御子イェシュアのことを語ったとあります。「アシェル」は「幸い」という意味を持つ「アーシェール」(אָשֵׁר)、彼女の父「ぺヌエル」は「神の御前に、神に立ち返る」を意味する「ぺヌーエール」(פְּנוּאֵל)、彼女の名前「アンナ」は「ハンナー」(חַנָּה)で、その語源「ハーナー」(חָנָה)は「天幕を張る、宿営する」という意味を持っていますから、「アシェル」「ぺヌエル」「アンナ」の三つを綴ってみると、「神に立ち返って天幕を張ることは、なんと幸いなことか」というメッセージが浮かび上がってきます。「神の御前に天幕を張ること」は、復活されたイェシュアが「いのちを与える霊となられた」ことで成就します。つまり私たちの霊の中に神が住まわれることです。このように老シメオンとアンナの二人が、神のご計画とその全貌だけでなく、その内実をも啓示しています。この二人は神の慰めを待ち望み、それを確信して生涯を送り、かつ眠ったのです。このメッセージを伝えるのがエックレーシアの重要な務めなのではないでしょうか。そしてこの務めに不可欠なのが「霊」であり、霊によって奮い立たせられることなのです。

●ここまでをまとめると、神が歴史を動かすとき、「ペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた」だけでなく、「ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち全員の霊を奮い立たせた」ということは重要です。その「霊」の目的は、ひとえに「神の宮を建て上げるため」に他なりません。その目的を見失った者たち、つまり「総督ゼルバベル」と「大祭司ヨシュア」、そして「民の残りの者たち」のすべての霊を、神は再度奮い立たせて、宮を建て直すために、神は預言者ハガイに(同じくゼカリヤにも)臨んだのです。そのことが、ハガイ書1章14~15節に記されています。中断されていた主の宮の再建はその日から開始されたのです。それは、今日における私たちが、「霊によって生きること」を始めることに等しいのです。

3. 「あなたがたの歩みを考えよ」

【新改訳2017】ハガイ書1章1~9、12~15節
1 ダレイオス王の第二年、第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督
ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアに、【主】のことばがあった。
2 万軍の【主】はこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。【主】の宮を建てる時は』と言っている。」
3 すると預言者ハガイを通して、次のような【主】のことばがあった。
4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」
5 今、万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。
6 多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく、
衣を着ても温まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ。」
7 万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。
8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。──【主】は言われる──
9 あなたがたは多くを期待したが、見よ、得た物はわずか。あなたがたが家に持ち帰ったとき、
わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。──万軍の【主】のことば──それは、廃墟となった
わたしの宮のためだ。あなたがたがそれぞれ、自分の家のために走り回っていたからだ。

12 シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者すべては、彼らの神、【主】が預言者ハガイを遣わされたとき、彼らの神、【主】の御声と、ハガイのことばに聞き従った。民は【主】の前で恐れた。
13 【主】の使者ハガイは【主】の使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる──【主】のことば。」
14 【主】が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、
彼らは自分たちの神、万軍の【主】の宮に行き、仕事に取りかかった。
15 それは第六の月の二十四日のことであった。

(1) ユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアに、【主】のことばがあった。1~11節
(2) ユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアと、民の残りの者すべてに、【主】のことばがあった。12~15

●バビロン捕囚から解放されて故国への帰還を許されたユダの民たちは、単に帰還を許されたのではなく、エルサレムにおいて神殿を再建することがキュロス王の勅令でした。主に霊を奮い立たせられた最初の帰還者たちは早速、神殿の礎を据えましたが、周囲の敵の激しい妨害に遭い、希望は失望に変わり、工事再開のめどが立たないまま、神殿再建は18年間中断してしまいます。時を経るうちに、神中心の生き方よりも自分勝手な生活を第一にする生き方へと変質してしまいました。外的な要因よりも内的要因に問題があるのです。のろいをもたらす霊的な問題があったのです(1:2~6)。ですから、こうした状況を打破するためには、神からの強力なインパクトが必要だったと言えます。

●主が指導者たちと民の霊を「奮い立たせ」て、18年間頓挫していた神殿の工事を再開させたことが記されています(1:7~8, 13~14)。特に注目すべきは、14節の「ルーアッハ」(רוּחַ)です。「心」を意味する「レーヴ」(לֵב)ではありません。心のもっと奥にある神のみこころを受信する「霊」の部分が「奮い立たせられた」(「ウール」עוּר)のです。エズラ記によれば、最初に帰還した者たちも、「神にその霊を奮い立たせられた者たち」でした(エズラ1:5)が、その霊は弱くなり、その結果本来の使命を後回しにしてしまったのです。18年の空白、この空白は何を意味するのでしょうか。それは神が預言者を遣わさなければ、彼らは本来の神とのかかわりを再び建て上げ、再建工事を再開することができなかったことを意味します。時は、「ダレイオス王の第二年、第六の月の一日」に、主は預言者ハガイを通して、まず指導者であるユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアに対して「民の時に対する理解」について語り、その後に、指導者と民とに対して語りかけています。その語りかけは「警告と刑罰」でした。

4. 神の民に対する主の促しと約束

●当時の民の状態は、多くの種を蒔いてもそれに見合う収穫がなく、食べても飲んでも満たされない、衣類を重ね着しても一向に温まらない、・・すべての働きが徒労と虚しさに終わるだけでした。それは、主が日照りを呼び寄せられたからでした。それゆえに神の祝福がなかったのです。しかしこの刑罰の本意は、神の民に神を信頼することを教える(学ばせる)ためのレッスンです。帰還して来た民の多くはバビロンの地で捕囚となっていましたが、そこではある意味、バビロンの支配のもとで安定した生活がなされていたのです。イスラエルの神こそ生存と防衛の保障を与える方であることを、新しい世代の者たちが学ぶために置かれた処置(境遇)でもあったのです。神への信頼のレッスンはすべての時代における神の民の必須科目です。神への信頼は、いついかなる時でも、神を第一とすることです。これは実際の生活(経験)でしか学ぶことができません。内なる恐れのゆえに、神以外のものを第一にすることを、「偶像礼拝」として聖書は位置づけています。神の民がすべての祝福の基である神を第一として信頼することを、主はいつでもどこでも、誰に対してでも、求められるのです。しかし人間的な視点からすれば、神への信頼(神第一優先)の歩みは不安定そのものに見えてしまうのです。ですから信仰が必要であり、その信仰も主から霊を奮い立たせられる必要がありました。神を第一にできないその根底に「恐れ」があります。その「恐れ」は霊が生きていない証拠です。ですから、このことをよく考えなければならないのです。

●8節には、神の呼びかけ、神の促しがあります。それは「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す」というものです。この主の呼びかけ(促し)は5つの動詞をもってたたみ掛けられています。

①「山に登れ」(「アーラー」עָלָה)  
②「(木を)運んで来い」(「ボー」בּוֹא)
③「(宮を)建てよ」(「バーナー」בָּנָה)  
④「わたしは(=主は)喜ぶ」(「ラーツァー」רָצָה)
⑤「栄光を現す」(「カーヴァド」」כָּבַד)

画像の説明

●「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ」をたましいで読むならば、目に見える建築の話となりますが、霊で読むならばもっと深い話になります。聖書における「山」(冠詞付きの山「ハル」הַר)は、エルサレムにおいてなされる神の隠されたご計画の成就の象徴であり、その山に「登り」、神のご計画の視点から見ることが求められているのです。また「木」はその数々の神のことばや神の約束などを意味します。それらを「運んで来る」とは、神のご計画とみことばの約束を照らし合わせてそのことを確証することを意味しています。そのようにして、神と人がともに住む家(=「宮」)を建て上げる必要があることを、「ヴェヌー」(「バーナー」בָּנָהの命令形」)で表しているのです。その家を建てることが神のご計画の目的だからです。単なる目に見える家(神殿)を建てるということではありません。預言者が語る神のことばも、常に「霊であり、いのち」のことばなのです。それゆえパウロが言っているように、「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」ということばに堅く立つべきです。

●だからと言って、それは私たちの頑張りでできるわけではありません。ですから神は宮を建てようとする者たちの霊を奮い立たせる必要があるのです。「宮」とは私たち自身の霊でもあるのです。イェシュアは神殿を「わたしは、三日で建てよう」(新改訳改訂第三版)と言われました。【新改訳2017】では「三日でそれをよみがえらせる」(ヨハネ2:19)と改訳されています。イェシュアが三日で建てることができたのは、「いのちを与える霊」によって人の霊の中に建てる家です。この家こそキリストにある「新しい創造」なのです。単なる「会堂建築」の話ではありません。この話は、創世記2章22節「神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ(「バーナー」בָּנָה)、人のところに連れて来られた。」に預言されていた奥義です。

●主の叱責と警告を受けた民の指導者および民たちは、主が遣わされた預言者ハガイのことばに聞き従いました。なぜなら、彼らはみな主を「恐れた」からでした。そんな彼らに対して主は、再度、ハガイを通して、「わたしは、あなたがたとともにいる」(ハガイ1:13)とご自身の臨在を約束して、励ましています。主の臨在の約束は、真に主を信頼する者に対する約束です。神以外のものに頼りながら、神を第一にし神を愛することをせずに、主の祝福だけを求めることはできないからです。神の民が神のご計画を知り、神のみことばへの信頼を回復するそのとき、彼らの内にある「霊」は必ずや「奮い立たせられる」「呼び起こされる」(=「ウール」עוּר)のです。それは、盲人の目が開かれることと全く同義です。メシアにしかできないことなのです。ここにハガイが果たした務めがあり、「霊性の回復の鍵」があるのだと信じます。

三一の神の霊と私たちの霊はともにあります。

2023.10.1(主日礼拝/プレ・スッコート)
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