****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ゼパニヤ書〔צְפַנְיָה〕

ゼパニヤ書 (「ゼファヌヤー」צְפַנְיָה)

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ベレーシート

●十二の小預言書の第九回目は「ゼパニヤ書」を取り上げます。「ゼパ二ヤ」という名前は「隠す、秘め置く」を意味する「ツァーファン」(צָפַן)と「主」を意味する「ヤー」(יָה)からなり、「主が隠される事柄、主が秘め置いている事柄」という意味になります。教会の中でゼパニヤ書からメッセージが語られることは少ないと思いますが、「終わりの日」に出現する「イスラエルの残りの者」に対する神の重要なメッセージが秘められているとすれば、私たちは謙虚に耳を傾けて、そこに隠されている事柄を見出す者でなければなりません。

●小預言書で語られている預言の中には、すでに歴史の中で成就しているものもあります。しかし、多くは「終わりの日」に向けられたものです。ですから、預言書をこれからの書として読む必要があります。「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう」(箴 29:18)のです。「幻」(「ハーゾーン」חָזוֹן)とは、実現するかどうかが分からない幻ではなく、必ず実現する「神のご計画」を意味します。それはイェシュアが語った「御国の福音」そのものなのです。自分本位に立案した「幻」であるなら、「民は好き勝手にふるまう」とあり、教会の本来の使命は果たせなくなってしまうのです。「幻」(「ハーゾーン」חָזוֹן)はまさに「終わりの日」に実現する神のご計画です。そこに目を向ける必要があるのです。「ゼパ二ヤ書」にある「イスラエルの残りの者」に対する神のメッセージに耳を傾けながら、この小預言書独自の預言を取り上げてみたいと思います。

1. イスラエルの残りの者 

●「イスラエルの残りの者」(「シェエーリート」שְׁאֵרִית)について知ることは極めて重要です。「終わりの日」に神が地の四方から呼び起こし、集められる「全イスラエル」だからです。これはいまだ歴史上には存在していません。しかし必ず実現・成就する14万4千人(象徴数)からなる集団です。使徒パウロはこの集団に関して、「イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。『たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。・・』」と述べています(ローマ9:27)。つまり「残りの者」だけがメシア王国に入るのです。ちなみに携挙されて御国の民とされるエックレーシアも、同じく14万4千人(象徴数)です(黙示14章)。この「イスラエルの残りの者」については、預言者イザヤとエレミヤが多く語っていますが、小預言書の中ではアモス(3回)、ミカ(5回)、ゼパ二ヤ(3回)、ハガイ(3回)、ゼカリヤ(3回)で語られています。今回のゼパ二ヤ書では3回も記されています。

①【新改訳2017】ゼパ二ヤ書 2章7節
海辺はユダの家の残りの者(שְׁאֵרִית)の所有となる。彼らは海辺で羊を飼い、日が暮れると、アシュケロンの家々で横になる。彼らの神、【主】が彼らを顧みて、彼らを元どおりにされるからだ

②【新改訳2017】ゼパ二ヤ書 2章9節
わたしは生きている。──イスラエルの神、万軍の【主】のことば──それゆえ、モアブは必ずソドムのようになり、アンモン人はゴモラのようになり、いらくさの茂る所、塩の穴、とこしえに荒れ果てた地となる。わたしの民の残りの者(שְׁאֵרִית)、そこをかすめ奪う。わたしの国民の生き残り(יֶתֶר)が、そこを受け継ぐ。」

③【新改訳2017】ゼパ二ヤ書 3章13節
イスラエルの残りの者(שְׁאֵרִית)は不正を行わず、偽りを言わない。その口の中に欺きの舌は見つからない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はいない。」
「彼らは草を食べて伏す」とは、イスラエルの残りの者がメシアの保護にある羊にたとえられています。

●神の契約を破棄した不義なるイスラエルには神の審判が臨みます。しかしその民の中から、あたかも切り株から生命が芽生えるように、「残りの者」という少数の真のイスラエルが生じて聖なる裔(すえ)を形作ります(イザヤ6:13)。この「聖なる裔(すえ)」こそ「残りの者」なのです。この「残りの者」がメシア王国(千年王国)、および「聖なる都・新しいエルサレム」のメンバーなのです。この「イスラエルの残りの者」が、短い期間ですが、御国の福音を「全世界に宣べ伝える」ことによって、大勢の異邦人を救いに導くのです(マタイ24:14、黙示7:9~17、12:5, 10~12)。この「大勢の異邦人」は男性名詞「ゴーイム」(גּוֹיִם)で、黙示録12章5節では「男の子」という集合名詞で表されています。

●「イスラエルの残りの者」は「全イスラエル」として地の四方から集められる、神のしもべたちです。彼らの額には神の印が押されるため、獣と呼ばれる反キリストによる未曾有の苦難にあっても死ぬことがありません。そして彼らはメシア王国に生身のからだで入ることになり、大勢の子孫を増やすことになるのです。彼らはもはや「不正を行わず、偽りを言わない。その口の中に欺きの舌は見つからない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はいない。」と預言されています。彼らはイスラエルの周辺の土地を受け継ぎ、本来の神の民としての特権を取り戻されるのです。しかし、こうした「イスラエルの残りの者」が立ち上がって来ると同時に、神はすべてのものを呪われた大地の面から「取り除く」のです。これが反キリストによる未曾有の大患難なのです。

2. 神である主の前に静まれ。主の日は近い。

【新改訳2017】ゼパ二ヤ書1章2~4, 6~8節
2 「わたしは必ず、すべてのものを大地の面から取り除く。──【主】のことば──
3 わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。悪者どもをつまずかせ、人を大地の面から断ち切る。──【主】のことば──
4 わたしは手をユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。その場所からバアルの残りを、偶像の祭司たちの名を、その祭司らとともに断つ
6 【主】に従うことをやめた者ども、【主】を尋ねず求めない者どもを断ち切る。」
7 口をつぐめ。【神】である主の前で。【主】の日は近い。【主】はいけにえを備え、招いた者たちを聖別されたからだ。
8 「【主】であるわたしが獣を屠る日に、わたしは首長たち、王子たち、すべて外国の服をまとった者たちを罰する。

●原文には、「取り除く」と訳されたヘブル語「スーフ」(סוּף)の前に、「集める」を意味する「アーサフ」(אָסַף)という不定詞があります。つまり「集めて、取り除く」というニュアンスで、「取り除く」ことを強調しています。【新改訳2017】ではそこを「必ず」と意訳しています。つまり完全な破滅です。ゼパニヤ書では「取り除く」(「スーフ」סוּף)が3回(1:2, 3, 3)も使われています。そしてさらに3、4節には「断ち切る」「断つ」と訳された「カーラット」(כָּרַת)があります。このさばきはエルサレムのすべての住民の上に伸ばされています。

●6節にも「断ち切る」と訳されていますが、ここにはそのような意味の語彙はなく、「囲む」という意味の「スーグ」(סוּג)が使われています。3節以降に主が「断ち切る」者たちのリストが記されており、6節の「【主】に従うことをやめた者ども、【主】を尋ね求めない者ども」もその範疇に入るのだという意味で意訳されています。そう考えてみるなら、「イスラエルの残りの者」とは【主】に従い、【主】を尋ね求める者たちなのです。それは彼らが「恵みと嘆願の霊」によって悔い改めるだけでなく、聖霊によって主を「尋ね求める」最強の者となることを意味しています。これを主ご自身が創り出すのです。「主を尋ね求める(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)」、「主を求める(「バーカシュ」בָּקַשׁ)」という霊性は、ダビデの霊性であり、花嫁の霊性でもあります。この霊性を「イスラエルの残りの者」(全イスラエル)に回復するのです。反キリストに従う偶像礼拝、混合宗教の危険性はなんとなく生ずるのではなく、ダビデの霊性を失う時に入り込んで来るのです。携挙されるエックレーシア(花嫁)にも、同様の霊性が求められているはずです。それは以下の7~8節で納得することができます。

【新改訳改訂第3版】ゼパニヤ書1章7~8節
7 神である主の前に静まれ。【主】の日は近い。
(【新改訳2017】では、「口をつぐめ。【神】である主の前で。【主】の日は近い。」)
【主】が一頭のほふる獣を備え、主に招かれた者を聖別されたからだ。
8 【主】が獣をほふる日に、わたしは首長たちや王子たち、外国の服をまとったすべての者を罰する。

●「神である主の前に静まれ」の「静まれ(口をつぐめ)」は、ヘブル語の「ハス」(הַס)という間投詞が使われており、神の主権的な決定としてのさばきに対して文句は言わせないという「問答無用」のニュアンスです。「一頭のほふる獣」とは、反キリストのことで、彼を備える目的はひとえに「主に招かれた者」、すなわち「イスラエルの残りの者」を「聖別する」ためなのです。以下がそのことを指しています。

【新改訳2017】ゼパニヤ書2章3節
すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、【主】を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、【主】の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。

●主の燃える怒りが襲わないうちに、主に立ち返るように促しています。一言で言うならば、主を「尋ね求める」(「バーカシュ」בָּקַשׁ)ということです。もし民が「主を尋ね求め」「義を尋ね求め」「柔和さ(=神の教えに従順なこと)を尋ね求める」ならば、そのさばきから「かくまわれる、身を守られる」(「サーッタル」סָתַּר)かもしれない、と主は約束しておられます。「イスラエルの残りの者」に「恵みと嘆願の霊」が注がれる(ゼカリヤ12:10)背景には、「主を尋ね求める」渇望があったと推察できます。

●「渇望用語」の中で、「バーカシュ」(בָּקַשׁ)は最も多く使われている語彙(225回)です。とりわけ、心情的な面において求めるところに特徴があります。たとえば、「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている(בָּקַשׁ)。」(詩篇27:4)。「まず神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33)とありますが、ここの「求める」をヘブル語にすると「バーカシュ」です。同じく、「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)の「求めなさい」も「バーカシュ」です。このような主に対する渇望が、イスラエルに接ぎ木されるエックレーシアである私たちに、果たしてあるでしょうか。後の者であるエックレーシアが主の恵みに先にあずかっているのには、大きな責任があるのです。

3. 「唇を変えて清くする」という預言

●3章9節にある「そのとき、わたしは諸国の民の唇を変えて清くする」という預言に目を向けたいと思います。この預言はゼパニヤ書独自のものです。【NKJV】では、For then I will restore to the peoples a pure language,と訳されています。ヘブル語原文は以下のようになっています。 

35%,画像の説明

●「唇を・・清くする」を、NKJVは a pure language(純正な言語に)と訳しています。諸国の民に対して神が「純正な言語に変えて(ひっくり返して、覆して)清くする」ことによって、はじめて諸国の民が一つとなって主を礼拝し、仕えるようになるという預言です。それは「そのとき」という神の時(カイロス)に、神の主権によってなされるということです。そのことを理解するためには、「くちびる、言葉、言語」と訳された「サーファー」(שָׂפָה)について知る必要があります。このことばの初出箇所は創世記11章(1, 6, 7, 7, 9節)です。創世記11章1~9節には「バベルの塔」を築こうとして、神がそれを頓挫させた出来事が記されています。

【新改訳2017】創世記11章1~9節
1 さて、全地は一つの話しことば(「サーファー・エハート」שָׂפָה אֶחָת)、一つの共通のことばであった
2 人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。
3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」 
彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。
4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」
5 そのとき【主】は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。
6 【主】は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことば(שָׂפָה אַחַת)を持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。
7 さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
8 【主】が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで【主】が全地の話しことば(שְׂפַת כָּל־הָאָרֶץ)を混乱させ、そこから【主】が人々を地の全面に散らされたからである。

●洪水の後、ノアとその家族からはじまった新しい時代において、言語は一つでした。その流れがバベルの塔の出来事の後から変わります。つまり、「一つの話しことば」「一つの共通のことば」ではなくなったのです。今日、世界に多くの言語があるのはそのためです。「一つの話しことば」を持つことが大きな力を持つということを、神である主は知っておられました。もし「一つの話しことば」を持った神に背く者たちが、神なき世界を造ろうとして集まり、自分たちの名を上げようと、しかも「一つところ」に集結したならば、とどまるところ知らず状態になることを神は懸念し、それを頓挫させるために「ことば」を混乱させ、全地に散らされました。これが「バベル」(בַּבֶל)の出来事でした。

●「話しことばを混乱させ」とは、コミュニケーションが取れなくなってしまうことを意味します。つまり異なる概念では、コミュニケーションが取れなくなるのです。たとえば、日本人が持つ「神」という概念と、聖書の「神」の概念は全く異なります。「神」という言語表現は同じでも、その意味する概念が異なるなら、同一(共通)の理解をすることは不可能です。人本主義(ヘレニズム)の概念をもった言語と、神中心(ヘブライズム)の概念の言語では、根本から異なるのです。神のご計画において、「イスラエルの残りの者」が神に立ち返り、諸国の民とひとつになって神を礼拝し、神に仕えるようになるためには、同じ概念を持つ言語が必要なのです。それを神は準備されるのです。

●実に、1948年にイスラエルの建国において神はこのことをなされました。二千年近く話されなかったヘブル語を、神がベン・イェフダーという人を通して復興させたのです。ヘブル語は神の概念を正しく理解する上で非常に重要な言語です。それは神がご自身を啓示する上で、またそのご計画を知らせるために、神ご自身が選ばれた「純正な言語」であるからです。そして何よりもそれは、御子イェシュアについて証しすることにおいて「純正な言語」だということです。9節の「清くする」のヘブル語は、「バーラル」(בָּרַר)の受動態分詞が形容詞的に使われています。この「バーラル」は、二根字〔בּר〕から派生する以下の三つの動詞のうちの一つです。「御子」(息子)のことをヘブル語で「バル」(בַּר)と言います。
①「バーラル」(בָּרַר)は「きよくする、純化する、輝かす」の意味。
②「バーラー」(בָּרָא)は「創造する」の意味(神の行為に使われます)。
③「バーラー」(בָּרָה)は「食べる、選ぶ」の意味(人の行為に使われます)。

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●総括すると、神が諸国の民の言語を、純化された神の概念を持つ言語へと創造し、人々がそれを食べる(理解する)ことを通して、神の前に一つの民としていく、という主権的な意味合いを持っていると考えられます。だとするならば、私たちは神がイスラエルの建国を通して復興してくださったヘブル語を、神を理解する「純正な言語」として受け入れる必要があるのではないでしょうか。メシア王国では、私たち(エックレーシア)の霊もたましいも、そしてからだも、霊に満たされて全開にされるため問題なくヘブル語を話し、共通の概念をもって神のみことばを理解する者となるのです。

4. 「喜び歌え。・・主は、あなたのただ中におられる」

【新改訳2017】ゼパ二ヤ書3章14~20節
14 娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
15 【主】はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、【主】は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。
16 その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。
17 あなたの神、【主】は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。
18 「例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。彼らはあなたから離れていた。そしりがシオンへの重荷であった。
19 見よ。わたしはそのとき、あなたを苦しめたすべての者を罰する。わたしは足を引きずる者を救い、散らされた者を集め、彼らの恥を全地で栄誉ある名に変える。
20 そのとき、わたしはあなたがたを連れ帰る。そのとき、わたしはあなたがたを集める。まことに、あなたがたの目の前でわたしがあなたがたを元どおりにするとき、わたしは、地のあらゆる民の間であなたがたに栄誉ある名を与える。──【主】は言われる。」

(1) 爆発的な歓喜 

●3章14節以降はゼパニヤ書の中で最もエキサイティングな箇所です。主がこの地上に再臨する時、ダビデの幕屋が回復します。ダビデの治世において突如始まった「ダビデの幕屋」の礼拝はまさに天の礼拝の啓示であり、その基調は喜びでした。14~20節には「喜び」を表わすヘブル語が立ち並んでいます。しかも、人が神に対して「喜ぶ」だけでなく、「主は・・高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」とあるように、神も人も「喜び」「楽しむ」世界です。何とも心躍る約束です。とりわけ、主が「高らかに歌って、喜ばれる」というのは珍しい表現です。というのは、この「喜ばれる」は「ギール」(גִּיל)という動詞で、人間に使われる場合には「大喜びする」「小躍りして喜ぶ」のですが、なんとここでは、この動詞が神に使われているのです。そのような喜びをご紹介したいと思います。メシアニック・ジューであるPaul Wilbur氏の「Ronni Bat Zion」
(רָנִּי בַּת־צִיֹּון)(喜び歌え、シオンの娘よ)という預言的な賛美で、You Tube からのものです。ユダヤ人の集会ではなく、エルサレムで開催されたエックレーシアの賛美集会の収録です。アドレスを貼っておきます。

●「御国の福音」を口で語ることもすばらしいですが、P. Wilbur氏のように、音楽でそれを表現することも素晴らしいことです。このような表現に、私自身、魅了されます。

14 娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ
17 あなたの神、【主】は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。

A. 神に対する民の「喜び」
①「喜び歌え」・・「ラーナン」(רָנַן)喜びをもって賛美すること。命令形「ロンニー」(רָנִּי)
②「喜び叫べ」・・「ルーア」(רוּעַ)喜びの叫びを上げること。命令形は「ハーリーウー」(הָרִיעוּ)
③「喜び躍れ」・・「サーマハ」(שָׂמַח)と「アーラズ」(עָלַז)の二つの語彙が含まれています。それぞれの命令形は「シムヒー」(שִׂמְחִי)、「アールズィー」(עָלְזִי)。
B. 民に対する神の「喜び」
①「大いに喜ぶ」・・「スース」(שׂוּשׂ)+「シムハー」(שִׁמְהָה)
②「高らかに歌う」・・「ラーナン」(רָנַן)
③「喜ばれる」・・「ギール」(גִּיל)

●このように「喜び」という語彙がまとまっている箇所は聖書でも珍しいのです。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」(Ⅰペテロ1:8〜9)とあります。「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍る」とは尋常な喜びではありません。この箇所をヘブル語にすると、「喜び」(「シムハー」שִׁמְהָה)をもって「躍る」(「ギール」גִּיל)と訳されます。しかしその喜びは、「その日」の喜びに比べるならば、喜びの「種」のような、「つぼみ」程度のものでしかありません。メシア王国における「喜び」の結実は、三十倍、六十倍、百倍という私たちの想像を絶するものです。それゆえ私たちは、「花婿を迎える花嫁」のようにひたすら花婿を慕い求める者とならなければなりません。「その日」「そのとき」にもたらされる「ことばに尽くせない」喜びを、その麗しさを、みことばと御霊によって思い描く者となりたいものです。

(2)「あなたのただ中におられる主」

●15節と17節にある「(あなたの神)主は、あなたのただ中におられる」ということばに注目したいと思います。「あなた」は「イスラエルの残りの者」のことです。「あなたのただ中におられる」というフレーズは、ヘブル語で「ベ・キルベーフ」(בְּקִרְבֵּךְ)です。この「ベ・キルベーフ」は、「〜の中に」(in)という意味の前置詞「ベ」(בְּ)に、「あなたの」という人称語尾が付いた名詞と「中、内部」(within)を意味する「ケレヴ」(קֶרֶב)が一つになったフレーズです。それを新改訳も新共同訳も「あなたのただ中に」と訳しているのです。これは「人の霊の中」を意味します。ちなみに「ケレヴ」(קֶרֶב)の女性名詞は「キルヴァー」(קִרְבָה)ですが、その意味は「近くにいること」を意味します。詩篇73篇の最後の節(28節)で、「悪者が栄えている」ことに対する妬みによる霊的葛藤の果てにたどりついた結論が記されています。「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」(新改訳第三版)。神に近くあること、それが至福の世界であることを悟った作者の告白です。ちなみに、ヘブル人への手紙の著者は、「神に近づくこと、神の近くにいること」、それが「救い」だと教えています。

(3) 「そのとき、わたしはあなたがたを連れ帰る。そのとき、わたしはあなたがたを集める。」

●14〜17節では「シオンの娘」(「バット・ツィッヨーン」בַּת־צִיּוֹן)、「エルサレムの娘」(「バット・イェルーシャーライム」בַּת יְרוּשָׁלַיִם)が単数の「あなた」で呼ばれています。ゼパニヤ書は本来ユダの民に対して語られた預言ですが、神のみこころではアッシリアによってすでに滅びて離散したエフライム(北イスラエル)も決して忘れられてはいません。そのことが、18節以降の「例祭から離れて悲しむ者たち」「彼ら」という表現となっています。彼らも「イスラエルの残りの者」(=足を引きずる者=ヤコブ=全イスラエル)として、必ず20節の祝福に与るようになるのです。その神の恩寵が、以下の動詞によって表わされています。

(1) 「集める」(18, 19, 20節)・・・・・・・・「カーヴァツ」(קָבַץ)
(2) 「連れ帰る」(20節)・・・・・・・・・・・「ボー」(בּוֹא)
(3) 「帰す(繁栄を元どおりにする)」(20節)・・「シューヴ」(שׁוּב)
(4) 「(名誉と栄誉を)与える」(20節)・・・・・「ナータン」(נָתַן)

●「そのとき」といわれるメシア王国の時には、神の恩寵として選びの民である「シオンの娘」を、単に「集め」て「連れ帰る」だけでなく、彼らに本来与えられていた名誉と栄誉という特権をも回復してくださるのです。これが聖書のいう「御国の福音」であり、異邦人である私たちはその祝福に信仰によって接ぎ木されたに過ぎないのです。

ベアハリート

●今回はゼパニヤ書における「御国の福音」を見てきましたが、この書にしかない「わたしは諸国の民の唇を変えて清くする」という預言はとても重要です。ヘブル語を学ぶということは、御⼦イェシュアの観点から聖書を学ぶことです。聖書のはじめから終わりまでの全体が神からの啓⽰の書であり、すべてが御⼦イェシュアを啓⽰している書だからです。ヘブル語を学ぶことは、その鍵を持つことを意味します。またそれは同時に、⼈間中⼼のヘレニズムの世界から神中⼼のヘブライズムの世界へ渡って来ることを意味します。特に「終わりの時代」において、ヘレニズム(人間中心)に対抗できる唯⼀の道はヘブライズム(神中心)のほかにはありません。1948年以降、神はその道を回復し始めておられます。神のご計画に参与するためにも、ヘブル語を学ぶことはとても価値のある取り組みと⾔えるのではないでしょうか。

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。 

2023.9.3
a:273 t:1 y:0

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