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シェバの女王の訪問

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33. シェバの女王の訪問

【聖書箇所】Ⅱ歴代誌 9章1節~31節

ベレーシート

  • この章は、ソロモンの名声と知恵とを伝え聞いたシェバの女王(名前はありません)が、エルサレムを来訪し、ソロモンに謁見した出来事が記されています。「シェバ」(שְׁבָא)は旧約では商業的繁栄を誇った貿易国として知られています。サウジアラビアの南端であり、セム系です。シェバの女王の訪問によって、客観的に、ソロモンの名声は本当であり、彼女が伝え聞いていた以上のものであったことが明らかにされたことを伝えています。

1. シェバの女王の来訪の目的は「ソロモンをためすため」

  • 「ためす」というヘブル語は「ナーサー」(נָסָה)です。旧約では36回使われています。最初の例は、創世記22章1節ある「神はアブラハムを試練に合わせられた」とあるように、それはアブラハムの信仰が本物であるかどうか、彼の生涯における最後のテストでした。次の例では、水の問題で、主がモーセを試みられています(出15:25)。さらに主はパンのことで民が主を信頼するかどうかを試みます(出16:4)。民が主を試みることもあります(出17:2)。
  • ここでは(Ⅱ歴代誌9章)では、シェバの女王がイスラエルの王ソロモンを「ためした」に来たのです。その試しは「難問を果たして解けるかどうか」でした。その難問の内容が何であったのかは記されていませんが、「心にあるすべてのこと」を質問したのでした。そして、その難問をソロモンはすべて解き明かしたとあります(9:2)。
  • シェバの女王はソロモンの知恵のみならず、宮殿とそこに仕えている家来たちの態度や服装を見、また主の宮に上る階段を見て、「息も止まるばかりであった」とあります。
  • ソロモンの名声を伝え聞いたシェバの女王が目にしたものは、次のことばによく表わされています。

    新改訳改訂第3版 Ⅱ歴代誌9章5~8節

    5 彼女は王に言った。「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。
    6 実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、彼らの言うことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはあなたの知恵の半分も知らされていなかったのです。あなたは、私の聞いていたうわさを上回る方でした。
    7 なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできるこの、あなたの家来たちは。
    8 あなたを喜ばれ、その王座にあなたを着かせて、あなたの神、【主】のために王とされたあなたの神、【主】はほむべきかな。あなたの神はイスラエルを愛して、これをとこしえにゆるがぬものとされたので、彼らの上にあなたを王として与え、公正と正義とを行わせられるのです。」


2. やがて私たちもシェバの女王と同じことを言う時が来る

  • シェバの女王が口にしたことは預言的です。なぜなら、主にある私たちも、ソロモンよりもまさるメシア・イェシュアによる神の王国が到来するときは、同じようなことばを発するに違いないからです。王であるイェシュアの知恵、富、誉れ、力、勢い、義と公正をもっての統治は、私たちの想像をはるかに越えることでしょう。またその王国に住む主の民は、心から王なるメシアを愛し、慕い、主を知ることにおいてだれも教える者がないほどになります。その国はすべての領域においてシャロームをもたらします。戦争もなく、病気もなく、長寿、富の豊かさ、正義と公正のある神の統治です。
  • シェバの女王の預言的発言は、メシアの再臨によって実現する神の国に対する真の希望を抱かせます。

3. 地上のすべての王たちも、ソロモンの知恵を聞こうとして謁見を求めた

  • シェバの女王のみならず、神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとして、ソロモンに謁見を求めています。そして毎年、決って多くの贈り物を携えて来た(9:24)とあります。このこともやがて神の国が実現した暁に起こる光景であり、まさに預言的です。有名な預言としてイザヤ書2章1~5節を見てみましょう。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書2章2~5節

    2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
    3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。
    4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
    5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも【主】の光に歩もう。


4. 「驚きの表現」について

【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代誌9章3~4節
3 シェバの女王は、ソロモンの知恵と、彼が建てた宮殿と、
4 その食卓の料理、列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たちとその服装、【主】の宮に上る階段を見て、息も止まるばかりであった

画像の説明

  • この部分だけを取り上げてそのまま理解すると、彼女は死んだことになります。しかしこれは驚きを表わすヘブル的慣用句です。日本人の場合でも、非常に驚いたときに「息がとまるほど」という言い方をしますが、ヘブル人たちも似たような表現をするようです。驚きと息の関係を表わす類語は以下の通り。

息の根が止まるよう/これまで見たこともない光景が眼前に展開されるみたいに息を呑んだまま唖然となる/深い驚きを吐き出すようにため息をつく/思わず息の止まるような心持ちになる/息が詰まるほど驚く/息を呑む /息が詰まったように立ちすくむ/思わず息を呑む/息もつけないほど驚く  

驚きと息の関係は人間の機能的反応のゆえに、感情表現として、古今東西変わらないのかもしれません。
●口語訳「全く気を奪われてしまった」
●新共同訳「息もとまるような思いであった」
●新改訳「息も止まるばかりであった」
●尾山訳「気を失うほどに驚いてしまった」
●文語訳「全くその気を奪はれたり」
●バルバロ訳「気を失うほど驚いた」
●岩波訳「圧倒された」

  • シェバの女王の驚きは尋常なものではなかったようです。彼女は目に見えるものに驚いたのですが、私たちは、目には見えない霊的なものに気を失うほどの驚きを感じたいものです。使徒ヨハネはパトモス島で「人の子のような方」を見たとき、彼は驚き圧倒されて死んだ者のようになりました(黙示録1:17)。新共同訳は「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。」と訳していますが、ここもヘブル的慣用句から来ているように思います。

5. ソロモンの治世は文字通りの黄金時代であった

  • 13節を見ると、「一年間にソロモンのところに入って来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。」と記されています。シェバの女王も百二十タラントの金をソロモンに贈っています。まさに、象牙で作られた王座に純金をかぶせるほど、金が豊かにふんだんに使われていました。金は富みと豊かさの象徴です。したがってソロモンの時代には、銀は価値あるものとはみなされていなかったのです(20節)。
  • 「六百六十六」という数字が出てきます(13節)。聖書ではこの数字は人間を表わす数字です。目に見える人間世界を意味する数字と言えます。黙示録では獣の数字として使われています。しかし、ここでは、地上の目に見える世界を意味し、そこでの最高の富を表わすものとなっています。しかし、ソロモンにまさる方であるメシア・イェシュアの前では無きに等しいことを示唆する数字でもあります。ちなみに「七百七十七」は神の救いの数字です。死のさばきの先にある「慰め」を意味する「ノア」と名づけた父レメクの一生は「七百七十七」年であったと聖書は記しています(創世記5:31)。

2014. 3.1


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