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ゴグに対するさばきと神の主権の現われ

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37. ゴグに対するさばきと神の主権の現われ

【聖書箇所】 39章1~29節

ベレーシート

  • 終末における神の敵との戦いは、キリストの再臨時の「ハルマゲドンの戦い」もあれば、千年王国の終わりにある「ゴグとの戦い」があります。いずれも、その時には自然界の異変(豪雨、雹、火と硫黄が降る、大地震など)があります。イェシュアの生涯におけるサタンとの地上での戦い(十字架上)の時にも、正午~午後3時までは太陽が隠れて全地は暗闇となりました。神殿の幕が上から下に真っ二つに裂け、大地震が起こり、岩が避けました。墓は開いて多くの聖徒たちのからだが生き返りました。こうした出来事はいったい何を物語っているのでしょうか。
  • 39章では、21~22節を挟むようにして、「ゴグに対する神のさばき」(1~20節)と、これまでなんども語られてきた「イスラエルの回復」(23~29節)が記されています。この二つの出来事における「共通項」はいったい何でしょうか。その点を思い巡らしたいと思います。

1. 想像を越えるほどのゴグの大軍隊の死

  • メゴグの地の(メシェクとドバルの)大首長であるゴグに対して主は立ち向かいます。

    【新改訳改訂第3版】エゼキエル書 39章2節
    2 わたしはあなたを引き回し、あなたを押しやり、北の果てから上らせ、イスラエルの山々に連れて来る。

    (にもかかわらず)
    3 あなたの左手から弓をたたき落とし、右手から矢を落とす。
    4 あなたと、あなたのすべての部隊、あなたの率いる国々の民は、イスラエルの山々に倒れ、わたしはあなたをあらゆる種類の猛禽や野獣のえじきとする。5 あなたは野に倒れる。・・

  • 神のなさることにはすべて目的があります。それが私たちに理解できてもできなくてもです。そこに神の主権があります。ゴグをイスラエルの山々に連れて来て、・・そこに倒すのは、神が主権者であることを示すためです。神がご自身の民を敵の手に渡してまでも、あるいは敵の策略を逆手に取るというかたちでご自身の主権性を表わすことは、聖書の歴史の中で一貫している事実です。その主権性を主張する表現が「わたしが主であることを知ろう」というフレーズ、あるいは「わたしは私の栄光を諸国民の中に現わす(示す、原語は「ナータン」נָתַן)」というフレーズです。
  • はじめに神が天と地を創造された時から、神の主権性が宣言されています。つまり、「はじめに神が」という冒頭のことばそのものに、神の主権性が啓示されているのです。
  • 使徒パウロはこの神の主権性を「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」と表現しています(ローマ11:36)。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのはさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測りがたいことでしょう。」(同、11:33)と述べているように、神の主権性は人の理解を越えて、しばしば人の目には隠されています。しかしそれは主のみこころなのであり、このみこころを私たちは悟る必要があるのです。なぜなら、そこに神の栄光が隠されているからです。

2. 神の主権性を表わす語彙

  • ヘブル語で神の主権性を表わす基本的な語彙はמַלְכוּת「マルフート」(名詞91回)です。英語訳は「キングダム」(kingdom)、「レイン」(reign)

    詩篇145篇13節
    【新改訳】
    あなたの王国は、永遠にわたる王国。あなたの統治は、代々限りなく続きます。
    【新共同訳】
    あなたの主権はとこしえの主権 あなたの統治は代々に。


    ●新改訳は「王国」と訳し、新共同訳は「主権」、口語訳、およびフランシスコ会訳は「」、岩波訳は「王位」などと訳しています。

画像の説明

  • ヘブル語の「マルフート」は、ギリシア語の「バシレイア」。聖書における「神の国」、すなわち「神の支配」という概念として用いられています。「主権」とは何ものによっても決して妨げられることのない王としての統治力なのです。
  • 類語として、「マムラーハー」「マムラーフート」があります。

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  • 「主権」は、神がご自分のみこころやご計画を成し遂げられることにおいて発動されます。それは、創造において、選びにおいて、救いとさばきにおいて、導きなどにおいてなされるのです。

3. イスラエルに対する神のご計画

  • これまで何度も繰り返して神のイスラエルに対する約束が語られていますが、ここ39章の最後にも再度、繰り返されていることを心に留めたいと思います。

    【新改訳2017】エゼキエル書39章25~29節
    25 それゆえ、【神】である主はこう言われる。「今、わたしはヤコブを回復させ、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わが聖なる名への、わたしのねたみによる。
    26 彼らが自分たちの地に、だれにも脅かされずに安らかに住むとき、彼らは自らの恥辱と、わたしに対するすべての不信との責めを負う。
    27 わたしが彼らを諸国の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集めるとき、多くの国々が見ている前で、わたしは彼らのうちにわたしが聖であることを示す。
    28 わたしは彼らを国々に引いて行かせたが、また彼らを彼らの地に集め、もう国々には一人も残さない。このとき彼らは、わたしが彼らの神、【主】であることを知る。
    29 わたしは二度と、わたしの顔を彼らから隠すことはない。わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐからである──【神】である主のことば。」

  • 25節の「ヤコブ」とは「イスラエルの全家」のことで、イスラエル王国とユダ王国の二つを含んでいます。主のあわれみがなされるのは、「主の聖なる名のための熱心による」ものであることが分かります。そして29節では「わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ」とあります。

2013.7.6


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