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ギブオン人との盟約を破棄できなかった理由

9. ギブオン人との盟約を破棄できなかった理由

【聖書箇所】 9章1節~27節

はじめに

  • ヨシュア記9章にはカナンの地に住むギブオンの人々が変装して、イスラエルの民に近づき、彼らを欺いて和を講じるための盟約を結んだことが記されています。この出来事が意味するものは何なのか、また、ヨシュアが騙されたと知ったあと、彼らを滅ぼさなかったのは何故なのかを瞑想してみたいと思います。

1. 「盟約」ということば

  • 新改訳で「盟約」という訳語をコンコルダンスで探すならば8回ヒットします。

    ①アブラハムがマムレと結んだ「盟約」(創世記14:13)
    ②~⑥イスラエルがギブオンの人々と結んだ「盟約」(ヨシュア記9:6, 7,11, 15, 16)
    ⑦同じくイスラエルとギブオンの人々が結んだ「盟約」(2サムエル2:12)
    ⑧ネヘミヤと同胞が結んだ「盟約」(ネヘミヤ9:38)


    しかし訳語が同じであっても原語は異なります。①~⑥ではすべて「ベリート」(בְּרִית)、⑦は「シャーヴァー」(שָׁבַע)、⑧「アマーナー」(אֲמָנָה)で、「真実である」という意味の動詞「アーマン」(אָמַן)の名詞形です。

  • 「ベリート」は普通「契約」と訳しますが、ヨシュア記の9章では、新共同訳は「協定」、関根、岩波訳は「契約」、バルバロ訳は「同盟」と訳語もまちまちです。
  • 「ベリート」(בְּרִית)は神と人、人と人との間で結ばれるものですが、「シャーヴァ」(שָׁבַע)や「アマーナー」(אֲמָנָה)は人と人とが結ぶ契約(約束)に使われると言えます。

2. なにゆえにヨシュアはギブオンを滅ぼさなかったのか

  • 一般的に偽って誓約をしたり、契約したりした場合、それは破棄されるのが普通です。しかし、9章ではイスラエルが盟約した相手はギブオン人であることを偽って、遠くの地から来たようにみせかけました。ですから、ここでの盟約は破棄されて当然なのですが、ヨシュアはそれをしませんでした。それは理由はなぜか、それがこの9章の重要なテーマとなっています。
  • ギブオン人はなぜ欺き、偽ってイスラエルと和を講じようとしたかと言うならば、それは彼らが、モーセに語られた神がカナン全土をイスラエルの民に与え、その地の住民のすべてを滅ぜと命じていることをはっきりと知らされたからです。そして自分たちには到底勝ち目はないことを悟ったからです。それゆえの偽りの行為だったのです。ある意味では、彼らは他の6つの民(ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリシテ人、ヒビ人、エブス人)とは異なり、偽ってでもイスラエルとの和を講じようとしたのです。
  • 彼らの正体を知ったイスラエルの民は族長たちに滅ぼすべきことを訴えました。族長たちは全会衆を説得し、事なきを得たのでした。つまり、ひとたび神の名にかけて誓ったことは軽々しいことではなく、重い事柄であったのです。決してヨシュアの温情的私情的理由によるものでありません。もしそうであったとしたら、民の納得は得られなかったでしょうし、指導者としても失格と言えます。
  • ヨシュアが彼らを滅ぼさなかった根拠は、主である神ご自身が人間との契約に対して、きわめて真実な方だからです。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という表現は、神がアブラハムと結んだ契約はイサクに対しても、またヤコブに対しても遵守されるということを意味しています。でなかったすれば、イスラエルの民は荒野ですでに滅びていたはずです。しかしそうではなかったことをヨシュアは身をもって経験してきたのです。詩篇15篇4節にも「損になっても、立てた誓いは変えない」とあるように、神とイスラエルが結んでいる契約も神の真実に支えられているのです。神ご自身の名誉を傷つけたいとしても神はご自身の民を罰しますが、その契約は破棄されず、やがては最後には完全な約束を神が実現します。イスラエルに対する賜物と召命は変わらないのです。
  • そのような視点から9章を再度見直すならば、ギデオン人がイスラエルの民にしたことは、イスラエルの民と神とのかかわりを客観的に体験する良い機会だったと言えます。これをさらにより大きなパノラマ的視点(救済史的視点)からみるならば、使徒パウロがエペソの人々に言っていることと重なります。

【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙
2:11 ・・・あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

3:6 奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

  • 使徒パウロに啓示された「奥義」が、ヨシュア記9章にその萌芽をみることができるのではないかと思います。ギデオンの人々はイスラエルの薪を割る者、水を汲む者とされましたが、それでも信仰によって滅びから免れ、イスラエルの民に接木されたのです。それはユダヤ人に接木された異邦人と同様です。

3. ギブオンという町のもうひとつの面

  • 「ギブオン」に注目すべきことがあります。それはダビデの時代に、ダビデはモーラの幕屋にある「契約の箱」だけをエルサレムのシオンに運び移して、そこに「ダビデの幕屋」を設置します。これはダビデがなした礼拝改革です。その改革の一つは、音楽を伴う礼拝が始まったことです。またその改革の本質は「いのちの追求」です。神との生きたかかわりを求めることでした。しかしダビデはそれまでの「モーセの幕屋」をギブオンに設置し、自分自身は一度も訪れなかったようですが、そこに祭司ツァドクや賛美の指導者であったヘマンやエドトン(別名エタンとも言います)を派遣して賛美礼拝をさせています。
  • なぜギブオンにモーセの幕屋を設置したのかという理由が、ギブオン人と盟約を結んだことのゆえかも知れません。もしそこが聖絶された場所であるならば、おそらくそこに設置することはなかったかもしれません。後に、ソロモンがまだ神殿を建てる前に、その場所に行き礼拝しています。そしてそこで主がソロモンに現われ、「あなたに何を与えようか。願え。」と語られたとあります(1列王記3章4, 5節)。

2012.3.24


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