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キリストの空中再臨と教会の携挙 (その三)

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3. キリストの空中再臨と教会の携挙 (その三)

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  • これまで二回にわたって「キリストの空中再臨と教会の携挙」について学びました。今回はその第三回目です。空中再臨と教会の携挙という出来事は「奥義」(それが明かされるまでだれも分からない事柄)です。というのは、使徒パウロにはじめて啓示されたからです。イェシュアもそのことに関しては、最後の晩餐の時に、ほんのわずかに触れただけでした。キリストが再び来られることを再臨と言っていますが、それはキリストが七年間の患難時代の後に来られる地上再臨のことです。しかし、「キリストの空中再臨と教会の携挙」の出来事は、七年間の患難時代の前に起こる事です。そしてそれは教会にとってはキリストとの結婚式のときであり、祝福された栄光の望みなのです。
  • 今回の第三回目は、「キリストの空中再臨と教会の携挙」を、「花嫁なる教会を迎えに来る花婿なるキリストとの結婚式」として、それをユダヤ的視点から、すなわち「ユダヤの婚礼のしきたり」という視点から考えてみたいと思います。そのことによって、聖書がよりはっきりと見えてくるはずです。まずは、ヨハネの黙示録19章6~9節を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】
19:6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
19:9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。


1.「小羊の婚姻」と「小羊の婚宴」

  • 7節の「小羊の婚姻」は花婿なるキリストと花嫁なる教会の「結婚式」を意味します。しかし、9節の「小羊の婚宴」は「その結婚の披露宴、祝宴」を意味します。この二つの出来事は、語彙も事柄も時も異にしていることをユダヤ的視点からお話ししたいと思います。
    婚姻=「ホ・ガモス」( ό γάμος)、祝宴=「ホ・デイプノン」(ό δειπνον)〕

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  • しかし、「ガモス」の場合、その一語が単独で使われる場合には「婚礼」、ないし「婚宴」の意味のいずれかを表わす場合もあるようです。前者の例はヨハネ2章1, 2節、「後者」の例はマタイ22章(2, 3, 4, 8, 9, 10, 11, 12節, および25章10節、ルカ13章36節、14:8)。
  • 教会にとっての最高の喜びは花婿なるキリストとの結婚です。天の御父は永遠の昔からそのご計画をもっておれました。使徒パウロは「神は私たちを世界の基が置かれる前から、キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:4)と記していますが、ここにキリストと私たち(教会)が許嫁の関係にあることがわかります。御父は、時至って御子イエスをこの世に遣わして「婚約式」に導かれました。それは「最後の晩餐」の時と考えてよいと思います。

ヨハネの福音書 14章1~3節
1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

  • この箇所は、ユダヤ的な婚礼のしきたりを知らなければ理解できないところです。最後の晩餐において婚約式をされたイェシュアは、翌日、十字架にかけられ、三日目に復活し、昇天して天に帰られました。しかし、ヨハネの福音書14章3節で「場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」とあります。ここで「あなたがた」とはイェシュアの弟子たちのことです。メシアニック・ジューです。そして私たち異邦人はメシアニック・ジューの弟子たちから伝えられたキリストの福音を聞いて、イェシュアを救い主と信じている者です。つまり、ここでの「あなたがた」とは、キリストをかしらとする「教会」のことです。
  • 確かにこの時点では、「教会」は公の形では聖霊によって誕生してはいません。しかし婚約の約束は「最後の晩餐」の時であったと言えます。なぜなら、その約束は、イェシュアの昇天の際にも、ふたりの御使いによって再度、確認されているからです。使徒の働き1章11節には「・・あなたがたを離れて天に上げられたこのイェシュアは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」とあります。ここでは、花婿のキリストが結婚のために花嫁である教会を迎えに来ることを言っているのです。
  • ヨハネの黙示録19章7節のみことば、「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」の「小羊の婚姻の時」とは、花婿なるキリストが花嫁である教会を迎えに来るその用意が整った時、つまり、天において花嫁を迎える新居の準備ができた時です。御父の許可が下りて、花婿が花嫁を迎えに来るその時を、聖書は「小羊の婚姻の時が来て」と表現しているのです。花婿が花嫁を迎えに来るときには、Ⅰテサロニケ4章16節で使徒パウロが記しているように、「号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、(主)ご自身が天から下って来られる」のです。そして、そのとき、主にあって死んだ聖徒たちは、死からよみがえって朽ちることのないからだに変えられます。また、そのとき生きている聖徒たちも一瞬にして朽ちないからだに変えられて、先の者たちと共に雲(シャハイナ・グローリーの雲)の中に一挙に引き上げられて、主と会い、婚姻(結婚式)が挙行されるのです。そうしなければ、天にある新居に花婿と花嫁が夫婦として住むことはできないからです。
  • 空中において結婚式がなされた後に、花婿と花嫁は天の住まい(新居)へと帰り、そこで七日間(七年間)のハネムーンをだれにも邪魔されずに過ごすのです。そしてこのハネムーンが終わる時、花婿と花嫁が地上に来て、ヨハネの黙示録19章9節にある「小羊の婚宴」がなされると考えられます。
  • この時はキリストの地上再臨と重なります。それゆえ、イェシュアは弟子たちに「最後の晩餐」の席で「過越が神の国に成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」と言ったのです。キリスト教会は伝統的に「聖餐式」のときには、必ず、ルカの福音書22章14~20節を必ず読みます。その箇所を見てみましょう。

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【新改訳改訂第3版】ルカの福音書22:14~20
14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」
20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

  • 16節の「過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
    18節の「今から、神の国が来る時まではわたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
    太字で記された「過越が神の国において成就する」とき(新共同訳では「神の国で過越が成し遂げられるまで」)とは、また「神の国が来る時」とはいったい何を意味するのでしょうか。ここでいう「過越」とは具体的に何を意味し、「神の国」が来るとは何を意味するのでしょうか。
  • この箇所は「主の食卓」、すなわち、婚礼の宴会での食卓です。つまりその「食卓の時」とは、旧約で約束された御国の到来の時です。その時はキリストがこの地上に再臨される時であり、そのときから、地上にキリストを王とする「千年王国」が実現するときなのです。この「千年王国」については、時を改めて学ぶことにしたいと思います。
  • ところで、ここで一つの質問です。ルカの福音書の22章14~20節の箇所において、果たしてイェシュアはぶどうの実で造った物を飲んだでしょうか。それとも飲まなかったでしょうか。この答えは、後ほど明らかになるはずです。

2. ユダヤにおける婚礼のしきたり

  • キリストの空中再臨と教会の携挙について、ユダヤの婚礼のしきたり(慣習)という視点から見るなら、どのように見えてくるかを考えてみたいと思います。
  • ユダヤには婚礼について三つの段階があります。一つは「許嫁の段階」、二つ目は「婚約の段階」、そして三つ目は「結婚式」と「その宴会」の段階です。

(1) 許嫁の段階

  • 「許嫁」とは、幼少時に本人たちの意志にかかわらず、双方の親または親代わりの者が合意で結婚の約束をすること。ユダヤの場合、結婚を当人以外の者が決定するということが聖書の中にあります。たとえば、アブラハムの息子であるイサクの場合、アブラハムの家の最年長のしもべであったエリエゼルが、イサクの妻をアブラハムの親戚の中から選ぶようにと、彼の生まれ故郷へと遣わされます。そして見つけたのが、アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘のリベカでした。イサクとリベカは許嫁ではありませんでしたが、父親が息子の嫁を見つけるという風習が古くからあったということを示しています。ところが、イサクとリべカの間に生まれた双子の兄弟エサウとヤコブの場合は、親ではなく、それぞれ自分で自分の妻を捜したことで苦労しています。特に、兄のエサウはカナン人の女を妻として娶ったために、母リベカを苦しめました(創世記27:46)。

(2) 婚約の段階

  • 私たちが良く知っているヨセフとマリヤの場合、この二人は「許嫁」でした。ルカの福音書2章にあるように、ヨセフとマリヤは住民登録をするために、ナザレの町からユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行きました。その箇所に「身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するため・・」とあります(ルカ2:5)。ここの「いいなずけの妻」というのは少々おかしな表現です。原文直訳では「(すでに)婚約が交わされた妻マリヤ」となっていて、婚約と許嫁の両方の意味を持つ「ムネーステウオー」(μνηστεύω)の完了受動態が使われています。つまり、「許嫁」であることと「婚約」することが同義であることばが使われています。
  • しかしここで問題なのは、婚約していただけで身重になっているということは、律法違反であるということです。婚約の段階だけでは、マリヤは住民登録のためにヨセフと一緒に行くことなどできません。またその必要がありません。登録するということは、その前に、ヨセフとマリヤの二人が結婚していなければなりません。婚約していた時に、御使いガブリエルはマリヤに受胎告知をし、ヨセフに対しては、「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。・・」と告げています。そのお告げを受けたヨセフは、主の使いに命じられたとおりに、マリヤを妻として迎え入れたようです(マタイ1:24)。それゆえ、ヨセフはマリヤを連れて住民登録の旅に連れて行くことができたのです。ルカ2:5の「身重になっているいいなずけの妻マリヤ」という表現は、マリヤは幼い頃から許嫁であったヨセフと婚約した後に身ごもり、その後、ヨセフの妻となっていたということを物語っています。
  • ユダヤの婚約のしきたりでは、二人は杯を交わしますが、花婿となる者はその杯を飲みません。飲むのは花嫁だけです。なぜなら、花婿となる人は結婚するまでの間(おそらく1年間)は、花嫁のために身をきよめるために、また酒の席で放蕩に走って誘惑を受けないようにするために、杯を口にしないようです。口にできるのは結婚式を挙げてからです。もし、イェシュアと弟子たちとの「最後の晩餐」が「婚約式」であったとするならば、イェシュアが言われた「これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」ということばの意味が容易に理解できます。また、ここで「神の国が来る時」とは「結婚する時」であり、空中再臨と教会の携挙の時なのです。
  • 婚約時代でもうひとつ重要なことは、結婚のための資金は花婿の父親が出すということです。花婿の父親が花婿のために、花嫁の父親にそれ相当の結納金を渡すのです。花嫁の白いウェディング・ドレスの費用は花婿の父親の責任です。このように、父親は息子の結婚において、幼い時から許嫁を選ぶだけでなく、やがての結婚に備えて、婚約式の時にその資金を支払うのです。そのあとで、息子の花婿は結婚後の新居の準備を父親の管理の下ですることになります。つまり、父親のOKが出ないうちは、花婿は自分勝手に花嫁を迎えに行くことができないのです。ですから、結婚の日がいつかということは、花婿にも分からないというわけです。
  • イェシュアは最後の晩餐の時に、弟子たちに「・・あなたがたのために場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所にあなたがたをもおらせるためです」と言われました(ヨハネ14:2~3)。イェシュアが天に戻られたのは、新居を備えるためです。
  • 当時のイスラエルでは、一旦婚約が確定すると男性は実家に戻り、結婚式に備え始めます。伝統的には、一年後に式が持たれることになっていました。畑を備え、耕し、作物が植えられ、父の家に妻を受け入れる準備として部屋が作られます。花嫁を迎えるために、万全の配慮と取り組みがなされ、すべてのことに細心の注意が払われました。マリヤが身重になったことをヨセフが聞かされたのは、この婚約後であったのです。

(3) 結婚の段階

  • いよいよ、父親のゴー・サインが出てから、花婿は花嫁を迎えに行きます。すでに花嫁を迎える準備が万端に整えられています。花婿は多くの友を連れて花嫁のところに出かけます。花嫁もすでに準備が整っています。いつ来られても良いように、花嫁はウェディング・ドレスを着ながら待っています。花嫁はその結婚を祝う仲間たちの音を聞くと、素早くベールをまとい、花婿に会うために通りへと案内されます。花婿と花嫁は道路の途中で出会います。そこが結婚式の場です。大きな音とお祭り騒ぎの中で結婚式がはじまるのです。
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  • ユダヤでは「フッパー」という、一枚の幕に四つの支柱をつけたものの下で結婚式がなされます。そしてね結婚式の後に、二人は、花婿が準備した新居で七日間のハネムーンを過ごします。ユダヤでは結婚が非常に神聖なものとして重んじられています。ですから、ユダヤのタルムードには、花婿と花嫁が共に喜び合うために、大切なトーラーの学びすら中断しなさいと命じているほどなのです。一週間のハネムーンでは、だれひとり彼らのところに出入りすることができないのです。結婚の祝宴は一週間のハネムーンが終わってからということになります。ヨハネの黙示録19章にある「小羊の婚姻」と「小羊の婚宴」の違いは、ユダヤの伝統的な婚礼のしきたりから理解しなければならないのです。

3. キリストの地上再臨の時にもたれる「小羊の婚宴」

  • 最後の晩餐の時に、イェシュアが「過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません」と言われましたが、七日間のハネムーンの期間が終わると同時に、地上では、悔い改めた神の民イスラエルが、「小羊の婚宴」に招かれます。ここでの「過越」とは、イスラエルを救い出すために反キリストに対してなされる神のさばきを意味しています。ですから、反キリストによる大患難に対する神のさばきという「過越」がなされるまでは、主と食卓を囲むことが出来ないということを意味していたのです。

ベアハリート

  • キリストの地上再臨については、また別の時に改めて扱いますが、婚礼とのかかわりにおいて語られているイェシュアのたとえ話を最後に取り上げたいと思います。聖書のテキストはマタイの福音書25章1~13節です。

「花婿を出迎える10人の娘―賢い娘と愚かな娘」のたとえ 

【新改訳改訂第3版】
1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
11 そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

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  • ここに登場するのは花嫁ではありません。この点は重要なポイントです。ここに登場する娘たちは「婚礼の祝宴」に招かれる娘たちです。花婿が来るのが遅れたために、その娘たちは眠ってしまいました。賢い娘五人は、十分な油を用意していましたが、愚かな娘は用意していませんでした。夜がかなり更けてから、花婿が花嫁を連れて地上に戻ってきます。そのとき、油を十分に用意していた賢い娘たちは婚礼の祝宴に入ることができたという話です。油を用意していなかった愚かな娘たちはそこへ入ることができなかったのです。ここの「10人の娘たち」(賢い娘たちと愚かな娘たち)とは、キリストの地上再臨前の患難期における異邦人の信者と不信者のことです(フルクテンバウム師の解釈)。なぜなら、イスラエルの民(ユダヤ人)は大患難という神のさばきを通して、民族的に悔い改め、メシアなるイェシュアの御名を呼び求めるようになるからです。
  • しばしばここに登場する娘たちを「教会」と理解することがありますが、それは置換神学の弊害です。一人の花婿が一度に10人の娘と結婚することはあり得ません。イエスが語られる「天の御国」のたとえ話はほとんどの場合、キリストの地上再臨に関連して語られています。教会の携挙についての教えは、後に、使徒パウロが奥義として明らかにしたことです。
  • 十分な関心をもって主の地上再臨を待つのでなければ、主の救済的な食卓にあずかることは出来なくなってしまうという警告です。主のことばを信じて、目を覚ましてひたすら主を待つということは、空中再臨の時であっても、また、地上再臨の時であっても、主を待望する者たちの不変の姿勢なのです。イェシュアの初臨の時に聖霊のお告げを受けて、イスラエルの慰められることを待ち望んでいたエルサレムの老シメオンは、まさに時代を越えた「待望の模範者」であったと言えないでしょうか。


2013.11.03


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