****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

オバデヤ書〔עֹבַדְיָה〕

オバデヤ書 (「オーヴァドゥヤー」עֹבַדְיָה)

ベレーシート

●今回は「オバデヤ書」を取り上げます。預言者「オバデヤ」の名前は、「しもべ」を意味する「エヴェド」(עֶבֶד)と「主」を意味する「ヤー」(יָה)の合成語で、「主のしもべ」を意味します。彼は「エドム」についての「幻」(「ハーゾーン」חָזוֹן)が与えられて語った預言者です。それ以外の情報については何一つありません。むしろ、この書に記されている「エドム」について知ることがとても重要なのです。

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●「エドム」(אֱדוֹם)は国の名前です。語源としては「人」を意味する「アーダーム」(אָדָם)と同じ語幹から成っていますが、「赤い」を意味する「アードーム」(אָדוֹם)と、「土地」を意味する「アダーマー」(אֲדָמָה)から「赤い土」を意味するとも言えます。この「エドム」のことをギリシア語で「イドマヤ」と言います。幼子イェシュアを殺そうとしたヘロデ大王はイドマヤ人でした。つまり彼の先祖はヤコブの兄エサウだということです。その国は、死海の南端からアカバ湾のエツヨン・ゲベル(עֶצְיוֹ־גֶּבֶר)までの範囲にあります(なぜか口語訳では「エジオン・ゲベル」と訳されています)。主な町としては、ボツラとテマンが有名です。ヨブ記の舞台となるウツもこの地域にあります。オバデヤがエドム人のことを「岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者」(3節)と表現しています。それはこの地が、1,500 mを超えるところに主要なキャラバンルートがあるためです(上図の黄色の線)。

●かつてイスラエルの民が出エジプトし約束の地に向かって荒野を旅したとき、この地を通過できるようにとモーセがエドムの王と交渉しました。しかし許可されなかったのです。それほどに、エサウの子孫とヤコブの子孫との確執は根強かったと言えます。以下がその交渉した記述です。

【新改訳2017】民数記20章16~21節
16 私たちが【主】に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、一人の御使いを遣わし、私たちをエジプトから導き出されました。今、私たちはあなたの領土の境界にある町、カデシュにおります。
17 どうか、あなたの土地を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは『王の道』を行き、あなたの領土を通過するまでは、右にも左にもそれません。」
18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。通るなら、私は剣をもっておまえを迎え撃つ。」
19 イスラエルの子らはエドムに言った。「私たちは大路を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。歩いて通り過ぎるだけですから、何事でもないでしょう。」
20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。
21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせることを拒んだので、イスラエルは彼のところから向きを変えた。

●「オバデヤ書」は新約聖書の「ピレモンへの手紙」と同様、とても短い書です。しかしその中に記されているエドムは神の民イスラエルに逆らう民、つまり「反ユダヤ主義」の運命が記されているとても貴重な書と言えるのです。「バビロンの川のほとり」で始まる有名な詩篇137篇は、バビロン捕囚となったユダの人々の悲しみが記されています。そこに「エドム」が唐突に登場します。

【新改訳2017】詩篇137篇1~4節、7節
1 バビロンの川のほとり そこに私たちは座り シオンを思い出して泣いた。
2 街中の柳の木々に 私たちは竪琴を掛けた。
3 それは 私たちを捕らえて来た者たちが そこで私たちに歌を求め
私たちを苦しめる者たちが 余興に「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。
4 どうして私たちが異国の地で 【主】の歌を歌えるだろうか。
7 【主】よ 思い出してください。エルサレムの日に 「破壊せよ 破壊せよ。その基までも」と言った エドムの子らを

●7節に「エドムの子ら」ということばがあります。その背景を知らない者にとっては唐突のように感じられます。しかし、オバデヤ書はこの「エドムの子ら」について記された書です。ヤコブの兄エサウの子孫であるエドムは、ヤコブの子孫を憎み続け、その執念深い恨みには冷酷さがあります。その彼らに対する主の定めが語られているのがこのオバデヤ書なのです。

1. エドム滅亡の預言

●オバデヤ書に記されている「エドムの滅亡」について述べる前に、「エドム」についての言及は他の書にも数多く記されていますので、それを紹介することにしたいと思います。

(1)【新改訳2017】詩篇83篇1~8節

1 神よ 沈黙していないでください。 黙っていないでください。 神よ 黙り続けないでください。
2 ご覧ください。あなたの敵が騒ぎ立ち あなたを憎む者どもが頭をもたげています。
3 彼らは あなたの民に対して 悪賢いはかりごとをめぐらし
あなたにかくまわれている者たちに 悪を企んでいます。
4 彼らは言っています。「さあ 彼らの国を消し去って イスラエルの名が もはや覚えられないようにしよう。」
5 彼らは 心を一つにして悪を企み あなたに逆らって 盟約を結んでいます。
6 エドムの天幕の民とイシュマエル人 モアブとハガル人
7 ゲバルとアンモン それにアマレク ペリシテ さらにはツロの住民。
8 アッシリアも 彼らにくみし 彼らはロトの子らの腕となりました。 セラ

●この詩篇に示されている「彼ら」とはイスラエルに逆らう民たちです。具体的にその名が記されています。それらの国々を現代の国に置き換えてみるなら、以下のようになります。

①エドム、アマレク、モアブ、アンモン・・・・・ヨルダン
②イシュマエル・・・・・・・・・・・・・・・・サウジアラビア
③ハガル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・エジプト
④ゲバル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イラク
⑤ペリシテ・・・・・・・・・・・・・・・・・・パレスチナ
⑥アッシリア・・・・・・・・・・・・・・・・・シリヤ、イラン
⑦ツロ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・レバノン

●これらの国々はイスラエルを囲んでいる中東の諸国です。しかもその諸国の筆頭に「エドム」があります。つまり、「エドム」はイスラエルに反逆する諸国を代表する者となっているのです。その「エドム」に対して、主がなそうとすることを以下に語っています。それは、預言者バラムがモアブの王バラクに告げた預言です。バラクはバラムに、イスラエルに呪いをかけてもらおうと依頼したのですが、バラムはイスラエルを呪わずに、むしろ祝福してしまいます。そして以下のことを預言したのです。

(2)【新改訳2017】民数記24章17~19節

17 私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみを、すべてのセツの子ら(=改訂第三版まで「騒ぎ立つ者」と訳されている)の脳天を打ち砕く。
18 その敵、エドムは所有地となり、セイル(=エドムと同義)も所有地となる。イスラエルは力ある働きをする。
19 ヤコブから出る者が治め、残った者たちを町から絶やす(=滅ぼす「アーヴァド」אָבַד/初出箇所は出エジ10:7)。」

●17節の「彼」とは「ヤコブから進み出る一つの星」、「イスラエルから起こる一本の杖」のことです。「」と「」は力と権威をもった「メシア」のことです。そのメシアが再臨されるとき、イスラエルの敵である「エドム」はイスラエルの所有地となるという預言です。一時、ダビデ王とソロモン王によって実現しますが、終わりの日には王なるイェシュア・メシアによって成就します。そのメシアとともにイスラエルは存続し、力ある働きをすることがここで預言されています。

●エドムがかつてダビデ王によって一時征服されたのは、メシア王国の型です。

(3)【新改訳2017】Ⅱサムエル記 8章14節

彼はエドムに守備隊を、エドム全土に守備隊を置いた。こうして、全エドムはダビデのしもべとなった。
【主】は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。

(4)【新改訳2017】Ⅰ列王記11章15~16節

15 ダビデがかつてエドムにいたころ、軍の長ヨアブが戦死者を葬りに上って行き、エドムの男子をみな打ち殺したことがあった。
16 ヨアブは全イスラエルとともに六か月の間そこにとどまり、エドムの男子をみな絶ち滅ぼしたのである。

●「エドムの男子をみな絶ち滅ぼした」とありますが、そこから逃げ出して、エドムを再建した者たちがいたようです。そのエドムが執拗にユダの民に敵対するのです。そのようなエドムが滅亡するのを預言したのが、イザヤ書34章5~8節です。

(5)【新改訳2017】イザヤ書34章5~8節

5 「まことに、天でわたしの剣は血に浸されている。
見よ。これがエドムの上に、わたしが聖絶すると定めた民の上に下る。」
6 【主】の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊とやぎの血、雄羊の腎臓の脂肪で。【主】がボツラでいけにえを屠り、エドムの地で大虐殺をされるからだ。
7 野牛は彼らとともに、雄牛は荒馬とともに倒れる。彼らの地には血が染み込み、その土は脂肪で肥える。
8 それは【主】の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年だからだ

●8節の「それは【主】の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年だからだ」というところに、「【主】よ思い出してください。エルサレムの日に『破壊せよ 破壊せよ。その基までも』と言ったエドムの子らを」(詩篇137:7)と祈った、シオンの民の訴えに対する主の答えが預言されていると言えます。「エルサレムの日に」とは、エルサレムがバビロンのネブカデネザルによって破壊された日のことを指しており、その時にエドムはエルサレムを何度も繰り返して略奪したのです。

●エドムの滅亡を預言する箇所としては、他に、エレミヤ書49章7~22節、エゼキエル書25章12~14節、35章1~15節もありますが、すでに学んだ小預言書のヨエル書とアモス書にも言及があります。そこを記しておきたいと思います。

(6) 【新改訳2017】ヨエル書 3章19節

エジプトは荒れ果てた地となり、エドムは荒れ果てた荒野となる。彼らの、ユダの人々への暴虐のためだ。彼らはその地で、咎なき者の血を流した。

(7) 【新改訳2017】アモス書1章11~12節

11 【主】はこう言われる。「エドムの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。彼らが剣で自分の兄弟を追い、あわれみを断ち、いつまでも怒り、どこまでも激しい怒りを保ち続けたからだ。
12 わたしはテマンに火を送る。その火はボツラの宮殿を焼き尽くす。」

(8) 【新改訳2017】オバデヤ書1章2~4節

2 「見よ。わたしはおまえを国々の中で小さい者、ひどく蔑まれる者とする。
3 岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ。おまえの高慢は、おまえ自身を欺いている。おまえは心の中で言っている。『だれが私を地に引きずり降ろせるのか』と。
4 鷲のように高く上っても、星々の間に巣を作っても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。──【主】のことば。

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●神にさばかれる者を「あなた」と訳さずに、新改訳は「おまえ」と訳します。ここでの「おまえ」がエドムです。また「エドム」のことを、その先祖の「エサウ」(עֵשָׂו)「エサウの家」「エサウの山々」と呼んだりします。またエサウの長子の「テマン」(תֵּימָןは「南」を意味する語彙)と呼んだり、地名の「ボツラ」や「セイルの山」と呼んだりもします。3節ではエドムのことを「岩」とも表現しており、「岩」は「セラ」(סֶלַע)で、「エドムの首都」です。現代のヨルダンでは「ペトラ」と呼ばれています。「ペトラ」はギリシア語で「岩・崖」を意味します。

(1) エドムが神にさばかれる理由: 「心の高慢」
●オバデヤ書では、エドムが神によってさばかれる理由のひとつを「高慢」(「ザードーン」זָדוֹן)だとしています。エドムは「岩の裂け目に住み、高い所を住まい」とする地形的に堅固な岩のとりでが多く、その利点から、他国からの攻撃を受けないと過信していたようです。その心の高慢を主は指摘し、「わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす」と宣告しています(4節)。

(2) エドムが神にさばかれる理由: 「同胞に対する災難を喜んだこと」
【新改訳2017】オバデヤ書10~15節
10 おまえの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥がおまえをおおい、おまえは永遠に断たれる。
11 他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったその日、おまえは素知らぬ顔で立っていた。おまえもまた、彼らのうちの一人のようであった。
12 おまえは兄弟の災難の日に、それを見ていてはならない。
ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜んではならない。その苦難の日に大口をたたいてはならない。
13 おまえは彼らのわざわいの日に、わたしの民の門に入ってはならない。ほかでもないおまえが、彼の破局の日に、そのわざわいを眺めていてはならない。彼の破局の日に、彼らの財宝に手を伸ばしてはならない。
14 その逃れる者を断つために、別れ道に立ちふさがってはならない。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡してはならない。
15なぜなら、【主】の日がすべての国々に近づいているからだ。
おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。

●上記の箇所の「その日」「~の日」と繰り返されている「日」とは、エルサレムに対する神の矯正的な懲らしめの日として許された、主の「定めの日」を意味します。具体的には、エルサレムがバビロンによって破壊される日です。その日に「~してはならない」と主はエドムに対して繰り返し訴えています。しかし実際には、エドムはその日に、ただ傍観し、それを喜び、大口をたたき、財宝に手を伸ばして略奪し、またエルサレムから逃れたユダの人々を捕らえてバビロンに引き渡したのです。このことのゆえに、15節では主の日、つまり終わりの日には「おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る」と宣告され、「エドムの完全な滅び」が預言されています。兄弟関係にありながらもヤコブの子孫の苦難を喜ぶ冷徹、非情なエドムは、「わたしが聖絶すると定めた民」(イザヤ34:5)として、完全にさばかれるのです。


2. 反ユダヤ主義の末裔

●「エドム」とはエサウの子孫の総称であると同時に、神に敵対する勢力、あるいは歴史における反ユダヤ主義的勢力を象徴しています。オバデヤ書の重要な使信は、反ユダヤ主義のルーツとそれに対する神のさばきです。これはいつの時代にあっても起こってくる今日的問題です。旧約聖書は、神がご自身のご計画の担い手として選んだイスラエルの民とのかかわりを記していますが、そのイスラエルの民に対する諸国のかかわりを最終的に神がどのようにさばかれるのか、その原則がオバデヤ書に記されています。しかしそれは創世記12章3節にすでに預言されていました。

【新改訳2017】創世記12章1~3節
1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

●3節の「あなたを呪う者をのろう」という部分には、漢字で表記された「呪う」と、ひらがなで表記された「のろう」があります。これは語彙が異なっていることを意味しています。「呪う」と訳された「カーラル」(קָלַל)は「~を引く、軽んじる」という意味です。アブラハムに与えられている祝福から身を引くとか、その祝福を軽く見ること、あるいは無関心さえも意味します。そのような者を神である主は「のろう」のです。その「のろう」と訳された「アーラル」(אָרַר)は文字通りの意味で、最終的なさばきがもたらされる形で「死に至る」ことを意味します。それは永遠に神とかかわることのできない所に、つまり「火の池に投げ込まれる」ことを意味します。この「アーラル」(אָרַר)は、初出箇所の創世記3章14節で「蛇」に対して向けられています。蛇である獣と呼ばれる反キリストと彼に従う偽預言者は、真っ先に火の池に生きたまま投げ込まれます(黙示録19:20)。またアブラハムの祝福に与らなかった者たちは、千年王国の終わりに死から復活して、「第二の死」として「火の池に投げ込まれる」と定まっているのです(黙示録20:14~15)。これは神が定めた主権的、かつ峻厳なさばきなのです。これを変更することなど誰もできません。

●聖書の根幹には、この「アブラハム契約」が厳然と流れています。ですから、このことを軽く見る聖書解釈(置換神学)に対して、教会は警鐘を鳴らす必要があります。そしてそれに続く「モアブ契約」(申命記30章)、の「あなたの神、主に立ち返るなら・・・生きるようにされる」という約束も重要です。さらには「ダビデ契約」、エレミヤの「新しい契約」もすべて「アブラハム契約」の路線上にあります。アブラハム契約を重んじる者は、これらの契約も重んじるはずです。なぜなら、それらは神のご計画として一つにつながっているからです。聖書はイスラエルを基軸として展開されます。このことを「軽く見る」なら、つまり「呪う」なら「のろわれる」ということを重く受けとめるべきです。

3. 「全イスラエルの領土の回復」の預言

●最後に、オバデヤ書に記されている全イスラエルの回復の預言を見たいと思います。回復の預言は17節から始まります。その回復とは、全イスラエルの領地の回復です。

【新改訳2017】オバデヤ書17~21節
17 しかし、シオンの山には、逃れの者がいるようになる。そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。
18 ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となる。エサウの家は刈り株となり、火と炎は刈り株に燃えつき、これを焼き尽くす。エサウの家には生き残る者がいなくなる。」【主】がこう告げられたのである。

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●15節で「【主】の日がすべての国々に近づいている」と宣言されています。「【主】の日」とは、「終わりの日」における神の審判の時であり、その時にはこれまでのすべてが逆転します。エドムの破滅の日が、ユダの救いの日となるからです。18節に「ヨセフの家」とあります。ヨセフの家(マナセとエフライム)とはアッシリアによって離散した北イスラエル王国の主要部族ですから、ここにイスラエルの十部族もすべて回復されることが分かります。

19 ネゲブの人々はエサウの山を、シェフェラの人々はペリシテ人の地を占領する。また彼らはエフライムの野とサマリアの野を占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する
20 イスラエルの人々に属する、この一群の捕囚の民はカナン人の地をツァレファテまで占領し、セファラデにいるエルサレムからの捕囚の民はネゲブの町々を占領する
21 救う者たちは、エサウの山をさばくため、シオンの山に上る。こうして、王国は【主】のものとなる。

●19~20節で「占領する」という語彙が繰り返し使われています。これは「ヤーラシュ」(יָרַשׁ)で、すべて完了形で記されています。ですから、必ずそうなるということです。かつてヌンの子ヨシュアが約束の地に「侵入し」、そこを「占領した」ことを示す語彙です。ダビデによって占領し支配された領土がすべて回復されるという預言こそ、オバデヤ書の主要メッセージなのです

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●「追い払う」「滅ぼす」「占領する」「取得する」「所有する」「相続する」「受け継ぐ」はみな同義であり、ヨシュア記はまさに「ヤーラシュ」(יָרַשׁ)という一つの動詞によって括(くく)られるほどです。これはメシア王国を預言しています。アブラハム契約にあるように、「わたしが示す地」(創12:3)を「あなたの子孫に永久に与える」と誓われた地でもあります(創12:7, 13:15)。その地は「エジプトの川から、あの大河、ユーフラテス川まで」(創15:18)。そのカナンの全土を神は「永遠の所有として与え」(創17:8)られるのです。そのことで「わたしは彼らの神となる」(創17:8)と語っています。オバデヤ書では、最後に「こうして、王国は主のもの」(21節)と語っています。王なるメシアが統治する「その地」(「ハーアーレツ」הָאָרֶץ)がなければ、王国(「ハッメルーハー」הַמְּלוּכָה)として成り立たないことは言うまでもありません。神がそれを回復してくださるという約束をもって、オバデヤ書は終わっているのです。

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ベアハリート

●今日もイスラエルを取り巻く情勢は紛争の中にあります。これは、人間の力で平和(シャーローム)を造り出すことができないことを物語っています。真の平和を造る者こそメシアだからです。ところがその出来ないことを実現しようとする者が歴史の最後に出現します。それが獣と呼ばれる反キリストです。まさに反キリストは「反ユダヤ主義の権化」です。ダニエルの「七十週の預言」の最後の七年間の前半(三年半、42ケ月間)に、ユダヤ人は反キリストにだまされたとも知らず、七年間の契約を結んで神殿を再建します。神がユダヤ人に対する最後の取り扱いをするために未曽有の大患難を通らせることで、その中から「イスラエルの残りの者」が取り出され、救い出されます。このとき「エドム」は民族的には滅ぼされますが、実はそこにも「残りの者」がいるのです。そのことはアモス書9章12節に預言されていました。「エドムの残りの者」と「わたしの名で呼ばれるすべての国々(異邦人)」も、建て直されたダビデの仮庵(=全イスラエル)の所有として、神の民に加えられるのです。それはひとえに、神のあわれみのゆえなのです。

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2023.6.25
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