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エルサレム神殿工事が中断してしまった事情

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エズラ記の目次

4. エルサレム神殿工事が中断してしまった事情

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【聖書箇所】 4章1節~24節

ベレーシート

  • イエスがガリラヤへ行かれるときに、「サマリアを通って行かなければならなかった。」(ヨハネ4:4)とありますが、それは神の必然的な事情があったからです。ここではその問題に触れません。今回注目したいことは、イエスがサマリアの一人の女に飲み水を求めた折に、サマリアの女はイエスに「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサリマアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」との答えたことに対して、聖書が「ユダヤ人はサマリア人とつきあいをしなかったからである」との説明文を入れていることです。なぜ、ユダヤ人とサマリア人とが犬猿の仲となってしまったのか。そのいきさつを記しているのが、今回のエズラ記4章です。

1. 神殿再建を中断に追い込んだサマリヤ人

  • ユダとベニヤミンの敵とはサマリア人のことを意味します。彼らは最初、この神殿再建工事に参加したい旨を表わしますが、ユダヤ人たちはきっばりとこれを断りました。なぜ彼らの申し出を断ったのでしょうか。いくつかの事が考えられます。

    (1) サマリア人はユダヤ人の純粋性を失っていた
    かつての北イスラエル王国はアッシリアによって滅亡しました。その際、外国からの移住者と雑婚を強いられたことで、その民族性を失ったと帰還した者たちは考えたからです。ユダの民たちはバビロンにおいて神のトーラーライフスタイルを回復した民たちでした。しかもそのことに熱心な者たちでした。それゆえ、その神の民としての純粋性を汚すような者たちとは一諸に仕事をすることはできないと考えたのは当然のことです。

    (2) サマリア人の魂胆を見抜いた
    サマリア人にしてみれば、ユダの民がバビロンへの捕囚となっていた時期にエルサレム周辺はサマリア人にとっては既得権を得ていたと思っていたはずです。そこへ捕囚から帰還した民たちがあたかも当然自分たちの土地であるかのように神殿を再建しようとしたのですから、サマリア人としは面白くなかったと考えられます。したがって、最初は好意的・協力的態度をもって接近してきたとしても、ユダの民は彼らを信頼できなかったといえます。この判断はサマリア人の申し出が拒絶された時に明らかとなりました。つまり、拒絶されたがゆえに執拗に阻止しようという態度に出たのではなく、自分たちの真意が見破られたからと言えます。

  • いずれにしても、協力の申し入れを拒絶されたことで、サマリア人はこの工事を中断に追い込んだことは事実です。そのために最初の基礎は築いたにもかかわらず、15年間、工事が頓挫してしまったのでした。再び、再建工事に取り掛かるためには、さらなる神からの励ましが必要でした。預言者のハガイとゼカリヤはそのために、ふさわしい絶妙な時に神から遣わされました。

2. 歴史は繰り返される

  • サマリア人のユダヤ人に対する妨害は神殿再建後までも執拗に続いていきます。こうしたことは、現代のイスラエルとパレスチナとの間にも見られることです。1948年にイスラエルが主権国家として独立を宣言して建国されるまでは、オスマントルコの支配下にあって住み着いていた人々がいたわけです。つまり、ユダヤ人が世界離散からイスラエルに帰還するようになってから、そのときまでその土地に住んでいた人々は自分たちの既得権を奪われた思いです。それゆえイスラエルとパレスチナ(アラブ諸国)との間には今日においてもずっと争いが絶えません。これからもそうでしょう。
  • 「神の民と神殿」、この二つは神の歴史が動いていく重要な鍵です。このふたつが麗しい形で一つになっていた時は、ダビデ・ソロモン時代です。この形がはじめて崩壊したのがバビロン捕囚の出来事でした。神の民は捕囚の身となり、エルサレムの神殿は完全に破壊されました。しかし再び歴史は動きます。神の民がバビロンからエルサレムに帰還し、そこに第二神殿が再建された時です。しかしその時はすでにバビロンのネブカデネザル王の時代から「異邦人の時」が始まっており、その支配のもとに神の民は置かれることになります。この第二神殿が再び破壊され、神の民も世界離散することになったのが、A.D.70年でした。それから神の歴史の針は止まってしまっています。再び、エルサレムに神の民(ユダヤ人)と神殿が存在するのは、第三神殿が立つときですが、その時は巧妙に反キリストに騙されています。完全な形でこの二つがこの地上に存在するのは、キリストの地上再臨後の千年王国においてです。そこでは、イスラエルの全部族が集められ、エルサレムに第四神殿が建てられるのです。その神殿のことがエゼキエルによって(40章以降)に預言されています。
  • 最終の「新天天地」においては、神と子羊が神殿そのものとなり、そこにあらゆる国の主に贖われた人々が神を礼拝するようになります。新天新地においても、新しいエルサレムにおいて、形のない神殿と神の民たちが存在しているのです。


2013.9.7


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