****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ほかの福音はあり得ない


2. ほかの福音はあり得ない

【聖書箇所】1章6~10節

■ 1章6節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章6節
私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。


パウロの驚き

●【新改訳2017】の冒頭は、原文通り「サウマゾー」(Θαυμάζω)から訳しています。従来の日本語訳では、この動詞が最後に来るように訳しています。しかしギリシア語の冒頭は、しばしば最も強調したい言葉が置かれます。ですから、6節では「私は驚いている」が最も強調されているのです。そして、それ以降にその驚きの理由(「ホテ」ὅτι)が説明されているのです。その理由とは「あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移っている」ことです。「ほかの福音」とは「ヘテロス・ユーアンゲリオン」(ἕτερος εὐαγγέλιον)、「異なる福音」とも訳されますが、それはパウロの宣べ伝えた「キリストの福音」に反するもので、福音とは呼ばれないものです。しかしガラテヤの諸教会の人々がそれに急に移っていくことにパウロは驚いているのです。新改訳の「驚いています」を、新共同訳では「わたしはあきれ果てています」、口語訳では「不思議でならない」と訳しています。驚きというよりは、憤りと失望の感情、非難めいた言葉となっています。

●それは「キリストの恵みによって自分たちを(原文は「あなたがたを」)召してくださった方」から離れていくことを意味するからです。「急に離れて」の「急に」は「速く、直ちに」という副詞「タクセオース」(ταχέως)、および「離れて」は「移る、変更する、見捨てる、顔を背ける」を意味する「メタティセーミ」(μετατίθημι)の二つの語彙からなります。後者の「メタティセーミ」は「自分の忠誠の座を移す」ことでもあるのです。

■ 1章7節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章7節
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。


「キリストの福音」を変えてしまおうとする者たち

●パウロが宣べ伝えた「キリストの福音」こそ、唯一の福音です。「キリストの福音」は「福音の真理」という表現でも使われています(2:5, 14)が、それを曲げて(曲解させて)「あなたがたを動揺させて」(「かき乱して」、「タラッソー」ταράσσω)しまおうとするユダヤ主義的キリスト者がいたのです。彼らは人が義とされるためには、「割礼を受けること」が不可欠だというものです。これは救われるためには、ユダヤ人にならなければならないとする考え方です。この考えこそ福音をゆがめ、福音の空洞化をもたらすのです。ですからパウロは「よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります」(ガラテヤ5:2~3)と述べています。割礼の問題はエルサレムでの教会会議の中心問題でした。その経緯が使徒の働き15章1~2節に、そしてその会議の結果が次のように記されています。

【新改訳2017】使徒の働き15章1~2節、24節
1さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
2それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

24 私たちは何も指示していないのに、私たちの中のある者たちが出て行って、いろいろなことを言ってあなたがたを混乱させ、あなたがたの心を動揺させた(ταράσσω)と聞きました。

  • ところがこのエルサレム会議の決定には重大な欠陥があったのです。この会議では異邦人のために、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞殺した物と血とをさけるようにということが決定されましたが、ユダヤ人信者のためには何一つ決定されなかったのです。つまり、エルサレムにある教会ではそれまで行われてきたことが、それ以後も行われてよいということが承認されるという意味をもってしまったのです。つまり、このことがガラテヤの諸教会を(ピリピやコリント教会も)動揺させる結果をもたらしたのです。

●もし、ユダヤ主義的キリスト者が正しいとするならば、教会全体がユダヤ教化されてしまうことになります。そのように考えている者たちは、自分たちを正当化する根拠として、自分たちが教会の母体となっているエルサレム教会の出身であることや、その教会からの推薦状を得ていることを挙げることによって、必然的にエルサレム教会から推薦されていないパウロの使徒としての権威を否定することにもなるのです。そのような意味で、エルサレム会議は必ずしもユダヤ人と異邦人信者を一致させる福音について問われる会議ではなく、むしろ律法のもとにいるユダヤ人信者をつまずかせないものとなってしまったのです。そこから福音の偽教師たちが新しく誕生した教会を巡回し、割礼を受けなければ救われないと教会をユダヤ化しようとしたのです。このことに対してパウロは戦いをいどんでいるのです。

■ 1章8節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章8節
しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。


福音を変質する者は、のろわれよ

●「キリストの福音」を変えてしまおうとする者たちに対して、パウロの「のろわれるべきです」とは非常に厳しい言葉です。原文では「アナセマ・エストー」(ἀνάθεμα ἔστω)で「のろい、あれ(=呪われよ)」です。「あれ」は「エイミー」(εἰμί)の命令形。使徒パウロは、9節でも同じことを言っています。なぜなら、福音の真理を曲げることは赦されないからです。また、Ⅰコリント16章22節でも「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ」と言っています。

●「のろい」(名詞「アナセマ」ἀνάθεμα)という語彙はガラテヤ書に3回(1:8, 9, 3:10)。同じく名詞の「のろい」(「カタラ」κατάρα)も3回(3:10, 13, 13)。形容詞の「のろわれている」(「エピカタラトス」ἐπικατάρατος)が2回(3:10, 13)使われています。これは「聖絶」を意味するヘブル語の「へーレム」(חֵרֶם)に当たります。つまり、神に引き渡されて滅ぼし尽くされるものという意味です。動詞の「のろう」(「カタラオマイ」καταράομαι)は、ガラテヤ書には出てきませんが、新約聖書では5回(マタイ25:41、マルコ11:21、ルカ6:28、ローマ12:14、ヤコブ3:9)使われています。

●キリストの福音を変える権利はだれにもないのです。なぜなら、それはキリストのものだからです。「たとい・・あろうと・・であろうと」(「カイ・エアン」καὶ ἐὰν)。ほとんど考えられない、あり得ない仮定を導入させています。すなわち、「私たち」(=「使徒たち」)、あるいは「天の御使い」でさえも、福音に反する(「パラ」παρά)なら、「のろわれるべき」(「アナセマ・エストー」ἀνάθεμα ἔστω)なのです。

■ 1章9節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章9節
私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。

●再度、強調されていますが、ここで「私たちが以前にも言ったように」とあるのはどういうことでしょうか。しかも複数形になっています。それは、パウロたちがガラテヤ地方にいたときに、ユダヤ教主義者の危険を察して警告したことがあったからだと考えられます。

●イェシュア自身がのろった者たちがいます。それは福音を拒み、従わなかった者たちに対して(マタイ25:41)、宗教指導者たち(マルコ11:21)。しかし一方、ルカ6章28節では「あなたをのろう者を祝福しなさい」。使徒パウロはローマ書12章14節で「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」と述べています。しかし「福音の真理」に反する者に対しては、容赦なく「のろわれるべきです」と厳しいのです。なぜなら、その背後に神に敵対する悪霊の存在があるからです。

■ 1章10節

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【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙1章10節
今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。

●この10節は一見唐突に思える内容ですが、「今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか」という言及の背景には、パウロに対するある種の非難があったと考えられます。第二次伝道旅行において、テモテが割礼を受けるということがありました。

【新改訳2017】使徒の働き16章1~3節
1 それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。
2 彼は、リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった。
3 パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。

●なぜパウロはテモテに割礼を受けさせたのか、3節には「パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた」とあります。これは一見、ユダヤ教主義者に対して、日和見的、ご都合主義的、妥協的に態度だと非難の口実を与えてしまうところです。しかしパウロがしたことは、ユダヤ教主義者たちのように割礼を救いの条件にして、ユダヤ人のようにならなければ救われないとする意味で割礼を受けさせたのでなく、その問題によって、ユダヤ人に対して福音を宣べ伝えるという、より大切な事柄が妨げられてしまうことを懸念したのです。Ⅰコリント9章20節以下にはこう記されています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙9章19~23節
19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。
20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。
21 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが── 律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。
22 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。
23 私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。

●これがパウロの原則です。パウロは福音の真理に関することには厳しくても、便宜的な事柄に関しては極めて譲歩的な人だったのです。それがユダヤ教主義者たちによって、むしろ意図的に曲解され、揚げ足を取っているという面があるからです。「もし、人を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません」と言っているように、「人を喜ばせようとしている」のは偽教師のほうだとパウロは言いたかったのです。ガリラヤの諸教会の人々にこのことを理解してほしかったと思われます。

■ 1章6~10節までの要約  

●1~5節の挨拶に続いて、6~10節ではこのガラテヤ人への手紙の主題が述べられていました。この手紙の主題とは、「ほかの福音」に対して、「キリストの福音」を弁証するところにあります。パウロが「ほかの福音」を宣べ伝える者は厳しい口調で「のろわれよ」と言っています。なぜなら、福音が福音でなくなってしまうからです。それはパウロの宣べ伝えた福音がキリストの啓示によるものだからです。この意味することが11節から展開されていきます。

2019.7.2

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