その日、主の足はオリーブ山の上に立つ(改訂)
14. その日、主の足はオリーブ山の上に立つ(改訂)
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【聖書箇所】14章1節~21節
ベレーシート
●ゼカリヤ書14章は最も心踊らされるエキサイティングな箇所です。13章8節の「全地はこうなる」というフレーズが引き続いて、14章でも継続されて、やがてイスラエルの民の民族的回心によって、メシアが到来して実現するメシア王国の預言的眺望が記されています。
●ここに記されていることはこれからのことです。特に、「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山に立つ」との預言は、キリストの再臨の預言であることは明白です。14章に記されているキリスト再臨の前後に起こる出来事をまとめてみたいと思います。
【新改訳2017】ゼカリヤ書14章1~9節
1 見よ、【主】の日が来る。あなたから奪われた戦利品が、あなたのただ中で分配される。
2 「わたしはすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。都は取られ、家々は略奪され、女たちは犯される。都の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は都から絶ち滅ぼされない。」
3 【主】が出て行かれる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
4 その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。
5 「山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたはわたしの山々の谷に逃げる。ユダの王ウジヤの時に地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げる。」私の神、【主】が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。
6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
7 これはただ一つの日であり、その日は【主】に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。
8 その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。
9 【主】は地のすべてを治める王となられる。その日には、【主】は唯一となられ、御名も唯一となる。
1. ハルマゲドンの戦い(1~3節)
●「見よ。主の日が来る。」(1節) ー「主の日」とは、今の世と後の世を分ける日であり、主が天から来られてこの世に対する審判が行われる日、すなわち、大患難時代の終わりに起こる出来事です。具体的には「ハルマゲドンの戦い」です。「ハルマゲドン」ということばはありませんが、内容としてはこれまで何度も語られてきたように、反キリストの軍勢とキリストの軍勢による最後の決戦です。しかもその舞台となるのは、エルサレムです。
●2節「わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる」とあります。主が諸国の民にエルサレムの攻撃を許しているのは、イスラエルのかたくなな心と偽メシアを受け入れた大罪のゆえに、試練の火の中を通させることで彼らの霊の目を開かせるためです。
●かつて彼らはメシアが二千年前に来臨された時に、その方を拒絶し、十字架につけて殺すという大罪を犯しましたが、終わりの日には、偽メシア(反キリスト)を真のメシアとして信じて歓迎するという大罪を犯します。偽メシアとの平和条約を結び、平和が到来したことを喜んでいるその矢先に偽メシアに裏切られ、一転して大患難という民族存亡の危機(ヤコブの悩みの時)に陥ります(七年間の後半の三年半)。最後の砦であるエルサレムも占領され、土壇場に追い込まれます。そのとき、彼らははじめて神に向かって必死の叫び声を上げて、真のメシアを求めるようになるのです。イエスはかつて「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と、あながたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」(マタイ23:39)と言われましたが、そうした時が到来する時が来るのです。
2. キリストの再臨と大地震の預言(4~5節)
(1) 主の栄光が戻る場としてのオリーブ山
●メシアが天から降り立たれる場所は、かつてイエスが昇天されたオリーブ山です(使徒1:10~12)。そこはかつて神の栄光が神殿から離れ去った場所ですが、やがてそこに神の栄光が戻って来ることも預言されています(エゼキエル43:2)。メシアが天から降り立たれる場所と神の栄光が戻ってくる場所が同じなのです。しかも戻って来る神殿は新しく建て直される第四神殿と思われます(ただし、実際にはボツラという場所です。そのあとにオリーブ山に立たれるのです)。
【新改訳改訂第3版】使徒の働き1章10~12節
10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。・・【新改訳改訂第3版】エゼキエル書11章22~23節
22 ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動き出し、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。
23 【主】の栄光はその町の真ん中から上って、町の東にある山の上にとどまった。【新改訳改訂第3版】エゼキエル書43章2節
43:2すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。44:4 彼は私を、北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、なんと、【主】の栄光が【主】の神殿に満ちていた。そこで、私はひれ伏した。
(2) オリーブ山が二つに裂ける大地震
●現在のオリーブ山は、エルサレムの「神殿の丘」とよばれる「モリヤの山」より95メートルほど高いようです。しかしメシア再臨の前に、かつてない大地震が起こり、オリーブ山は南北に二分され、東の死海から西の地中海へと大きな谷ができます。この地殻変動によって、エルサレムに包囲されていたイスラエルの民に脱出の道を開くことになります。イスラエルの民はそこを通って逃げることができるのです。そのようにして、14章2節の「しかし、残りの民は町から滅ぼされない」ということが実現します。
(3) 主はすべての聖徒たちとともに来る(5節後半)
●エルサレムに包囲された民が助け出された後に、主は、すべての聖徒たちとともに地上に来られるのです。その箇所を原文で見ると以下のようになっています。
●「すべての聖徒たち」(【新改訳2017】「すべての聖なる者たち」)と訳された部分を、口語訳は「もろもろの聖者」と訳し、新共同訳は「聖なる御使いたち」と訳しています。私見としては、おそらくこの両方が含まれていると考えられます。というのは、新約では「私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られる時」(Ⅰテサロニケ3:13)とも、「見よ。主は千万の聖徒らを引き連れて来られる。」(ユダ14)ともあり、そしてまた「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき」(マタイ25:31)という表現もあるからです。
●もし使徒パウロがいうように「私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られる」(Ⅰテサロニケ3:13)とするならば、この「聖徒たち」とはいったいだれのことでしょうか。それは、主によってすでに空中に携挙された者たち(=キリストの花嫁である教会とそれとは別の「反キリストによって殉教した異邦人たち」)であると解釈するのが自然です。とすれば、聖徒たちはすでに霊のからだに変えられているので、御使いたちと同じからだとなっているのです。
●このことに関連して、ヨハネの黙示録3章10節に「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」(新改訳)とあります。「試練の時には」と訳されていますが、ここはギリシア語の「エク」(έκ)が使われており、「あることから救出される」「~の中から救い出される」というニュアンスがあります。つまりこの箇所は、大患難という事態に先立って、神がご自身に属する民を安全な場所へ移されるということを示唆していると考えられます。つまり、キリストの空中再臨によって教会は携挙されるということです。マタイの福音書24章37~42節のイエスの言葉もそのことを裏付けています。
【新改訳改訂第3版】マタイ24章37~42節
37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。※「取られ」は「連れ去られる、迎え入れられる」を意味する「パラランバノー」(παραλαμβάνω)と「残される」は「取り残される、見捨てられる」を意味する「アフィエーミ」(ἀφίημι)ということから、キリストの空中再臨による教会の携挙を意味します。
●と同時に、この携挙によって「小羊の婚礼」がなされるとも考えられます(黙示録19:7~8)。その後、キリストの地上再臨の時に、キリストとともに地上にやって来ると考えられます。ゼカリヤ書14章5節の「すべての聖徒たちも主とともに来る」という預言は、主にある者たち(教会=初代教会のメシアニック・ジューの人々、そして黙示録7章の殉教した異邦人クリスチャンたち)の立ち位置についても預言されていることになります。主にある私たちは確実に、キリストとともにこの地上に実現されるメシア王国、すなわち千年王国で生きる者とされるのです。携挙における喜びもさることながら、地上再臨において主から信任されてこの地上を支配する喜びに預からせていただけるのです。まさに心踊る出来事です。
3. メシアの王国(千年王国」は人間の想像を越えた世界(6~8節)
(1) 昼も夜もない「ただ一つの日」
●メシアの地上再臨によってもたらされる新しい世界(千年王国)の中心地となるエルサレムは、人が想像し得ないような世界です。「夕暮れ時に、光がある」(7節)とあるように、エルサレムだけは常に光が照らされており、夜がないからです。
●今日のテゼ共同体で出版されている本に「来てください。沈むことのない光」(初期キリスト者のことば)があります。初期のキリスト者は「沈むことのない光」であるメシアを待ち望んでいたことがわかります。つまりメシアの再臨による王国の到来は、神の臨在の光に包まれる時代として描写されているのです。メシアによって到来する千年王国のシャハイナ・グローリーは「主の光」「天からの光」「恵みとまことの光」「信仰と希望の光」「愛といのちの光」「永遠の光」なのです。それを主にある者たちが、大患難という試練をくぐり抜けて純化されたイスラエルの民とともに、この地上において経験できる時が来るのです。そのことを知ることで、御国に対する揺るがない希望をもって生きることができるのです。まさに神の「光」(「オール」אוֹר)とは、永遠の神のご計画そのものなのです。
(2) 神殿から流れ出るいのちの水はすべてのものを生かす
●8節の預言も想像を越えた世界です。エルサレムはこの時代には地震による地殻変動によって最も高い山となります。そのエルサレムの神殿(第四神殿)の敷居から流れ出るいのちの水については、エゼキエルも47章で預言しています。この水は生ける水の源である神ご自身から湧き出る「いのちの水」(「マイム・ハッイーム」מַיִם חָיִּים)です。この水が流れ行くところでは、すべてのものが生かされるのです。
●エゼキエル書47章によれば、このいのちの水は東に向かって流れて死海に入り、多くの種類の魚が住むようになると預言しています。ゼカリヤ書ではこの水は西の地中海にも注がれることが示されています(14:8)。
●いのちの水がエルサレムの神殿から流れ出るだけでなく、同時に、イザヤによれば、「すべての国々がそこに流れて来る」ことが預言されています。それは、「シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るから」です(イザヤ2:3)。ヤコブの家も、そして異邦人の主にある者たちも「主の光に歩む」ようになるのです(同、5節)。そのような世界が来ることへの期待をますます新たにしたいものです。
2013.10.11(2020.6.29/t.5856)
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