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あなたがたはキリストの手紙です


3. あなたがたはキリストの手紙です

【聖書箇所】Ⅱコリント書2章15節~3章18節

べレーシート

●パウロはこの手紙を、悲しみの手紙(涙の手紙)の後で、パウロの指導に対して主に悔い改めたというコリントの人々に対して書いています。その時点から書かれていることを知ることが重要です。今回は2章15節から3章18節を通して、「キリストの香りを放つ務め」と「あなたがたはキリストの手紙です」ということについて学びたいと思います。

1. キリストの香りを放つ務め

【新改訳2017】Ⅱコリント書2章15~17節
15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。
16 滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。
17 私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。

●15節の「私たち」と17節の「私たち」とは、誰のことを指しているのかと言えば、それは使徒パウロとその同労者(テトス、およびテモテ)のことです。3章に入ると「あなたがた」とありますので、これが「コリントの教会のクリスチャンたち」のことです。2章17節の「多くの人たち」と3章1節における「ある人々」とはおそらく違う人々のことで、後者の「ある人々」とはコリント教会でパウロを悩ませた者たちではないかと思われます。パウロは常にそのような人々の存在を意識しながら、この手紙を書いていると思われます。

●3章に入る前に、「私たちは、・・・神に献げられた芳(かぐわ)しいキリストの香りなのです。」(2:15)とあります。「芳しい香り」(最上の香り)のことをギリシア語で「ユーオーディア」(εὐωδία)と言います。「ユーオーディア」という日本のクリスチャンのクラシック音楽家たちによるミニストリーがあります。パウロはこのことばを、イェシュアが私たちの愛のいけにえとなってくださったこと、そしてピリピ教会の人々がパウロに対して経済的な支援をしてくださったことを、それぞれ神への「芳しい香り」と表現しています。

【新改訳2017】エペソ書5章2節
また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。

【新改訳2017】ピリピ書4章18節
私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。

●Ⅱコリントでも、パウロたちが福音を宣べ伝える務めを、神に献げられる「キリストの香り」と言っています。福音が宣べ伝えられるところでは、キリストの福音の香りが遮断されることなく、周りに広がって、その結果として、「救われる人々」と「滅びる人々」が区別されるということです。「救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香り」なのに対し、「滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香り」となってしまうことを述べています。「永遠の救いと永遠の滅び」、「いのちと死」とに分けてしまうこの重大な務めに立たされている立場を知って、パウロは「このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか」と言っています。私の務めが、ある人を永遠のいのちに導くかと思えば、ある人を永遠の滅びに追いやることになるとすれば、自分がこの務めにふさわしいと言えるだろうか、果たしてこの務めに耐えられるであろうかという自己問答をしながら、私たちこそこの任に耐え得るのだという含みがあります。17節には「なぜなら」という理由を示す「ガル」(γάρ)があります。「なぜなら」、自分たちは「神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語」っているからなのだと言っています。残念ながら、【新改訳2017】は16節と17節のつながりを明確に訳していません。

【新改訳2017】Ⅱコリント書2章17節
私たちは、多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせず、誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。

●ここで「多くの人たちのように、神のことばに混ぜ物をして売ったりせずに」とはどういうことでしょうか。これは、神のことばに混ぜ物をするような偽教師たちがコリントの教会の中にいたという話ではなく、この世の一般例として、当時「利益を増やすために混ぜ物を入れて売る」ということがあった事実を取り上げ、もし神のことばに混ぜ物をして売ったとすれば、人をいのちか死かという決断の前に立たせることなど全くナンセンスなことだということです。そうではなく、「誠実な者として」、「また神から遣わされた者として」、純真な動機で、混ぜ物のない福音を伝える者にのみ、生と死を分ける務めは耐え得るものなのだということをパウロは言いたかったのです。そして、コリントの教会の人々はパウロが言おうとしたことを正しく理解し、悔い改めたのです。

2. あなたがたが、キリストの手紙です

●パウロが悲しみの訪問、また悲しみの手紙を書いた背景には、パウロがエルサレムの教会から推薦状をもらっていないということにありました。そのことが3章1節で分かります。

【新改訳2017】Ⅱコリント書3章1節
私たちは、またもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたに宛てた推薦状とか、あなたがたからの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。

●一般的に、推薦状(=推薦の手紙=「ススタティコス・エピストレー」συστατικός ἐπιστολή)、ないしは紹介状は、相手に信用を与えるもので、人と人との信頼関係を結ぶ上において重要なものです。パウロ自身もある人を推薦(紹介)しています。「推薦する、紹介する」という動詞は、「共に」を意味する「スン」(συν)と、「立つ」を意味する「イステーミ」(ίστημι)の合成語で「共に立つ」を意味する「スニステーミ」(συνίστημι)です。パウロはローマ人への手紙を届けたケンクレヤの教会の奉仕者(女執事)フィベを、ローマの教会の人々に「推薦します」と手紙の中に書いています(ローマ16:1)。その内容は「どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。」(16:2)というものでした。ローマの教会の人々の中にパウロを知っている人(プリスカとアキラ)がいましたが、パウロの推薦(紹介)があったことで、フィベはパウロの代理者として快く受け入れられたはずです。

●実は、この「推薦する」(「はっきりと示す」)ということば「スニステーミ」(συνίστημι)は、Ⅱコリント書の重要句で16回中9回(Ⅱコリントに)使われています。他のパウロ書簡も含めると14回です。ですから、この語彙はパウロの特愛用語と言えるでしょう。それほどに、コリント教会の人々との間に信頼関係を築くことに、パウロが労苦したことが伺えるのです。3章1節の他に、4章2節、5章12節、6章4節、7章11節、10章12節、18節、18節、12章11節です。

●昔のユダヤ人たちは何かをするのに、権威ある筋からの推薦状や紹介状といったものをもらうことが常識だったようです。パウロ(サウロ)が教会を迫害していた時も、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙(「エピストレー」ἐπιστολή)を書いてくれるように頼んだとあります(使徒9:1~2)。しかしパウロが回心してからというもの、権威ある人からの推薦状を必要としなくなりました。コリント教会の中には「パウロは、12使徒たちのようなキリストの直弟子ではないのだから、権威はないのだ」という考えを持つ人々がいて、パウロを悩ませたのです。パウロにはエルサレムにいる使徒たちの推薦状というものはありませんでしたが、そうしたものが私たちの間に必要なのでしょうかと質問し、その推薦状なるものが必要なら、「私たちの推薦状はあなたがたです」(3:2)と述べています。「推薦状」と訳されたことばは、「(推薦の)手紙」(「エピストレー」ἐπιστολή)のことです。これはどういうことでしょうか。これがⅡコリント書3章の重要なテーマなのです。パウロの言う手紙とは個人宛ての手紙とは異なり、むしろその存在が公に知られ、その内容がだれにも読まれなければなりません。その意味において、コリントの教会の人々は、すべての人に知られ、読まれる存在なのです。3章3節でパウロは「あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです」と記しています。ここでは「あなたがた」と「私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙」は同義です。「私たちの奉仕の結果」とはとても価値のある特別な資格が神から与えられたことによって書かれた手紙なのだということです。そのことを説明しているのが3~18節なのです。

3. 新しい契約に仕える者となる資格

【新改訳2017】Ⅱコリント書3章3節
それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。

●パウロは「キリストの手紙」という言い方で、・・によって、「書き記された」という言い方をしていますが、これは比喩で、実は「キリストの福音」のことなのです。これは後で「キリストの栄光にかかわる福音の光」(4:4)と言い換えられます。つまり、「あなたがたは、キリストの福音がいかなるものであるかを、人々に対して目に見えるようにされた者たちなのだ」ということです。それが手紙のように「書かれた」とたとえられているのです。その手紙の驚くべき特徴を一言で言うならば、それは「生ける御霊によって、人の心の板に書かれた手紙」であるということです。

●この「キリストの手紙」を書くにあたって、神は「新しい契約に仕える者となる資格を下さった」と言っています。

【新改訳2017】Ⅱコリント書3章4~6節
4 私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。
5 何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。
6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

●「新しい契約」ということばが出てきます。これはエレミヤが預言した「新しい契約」(31:34)であることは言うまでもありません。

【新改訳2017】エレミヤ書31章31~34節
31 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

●「見よ」(「ヒンネー」הִנֵּה)で始まる「新しい契約」の預言は、本来「イスラエルの家およびユダの家」に約束されたものですが、彼らがキリストに心を開かなかったために、異邦人にその恵みが回って来たのです。といっても彼らに対するこの契約は反故にはならず、神のご計画は終わりの日に、すなわちキリストの地上再臨の前に「イスラエルの残りの者」に成就します。この「新しい契約」はペンテコステの時に成就しているのですが、しかしそれはいまだ手付金程度です。といっても、クリスチャンはこの「新しい契約」に仕える資格を与えられているのです。つまり御霊に仕える資格であり、それがいかに栄光にあふれる務めであるかを説明していきます。それが旧約に勝る新約の恵みの特権です。

【新改訳2017】 Ⅱコリント書3章7~17節
7 石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、
8 御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。
9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。
10 実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。
11 消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。
12 このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。
13 モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。
14 しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。
15 確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。
16 しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。
17 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

●以上のことをまとめるなら、以下のようになります。

画像の説明

●「新しい契約に仕える者」とされたクリスチャンの特権と祝福を、パウロは次のように述べています。

【新改訳2017】Ⅱコリント書3章18節
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

●今日、イスラエルの民である多くのユダヤ人はモーセの律法を読み続けていますが、覆いが取り除かれない状態です。つまりベールがかかったままなのです。それはモーセの律法が一時的なものであることをイスラエルの民が悟らないようにするためでした。しかし主に立ち返ったクリスチャンたちは、すでに覆いが取り除かれています。ですから、主を見続けることにより、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくのです。顔が変わるのではなく、顔つきが変えられていくのです。旧約的な表現で言うならば、みずみずしく(青々と)なるということでしょうか。主の御霊によって、そのような者となりたいものです。

【新改訳2017】詩篇92篇13~14節
13 彼らは【主】の家に植えられ 私たちの神の大庭で花を咲かせます。
14 彼らは年老いてもなお 実を実らせ 青々と生い茂ります。




2019.2.21


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