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「高度刺激社会」に抗する力としての「退屈力」

「高度刺激社会」に抗する力としての「退屈力」


  • 斎藤孝著『退屈力』(文春新書、文藝春秋出版、2008.4)を読みました。現代、失われつつある「退屈力」の大切をあらためて教えられた一冊です。
  • 「退屈力」という概念は、斎藤氏が構想30年をかけて作りだした概念のようです。
    彼はこの本の中で、常に何かの刺激を求め、退屈しないように自分をセツティングしている現代の「高度刺激社会」現象に対して警鐘を鳴らし、それに対してはっきりとNo ! と言えるようにと促しています。
  • 確かに、インターネットの普及によって情報量は拡大する一方で、今やどんどん刺激的な映像や情報に容易に触れる時代です。裏社会とつながっている大量の迷惑メールは、ひとたび関与しようものなら、破滅しかねない状況へと陥っていく罠が潜んでいます。
  • ゲームはますますリアルになり、その刺激性は増大しています。刺激性の強いゲームをするとコカインや麻薬を投与したときと同じような現象が脳内に起きて快感が得られるのだそうです。快感を伴う刺激が与えられると、それがまた欲しくなり、次第に同程度の刺激では満足できなくなり、さらにより刺激の強いものを求めるようになります。ゲーム依存症、パソコン依存症、パチンコ依存症、セックス依存症、薬物依存症はみな同じからくりです。そうした依存症の人たちが加速度的に増えつつある社会、これが「高度刺激社会」です。
  • しかし「高度刺激社会」に呑み込まれることなく、それに抗する力こそ「退屈力」だと斎藤氏は提言しています。彼の言う「退屈力」の定義をいくつか列記してみると
    (1) 少ない刺激で豊満な満足感を得る力
    (2) 一見退屈に見えるようなことの中に、当人は退屈を感じずに喜びを見出していく力
  • 斎藤氏がラッセルの『幸福論』から引用している言葉も実にうなずかされます。以下、引用してみましょう。
    「偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた。」(99頁)
    「総じてわかることは、静かな生活が偉大な人びとの特徴であり、彼らの快楽はそと目には刺激的なものではなかった、ということだ。偉大な事業は、粘り強い仕事なしには達成されるものではない。」(101頁)
  • 斎藤氏が「退屈力」を養うために有効な方法として提案しているのは、「勉強」、「読書」です。確かに、「勉強」はテレビやゲーム、ネットに比べるならばきわめて退屈なものです。「読書」もそれ自体、努力を要する作業、ましてや一冊の本を読み通すということは大変です。しかし、勉強や読書の面白さに目覚めるためには、ある程度、山を乗り越えなくてはならないということも事実です。本に限らず、すぐれた映画には、退屈な部分が必ずといってよいほどあります。しかも展開は実にゆっくりとしています。しかしその先に感動があると思うからこそ、それに付き合うことができるのではないかと思います。一度、そのことに目が開かれたならば、刺激的なものは、まやかしにさえ思えてきます。
  • 信仰の世界も全く同じことが言えます。神と私たちのかかわりを築くためには、じっくりと聖書を読むことが不可欠です。聖書などは超退屈な部分が多々あります。しかしそこを読み解いていくとき、それまで見えなかった豊かな世界にぶつかります。地道な取り組みの先にある霊的な感動があるのだと、私は、最近、ますます体験しています。ですから、斎藤氏のいう提案がとても共感をもって読むことができました。
  • 退屈力」-これをどのようにして、自分とそして自分とかかわる者たちと共有できるのか、それが私の今後の大きな課題だと受けとめています。ちなみに、私の生き方のキーワードは「ゆっくり、ゆったり、豊かに」です。「退屈力」と通じるところ大です。


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