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「雨は二度降る」

「雨は二度降る」(終末に与えられる神の祝福)

【聖書箇所】ゼカリヤ書10章1~12節

ベレーシート

●9章では主の来臨において「初臨」と「再臨」があることが預言されていましたが、ゼカリヤ書10章においては、聖霊降臨も二度あることを学びます。つまり、「初めの雨(新改訳2017)」(=先の雨)と「後の雨」です。終末において神の民(ユダとエフライム)に与えられる祝福、すなわち、「後の雨」について預言されています。

●聖書でいう「終わりの日」、あるいは「主の日」、「その日」についての理解において、旧約の預言の特徴としての「二重性」があることを考慮する必要があります。つまり、「終わりの日」には「第一次の成就」と「第二次の成就」があるのです。ここでの第一次の成就はペンテコステとともに始まった教会の時代を意味し、第二次の成就はキリストの再臨前の第二のペンテコステを意味します。後者ではユダヤ人が「民族的な救い」に与ることが預言されているのです。この預言の「二重性」を承認し理解することができないなら、大きな混乱を招きます。

【新改訳2017】ゼカリヤ書 10章1 節
【主】に雨を求めよ、後の雨の時に。
【主】は稲光を造り、大雨を人々に、野の草(=神のことば)をすべての人に下さる。

●ここでは「後の雨」のことが語られ、「雨を求める」ことが命じられています。このことからも、聖書は常に終わりのこと、最後のことに関心が向けられていることがわかります。「後の雨」とは「収穫のための雨」なのです。「稲光」(1節)は、作物を成熟させるのに不可欠な「春の雨」、つまり「後の雨」の訪れを告げる「しるし」です。イスラエルにおける「初めの雨(先の雨)」「後の雨」について、その概観を知っておくことは重要です。

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1. 後の雨(マルコーシュ)の時に大雨を求めよ

●聖書は、聖霊の働きを「雨」にたとえて語っています。「雨」だけでなく、下記の図に見るようにいろいろな表象が使われていることがわかります。

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●聖霊の象徴は「鳩」を除けば、「風」「息」「水」「火」「雨」「露」のような自然現象で表されています。それらは常に他のものの中に浸透し、自然の結実から抽出された「ぶどう酒」や「オリーブ油」も人間の生活には不可欠で、直接、手で触れることは出来ますが、その働きは神秘性を有しています。つまり聖霊(御霊)は、御父と御子から一時も切り離すことのできない方であり、永遠に御父がおられるところに存在し、御子がおられるところにも同時に存在しておられる方なのです。三一の神は「相互内在」「同時同存」です。

●「後の雨」とは「春の雨」とも言い、収穫の前に降る大切な雨です。その前に降る雨を「冬の雨」とも言います。「後の雨」に対比する雨として「初めの雨」があり、こちらは夏の干ばつで固くなった地を柔らかくするために降る雨で、「秋の雨」とも言います。これらはみな時にかなって降る「祝福の雨」(エゼキエル34:26)です。

●ちなみに、「後の雨」(春の雨)のヘブル語は「マルコーシュ」(מַלְקוֹשׁ)で、3月から4月にかけて降る雨を意味します。使用頻度は8回(申命11:14、ヨブ29:23、箴言16:15、エレ3:3/5:24、ホセア6:3、ヨエル2:23、ゼカリヤ10:1)です。別名「終わりの雨」とも言います。これに対して、「初めの雨」(秋の雨)のヘブル語は「モーレ」(מוֹרֶה)で、10月の後半から12月の初め頃まで降る雨を意味します。他にも「ヨーレ」(יוֹרֶה)があり、3回の使用です(申命11:14、エレミヤ5:24, 24)。

●エゼキエル書34章26節の「祝福の雨」は、「初めの雨」と「後の雨」を含めたものを意味しますが、ヘブル語では「ギシュメー(גִּשְׁמֵי)・ヴェラーハー(בְרָכָה)」、英語では showers of blessing です。ここでの「祝福の雨」の「雨」は「ゲシェム」(גֶּשֶׁם)の複数形「ギシュメー」(גִּשְׁמֵי)ですが、この語が単数で使われても「大雨」と訳されます。ゼカリヤ書10章1節の「大雨」は「ゲシェム」です。

●「ゲシェム」(גֶּשֶׁם)は38回使われていますが、最初に出て来るのは創世記7章12節です。ノアの洪水のとき、天の水門が開かれて、大雨が40日40夜降ったとあるように、巨大な水の源がことごとく張り裂けて降った雨が「ゲシェム」です。そこでは神のさばきとしての「大雨」でしたが、ホセア書6章3節では祝福の雨として「大雨のように」「降り注ぐ雨のように」と表現されています。新約ではこの「大雨」が聖霊の傾注の象徴として用いられます。つまり、「雨」は聖霊の象徴なのです。

●ゼカリヤ書10章1節の「雨」と訳されたヘブル語は「マータール」(מָטָר)で、旧約では38回使われています。「ゲシェム」と比べるならば量の少ない雨を、あるいは一般的な意味としての「雨」を意味します。「後の雨」が降る時に「雨」を求めるならば、主は稲光を造り、大雨を人々に与えるという約束が預言されています。

2. 終わりの日に注がれる聖霊の祝福の預言(聖霊降臨の祝福は二度ある)

【新改訳2017】ヨエル書 2章23節
シオンの子らよ。あなたがたの神、【主】にあって、楽しみ喜べ。
主は、義のわざとして、初めの雨(「モーレ」מוֹרֶה)を与え、かつてのように(つまりノアの洪水の時のように)、あなたがたに大雨(「ゲシェム」גֶּשֶׁם)を降らせ、初めの雨(「モーレ」מוֹרֶה)と後の雨(「マルコーシュ」מַלְקוֹשׁ)を降らせてくださる。

●聖書の舞台となっているパレスチナは、4月から10月頃まで続く長い「乾季」と、10月の終わりから始まる「雨季」があります。「雨季」は、乾季で岩のように硬くなった地を柔らかくするための激しい雨が降ることから始まります。柔らかくなった地を耕して種をまくのです。この「雨」を「初めの雨」(あるいは「秋の雨」)と言います。そのあと、12~2月にかけて間欠的に激しい雨が降り、やがて春の収穫時期が近づくと、穀物を十分に実らせるためのものすごい勢いの雨が降り始めます。この雨を「後の雨」(あるいは「春の雨」)と言います。二つの雨―「初めの雨と後の雨」、「秋の雨と春の雨」―が降らなければ、種まきも刈り入れもできないのです。その間にも間欠的に降る雨は、歴史の中にみられたリバイバルと考えることができます。これからもそうしたリバイバルは起こる可能性がありますが、それと最終的な大収穫をもたらす雨とは質が異なります。最終の大収穫は、聖書によればユダヤ人の民族的救いが定められているのです。

●「初めの雨(秋の雨)」はすでに二千年前のペンテコステの時に降りました。しかし大収穫の「後の雨(春の雨)」はまだです。この雨が降るのは、大患難時代の終わり頃です。この雨によって、イスラエルの残りの者は覚醒して救われ、その後にキリストが再臨され、メシア王国(千年王国)時代がやってきます。すでに主にあるクリスチャンたちは空中に携挙されていますが、ユダヤ人の民族的救いなしには異邦人クリスチャンの救いの完成もないのですから無関心でいることはできません。イスラエルの残りの者が神に立ち返って救われることと、キリストの再臨とは密接な関係をもっています。私たちはその意味で、ヨエル書のいう「後の雨」が注がれることを待ち望まなければなりません。また、ゼカリヤ書10章1節にあるように、「後の雨の時に、主に雨を求め」なければならないのです。なぜなら、主はイスラエルの民とイスラエルの地に大雨を降らせて、大いに祝福してくださるからです。私たち異邦人クリスチャンは、イスラエルに接ぎ木された存在であることを忘れてはなりません。私たちも「雨を求める」ことが必要なのです。「雨を求める」とはどういうことでしょうか。それは、神と人がともに住むという究極的な神の国(=御国)を求めることなのです

3. 神の民の圧倒的な勝利(3~7節)

【新改訳2017】ゼカリヤ書10章3~7節
3 「わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰する。」万軍の【主】は、ご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場の威厳ある馬とされる。
4 この群れからかしら石が、この群れからが、この群れから戦いの弓が、この群れからすべての指揮する者が、ともどもに出て来る。
5 彼らは勇士のようになり、戦場で道端の泥を蹴散らして戦う。【主】が彼らとともにおられるからだ。彼らは馬に乗る者どもを辱める。
6 「わたしはユダの家を力づけ、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが彼らの神、【主】であり、彼らに答えるからだ。」
7 エフライムは勇士のようになり、その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。彼らの子らは見て喜び、その心は【主】にあって大いに楽しむ。

●ここには、キリストの地上再臨のことが預言されています。
(1)3節・・【主】がご自分の群れであるユダの家を訪れるということ。
(2)4節・・ユダから「かしら石」「杭」「戦いの弓」「すべての指揮する者」が生え出るということ。1章の「四人の職人」もそうであったように、これらはすべて単数でメシアを啓示しています。
(3)5~7節・・彼ら(ユダとエフライム)が勇士となって敵を踏みつけるために、【主】は彼らを連れ戻されます

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4. 神の民を集める主(8~12節)

【新改訳2017】ゼカリヤ書10章8~12節
8 「わたしは合図をして彼ら(ユダとエフライム)を集める(「カーヴァツ」קָבַץ)。わたしが彼らを贖ったからだ。
彼らは以前のように数を増す。
9  わたしは彼らを諸国の民の間にまき散らすが、彼らは遠く離れてわたしを思い出し、
その子らとともに生き延びて帰って来る。
10 わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、アッシリアから集める。わたしはギルアデの地とレバノンへ彼らを連れて行くが、そこも彼らには足りなくなる。
11 彼らは苦難の海を渡る。海では波を打ち破り、ナイル川のすべての淵を涸らす。アッシリアの誇りは低くされ、エジプトの杖は離れ去る。
12 わたしは【主】にあって彼らを力づける。彼らは主の名によって歩き続ける。──【主】のことば。」

●この段落で重要なことは「集める」ということです。「まき散らす」が「連れ帰る」これが「集める」ということです。これが「収穫」を意味するのです。

【新改訳2017】ミカ書4章6~8節
6 「その日──【主】のことば──わたしは足を引きずる者(全イスラエル)を集め(「アーサフ」אָסַף)、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を呼び集める(「カーヴァツ」קָבַץ)。
7 わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。【主】であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。
8 あなたは、羊の群れのやぐら、娘シオンの丘。あなたには、あのかつての主権、娘エルサレムの王国が戻って来る。」

●メシア王国におけるすばらしい経験をする前に、苦難を通ることが11~12節で預言されています。

【新改訳2017】ミカ書4章11~12節
11 今、多くの国々があなたに敵対して集まり、そして言う。「シオンは汚されるがよい。われわれはこの目でじっとそれを見ていよう」と。
12 しかし彼らは【主】の御思いを知らず、その御計らいに気づかない。主は、打ち場の麦束のように彼らを集められた(「カーヴァツ」קָבַץ)のだ。
13 「娘シオンよ、さあ、脱穀せよ。わたしが、あなたの角を鉄とし、あなたのひづめを青銅とする。あなたは多くの国民を粉々に砕き、彼らの不正な利得を【主】のために、彼らの財宝を全地の主のために聖絶する。」

●イェシュアが再臨してメシア王国が実現される前に、イスラエルの民は苦難を通ります。それは反キリストによる未曾有の大患難といわれる出来事です。ただし、キリストの花嫁である教会はこの苦難から携挙によって免れます。この未曾有の大患難は彼らが民族的に神に立ち返るために与えられる「最後のチャンス」です。

●11節の「多くの国々があなたに敵対して集まり」とは、反キリストによって集められた軍勢を意味します。神の民イスラエルを滅ぼすためのハルマゲドンの戦い、そしてエルサレムの破壊。彼らは神のご計画を知らず、主の道具として用いられるに過ぎません。そして彼らはその目的を果たすと、主によってさばかれるために「打ち場の麦束のように集められ」て敗北します。その後でシオンの回復がなされるのです。これが「御国の福音」であり、「御国の勝利」なのです。置換神学と個人的救いの強調によって、この「御国の福音」が今日見失われています。

●反キリストを神としたユダヤ人は死を余儀なくされます。「それから終わりが来る」のです。御使いたちは、「正しい者たちの中から悪い者どもをより分ける」のです。そのことを語っているのが「地引き網のたとえ」です。

【新改訳2017】マタイの福音書13章47~50節
47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。
48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。
49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、
50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

●「地引き網のたとえ」は「この世の終わり」の話です。ここでの「正しい者たち」(=「良いもの」)とは、「イスラエルの残りの者」によって救われる「数えきれないほどの大勢の群衆(「ゴーイム」גּוֹיִם)」、すなわち、「異邦人」です。なぜなら「海」とは、神に敵対する勢力を表すものだからです。

【主】に雨を求めよ、後の雨の時に。

The 2nd Celebrate Sukkot 集会Ⅹ 2023.10.7 (Sat/朝)
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