****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「第二回セレブレイト・ハヌッカーを終えて」


「第二回セレブレイト・ハヌッカーを終えて」

「振り返りと、今後の神の導き」

ベレーシート

●昨年12月24~31日に、「第二回セレブレイト・ハヌッカー」の祭りがAC(=アシュレークラス)の主催で行われ、連日24~38名のメンバーが集いました。今日の礼拝ではその「振り返り」と、これからの「神の導き」について語ろうと思います。

●「ハヌッカー」(חֲנֻכָּה) とは神殿再奉献を意味します。これは、B.C.140年ごろ、アンティオコス・エピファネス4世によって汚されたエルサレム神殿を復興し、再奉献したことにちなんでいます。「ハヌッカーの祭り」は、神によって贖われたキリストの花嫁に花婿を慕い求めさせ、花婿のために再献身を促す祭りです。そうした理解から、今回はその根幹的な聖書箇所としての「創世記2章」を取り上げました。なぜなら、そこには人にとっての「ふさわしい助け手」が、人の「あばら骨」(=霊)を取って造られたことが記されているからです。これは、単に「人とその妻」(男と女)の話ではなく、神とイスラエル、キリストとエックレーシアという重層的な意味が含まれています。事実、使徒パウロは「男とその妻=イーシュ(אִישׁ)とイッシャー(אִשָּׁה)」を「キリストとエックレーシア」の啓示として悟り、「この奥義は偉大です」(エペソ5:32)と言っています。「エックレーシア」は、キリストの花嫁であり、花婿の「ふさわしい助け手」であるべきです。

●神である主は「ふさわしい助け手」を人に与えるために、「深い眠りを人に下された」(創2:21)とあります。「深い眠り」とは「死」を意味します。そのような表現で、この人が「最初のアダム」ではなく「最後のアダム」(キリスト)であることが、預言的に、奥義的に、かつ重層的に語られているのです。つまり、「ふさわしい助け手」である花嫁が、人の「あばら骨」である霊によって造り上げられたのです。眠りから覚めた人は、「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉」と言って喜びを表していますが、ここでの「ついに」と訳された冠詞付きの「今度こそ」を意味する語彙「ハッパイム」(הַפַּיִם)もきわめて預言的、奥義的です。それは死からの復活を秘めた語彙だからです。創世記2章には、神と人、人とその妻、神とその民イスラエル、キリストとエックレーシアといったかかわりのすべてが、霊によって結ばれていることが語られています。神のご計画とみこころ、神のみむねとその目的が啓示されている重要な箇所と言えます。それだけに創世記2章は繰り返して学ばなければなりません。なぜなら、「わたしは後のこと(=終わりのこと)を初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う」と、主ご自身が語っておられるからです(イザヤ46:10)。

1.イェシュアと「宮きよめの祭り」(ハヌッカー)

●「ハヌッカーの祭り」は、「宮きよめの祭り」(新改訳)、「神殿奉献記念祭」(聖書協会共同訳)、❝the Feast of Dedication❞ (NKJV)とも訳されています。Dedicationは「献身」を意味し、日々の「デボーション」(devotion)も同様な意味を持っていると言えます。イェシュアもこの「宮きよめの祭り」にいたことが記されています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書10章22~23節
22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。
23 イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。

●「そのころ」と訳された「トーテ」(τότε)は、「そのとき」とも訳すことができます。つまりそこに文脈の流れがあることが暗に示されています。時は冬で、エルサレムで宮きよめの祭りがあって、イェシュアは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられました。イェシュアが「宮きよめの祭り」のときに、宮の中を歩いておられたことが重要なのです。かつてイェシュアは「過越の祭り」の時に、一度宮きよめをしています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書2章13~16節
13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
16 鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」

●その後で、次のように預言します。

【新改訳2017】ヨハネの福音書2章19~21節
19 イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」
20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」
21 しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。

●この預言が成就するのは、イェシュアの死と復活によってですが、その三か月前の「宮きよめの祭り」の直前に、イェシュアはエルサレムで「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」(ヨハネ10:11)と語っておられます。ヨハネ10章に記されているこの話における「羊の囲い」は、神殿ユダヤ教、律法主義というストイケイアを象徴しています。「囲い」(「アウレー」αὐλή)は「監禁され、閉じ込められている」ことを意味します。ここでの「羊」とは「イスラエルの民」のことです。しかし牧者であるイェシュアは、羊がその囲いから出てくる「門」となり、自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出しますと語っています。そして、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」(同10:10)とも言われています。その羊だけではなく、

【新改訳2017】ヨハネの福音書10章16~18節
16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。
17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」

画像の説明

●16節の「この囲いに属さないほかの羊たち」とはだれのことでしょうか。それは「異邦人の選びの者たち」です。イスラエルと異邦人の群れが「一人の牧者」によって「一つの群れ」となるという話です。さらにイェシュアは、「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです」と言っています。このことばは「宮きよめ(ハヌッカー)の祭り」の精神そのものであり、神殿奉献を意味する主体的なことばです。共観(マタイ・マルコ・ルカ)福音書は、こぞってイェシュアの苦難を受難として捉えていますが、ヨハネの福音書はそれとは異なり、「自分から進んで」と積極的です。それを表すかのように、イェシュアは「宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた」(23節)と記されています。

●日本語では分かりませんが、イェシュアが「歩いておられた」はギリシア語では「ペリパテオー」(περιπατέω)の未完了が使われています。つまり「継続的に歩き続けていた」という意味になります。ヘブル語訳では「ミットハッレーフ」(מִתְהַלֵּךְ)とあり、「歩く」を意味する「ハーラフ」(הָלַךְ)のヒットパエル態の分詞です。つまりイェシュアが神のみこころに従って、自ら主体的、自発的に歩むことを意味する語彙です。ぶらぶらと歩いていたという意味ではありません。明確な意志をもってこの祭りに参加していたことを表しています。しかも「そのとき」が、イェシュアの公生涯の三年目が過ぎた最後の「冬」であったという点が重要なのです。イェシュアの母マリアも受胎告知の際、御使いに「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と答えた時も同じく「冬」でした。このことは決して偶然ではないはずです。母マリアも、イェシュアも、自分の身を神に献げる決意をしているのです。このことは、ノアやアブラハムがそうであったように、主の祭壇を築いて(「バーナー」בָּנָה)、その上で「全焼のささげ物」を献げた行為に等しいのです(創8:20, 12:7,8, 22:9)。この献身こそが、キリストの花嫁としてふさわしいしるしなのです。

2. 「建て上げ」の二つの系譜

●創世記2章では、神である主が人に「ふさわしい助け手」を与えるために、深い眠りを下し、その「あばら骨」(=霊)を一つ取り、一人の女に造り上げたことが記されています。この「造り上げ」ということがとても重要です。神の霊は人にいのちをもたらすからです。神の「いのち(「ハッイーム」חַיִים)」と「造り上げ(「バーナー」בָּנָה)」は、聖書全体を貫く重要なテーマです。以後、「造り上げ」を「建て上げ」とします。

●主の祭りの骨頂は、打ち上げ花火のように終わってしまうのではなく、そこで取り上げられたテーマを、さらに継続的に深めていくことにあります。この「いのち」と「建て上げ」のテーマは、今後、「ヨハネの福音書」から学ぶようにと導かれています。創世記2章で語られている「いのち」と「建て上げ」のテーマは、ヨハネの福音書のテーマです。いずれも主体は神です。神の「いのち」と、神による「建て上げ」が聖書全体を貫いています。ヨハネの福音書には、三一の神にある「いのち」が「ことば」(御子)のうちにあること、そしてその御子のうちにある「いのち」が人にどのように表現され拡大されていくかが記されています。次回から順次取り上げます。

●「建て上げる、造り上げる」と訳される「バーナー」(בָּנָה)は旧約で379回使われています。この語彙の初出が創世記2章22節で、神である主が、霊によって一人の女(=ふさわしい助け手=花嫁)を造り上げています。それは男と女が霊による深い交わりを通して、神と人とのかかわりのいのちを拡大させるという話です。

聖書には、二つの「建て上げ」の系譜があります。その一つは、「神によってすべてが建て上げられていく」流れです。神がノアの時代、すべてをリセットすべく洪水を起こした後に、ノアは祭壇を築きます。この祭壇を「築く」に「バーナー」(בָּנָה)が使われています。祭壇を「築く」という行為は、神を神として、神によって建て上げられる(=再建される)ために、自分のすべてを神に献げるという礼拝行為です。この建て上げの流れは、アブラハム(12:7, 8)、イサク(26:25)、ヤコブ(35:7)と引き継がれ、モーセへと引き継がれて行きます。その究極的な姿こそ、「聖なる都」としての「新しいエルサレム」です。

●もう一つの流れは、神に反逆する者が「自分のために建て上げる」という流れです。この流れを取り上げることによって、花嫁が神によって「建て上げられる」ということがどういうことかを、より理解しやすくなります。「神殿再奉献」を意味する「ハヌッカー」(חֲנֻכָּה) の語源「ハーナフ」(חָנַךְ)は、「訓練する、奉献する」ですが、そこから「エノク」(「ハノーフ」חֲנוֹךְ)という人物の名が登場します。「エノク」は、カインの息子の名前です。と同時に、カインが建てた町の名前でもあります。それは、神の目的を阻止しようとするサタンのもくろみであり、サタンによる偽りの建造物です。その経緯が以下にあります。

(1) カイン

【新改訳2017】創世記4章10~17節
10 主は言われた。「いったい、あなたは何ということをしたのか。声がする。あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。
11 今や、あなたはのろわれている。そして、口を開けてあなたの手から弟の血を受けた大地から、あなたは追い出される。
12 あなたが耕しても、大地はもはや、あなたのために作物を生じさせない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる。」
13 カインはに言った。「私の咎は大きすぎて、負いきれません。
14 あなたが、今日、私を大地の面から追い出されたので、私はあなたの御顔を避けて隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となります。私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう。」
15 は彼に言われた。「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」は、彼を見つけた人が、だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた。
16 カインはの前から出て行って、エデンの東、ノデの地に住んだ。
17 カインはその妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたので、息子の名にちなんで、その町をエノクと名づけた。

●カインは神によって与えられた安全の保障である「しるし」を信じることなく、自分で安全のしるしを見出そうとする道を選びます。その目的のために、彼は町を建てます。カインにとって「町を建てる」ということは、さまよい歩く中で、ここでなら安らぐことができると信じこむ場所、つまり「自分を守る定住地」を築くということです。そしてカインはノデの地で技術を見出し、文明を築こうとします。「ノデ」(「ノード」נוֹד)の地とは、特定の地名ではなく、むしろ「御顔を避けて、さまよい歩く」を意味する「ヌード」(נוּד)、あるいは「ナーダド」(נָדַד)から来ています。確かなことは、ここから神に逆らい、自分の力によって町(=都、「イール」עִיר)を建て上げようとする文明が始まって行ったということです。

(2) エノク

【新改訳2017】創世記4章18~22節
18 エノクにはイラデが生まれた。イラデはメフヤエルを生み、メフヤエルはメトシャエルを生み、メトシャエルはレメクを生んだ。
19 レメクは二人の妻を迎えた。一人の名はアダ、もう一人の名はツィラであった。
20 アダはヤバルを産んだ。ヤバル天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった
21 その弟の名はユバルであった。彼は竪琴と笛を奏でるすべての者の先祖となった
22 一方、ツィラはトバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる道具を造る者であった。・・・

●20節の「天幕に住む者、家畜を飼う者」とは、人が生存するためのすべての産業を意味します。21節の「竪琴と笛を奏でるすべての者」とはすべての芸術(音楽など)や楽しみを意味し、22節の「青銅と鉄のあらゆる道具を造る者」とは技術革新と呼べるすべてを意味しています。特に技術革新は戦争と密接な関係があり、この世を占有するための武器に利用されます。その意味では、「エノク」とは、神に逆らい、人や物を占有しようとすることにおいて「開始・先導・先鞭(せんべん)をつける」という意味を含んでいます。「先鞭をつける」とは、「先に手をつける・パイオニアとなる・草分けとなる・先駆者となる」ことを言います。そうした技術革新こそが世界を支配する者となるからです。これが技術革新に拍車がかかる要因です。現代のAIの技術はすさまじく、AIによって造り出された仮想の世界を見る時、人々はフェイクと真実を判別できなくなります。やがて登場する獣と呼ばれる反キリストは、そうした技術革新を手にすることで、「大淫婦」と呼ばれる「大バビロン」を築いてこの世を支配すると考えられます。すべて「町を建てる者」は、カインの子であり、その意志を受け継ぐものです。世界にあるすべての町(都市)の全歴史は、カインがした行為を出発点としています。「町・都・都市」を意味する「イール」(עִיר)は神の都エルサレムを指しますが、同語根の「アール」(עָר)は「敵」を意味します。同語根が両義性を有しています。このことは、サタンが神を真似る存在であることをも示しています。

(3) 二ムロデ

●カインの次に町を建てた者として、二ムロデがいます。彼は地上において権力者となった最初の人物です。「二ムロデ」という名前は、「逆らう」を意味する「マーラド」(מָרַד)の未完了形に第一人称複数の「二」(נִ)が付くことで「二ムロデ」(נִמְרֹד)となり、「われわれは反逆しよう」という意味になります。誰に反逆するのかと言えば、神に対してです。二ムロデはハムの子孫です(創10:6, 8)。ハムが父ノアの裸を見た(=父の秘密を知ろうとした)ことで、それを知ったノアは「カナン(=ハムの子)はのろわれよ(「アーラル」אָרַר)。兄たちの、しもべらのしもべとなるように」(創9:25)と言います。カナンの父ハムがセムとヤフェテのしもべとなるようにとの宣告を受けたことによって、彼の子孫たちが権力者になろうとし、その証しが「町を建てる」という形で表されたと考えられます。まさに権力は神に背く心のかたくなさから生じた実です。そして、神のさばきが下る時まで彼らは決して止めようとはしません。独裁者は常にそうです。今日の中国の独裁者もまさにそうです。そしてやがて登場する獣と呼ばれる反キリストは、その独裁者をはるかに超えた存在となって、神の民イスラエルに未曾有の苦難をもたらすことが決まっています。

●二ムロデについての記述を見てみましょう。

【新改訳2017】創世記10章8~12節
8 クシュはニムロデ(נִמְרֹד)を生んだ。ニムロデは地上で最初の勇士(גִבֹּר)となった。

●二ムロデは地上で「最初の・・となった」とあります。これは「始めた、最初となった」を意味する動詞「へーへール」(הֵחֵל)で、二ムロデ自身がそうなろうとしたことが分かります。その背後にはサタンがいます。「へーへール」(הֵחֵל)は「ハーラル」(חָלַל)のヒフィル態で、「始める、始まる」を意味します。

9 彼は主の前に力ある狩人(גִבֹּר־צַיִד)であった。それゆえ、「主の前に力ある狩人ニムロデのように」と言われるようになった。

●「主の前に力ある狩人」とはどういうことでしょうか。「主の前に」と「力ある狩人」がどのような関係にあるというのでしょうか。「主の前に」は、新改訳改訂第三版までは「主のおかげで」と訳されていました。LBでは「神様に祝福された」とあります。しかし原文は「主の前にいる」(הוּא־הָיָה גִבֹּר־צַיִד לִפְנֵי יְהוָה)となっていることに注視すべきです。それは、彼が主から離れた者でありながら、の御前にあるということです。つまり彼のすることがすべてに見られ、に知られているということを意味します。こそが至高者であるということを表しているとも言えます。また「力ある狩人」の「狩人」(「ツァイド」צַיִד)であるとはどういうことでしょうか。それは、「ツァイド」を、語源の「獲物を捕らえる、獲物をしとめる、いのちをあさる」を意味する「ツード」(צוּד)から考えると、「強奪者、略奪者、征服者」と訳した方がより理解できます。

10 彼の王国の始まり(רֵאשִׁית)は、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアルの地にあった。

●「シンアルの地」は「シュメール」とも言われ、「バビロニア全域」を意味します。そこを二ムロデが支配していたのです。しかし彼はそこでおとなしくとどまってはいません。根が「強奪者・略奪者」だからです。

11 その地から彼はアッシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、カルフ、

●二ロムデは自分の権力を打ち立てるために、アッシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、カルフの町々を略奪し、そこに次々と町を建てていきます。町や都市は戦争の文明です。「征服と建設」は切り離すことができない密接な関係にあります。これは神に背く権力者の意志の表れであり、現代においても変わりません。独裁国家においてはそれが顕著です。思想・政治・経済・社会が「征服と建設」の二つを軸として動いているからです。しかしこの独裁者は「主の前にいる」存在でしかありません。必ずや終焉する運命にあるのです。

12 およびニネベとカルフの間のレセンを建てた。それは大きな町であった

●「レセンを建てた(בָּנָה)。それは大きな町であった」とはどういうことでしょうか。「レセン」(רֶסֶן)は町の名前であると同時に、「(馬の)くつわ、手綱」を意味します。聖書で「馬」とは力の象徴であり、権力のしるしです。現代でいうならば、馬は「核」を持つことに他なりません。核を保有することは、戦争における防御となります。あらゆる技術と発明は戦争の先端に有用されます。その意味で、「レセン」は「最大の町」だったと言えます。このように、町(都市)は「集まり、群れ集まるところ」です。しかし神の建てるものとは明確に対峙しています。二ムロデの支配の中心はバベル、すなわちバビロンです。創世記11章では次のように記されています。

(4) 「町を建てること」の究極的目的

【新改訳2017】創世記11章1~4節
1 さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。
2 人々が東の方へ移動したとき、彼らはシンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ。
3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」
彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。
4 彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」

●ここでの話の焦点は、自分たちのために「町を建てること」と、「名をあげること」の二つです。「塔を建てること」は町を建てることの中に含まれています。しかし「町を建てること」の究極的目的は、「名をあげること」にあります。この場合の「名」とは「支配のしるし」なのです。そして「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。」と呼びかけます。しかしそれに対して、神は彼らのことばを混乱させて阻止します。神はそれに対抗させて、「主の名を呼ぶことを始め」させています。

【新改訳2017】創世記4章26節
セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた

●カインの子孫たちによる殺戮や暴力が全地を横行するなかで、神はセツを与えます。「セツ」の語源は動詞の「シート」(שִׁית)で、「立てる、固定させる」という意味です。神はセツによって、神と人との本来あるべき正しいかかわりを再び固く立て直そうとされます。このセツからエノシュが生まれます。「エノーシュ」(אֱנוֹשׁ)の語源は動詞の「アーナシュ」 (אָנַשׁ)で「壊れやすい、なおらない、癒えない」といった弱さを表すことばです。「弱さを持った人」としての「エノシュ」の誕生は、人々をして「主の御名を呼ぶ」ことを始めさせました。「始めた」とありますが、正確には「始めさせられた」で、「ハーラル」(חַָלַל)のホファル態(受動使役態「フ―ハル」הוּחַל)となっています。つまり神によって「主の御名を呼ぶようにさせられた」のです。このことが神の「建て上げ」において重要なことなのです。私たちが「シェーム・イェシュア」と呼ぶのは、イェシュアの御名の権威の中に生きることを得させてくださることを意味しています。それは「キリストの力が私(たち)をおおうため」(Ⅱコリント12:9)なのです。

べアハリート

●初代教会に与えられた唯一の権威は「イェシュアの御名」、すなわち「シェーム・イェシュア」だけです。この御名こそ救いとすべての祝福をもたらす神の権威です。エックレーシアを建てるために神が与えておられる唯一の権威は、この「シェーム・イェシュア」(שֵׁם יֵשׁוּעַ)にあることに注視(留意)すべきです。この権威ある名は、人となられたイェシュアの贖いによるものなのです。しかもその贖いはすでに「包括的になされている」のです。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~11節
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げてすべての名にまさる名を与えられました
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

●「いのちの源泉」(いのちの源)は、「ことば」である「神のひとり子」、すなわち「御子」です。御子は「人のいのち」となられました。「いのちである御子」は「主」であると同時に、「主は御霊」です。「父は子に良いものを与えられる」方であり、その良いものとは「聖霊」のことです。つまり、それは「いのちを与える霊」です。その霊によって、私たちは神によって「建て上げられていく」のです。

●キリストの「花嫁」は神の「都、町」(עִיר)でもあり、「主の家」(「ベート」בֵּית)でもあります。それが主の御名によって建て上げられることを信じながら、「シェーム・イェシュア」の力をますます経験する者となりたいものです。

三一の神の霊が私たちの霊とともにおられます。

2024.1.7
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