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「神への奉仕の力」をもたらす油

7.「神への奉仕の力」をもたらす油

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聖書箇所; 使徒の働き1章5, 8節

はじめに

  • ルカは「使徒の働き」の1章で、イエスが使徒たちと別れる前に残された最後の命令を伝えています。

    1:5
    ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける。
    1:8
    聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

  • イエスの受難の間の弟子たちの行動はよく知られています。彼らはとても情けない弱さをさらけ出しました。ペテロはイエスを否認し、ほかの弟子たちは逃げ出しました。そして彼らはイエスの復活後も「ユダヤ人たちを恐れて」ある場所に隠れていました。そんな彼らにイエスは「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:29)という使命をゆだねられました。すばらしい任務ですが、この任務は臆病な弟子たちの能力をはるかに越えたものでした。
  • ところが実際に約束された聖霊が臨み、状況は全く一変したのです。やがてペテロは大群衆の前に立ち、イエスがなさったことを人々に語りかけ、思い出させました。またイエスの死を要求したことで人々を糾弾し、神がイエスを死者の中からよみがえらされたことを宣言します。そして今自分の罪を悔い改め、復活されたイエスを信じるならば、だれでも罪を赦されて救われると宣告します。信じられないような結果になりました。三千人が洗礼を受け、生まれたばかりの教会に加わったのです。
  • 聖霊降臨(ペンテコステ)の前には、人を恐れていた弟子たちが、今や聖霊の力に覆われて、もはや何者も恐れない者となったのです。ユダヤの指導者たちはありとあらゆる手段を講じて福音の宣教をやめさせようとし、彼らを捕らえ、脅迫し、鞭打たせますが、何をしても無駄でした。「人に従うより、神に従うべきです。」とペテロをはじめ使徒たちは答えたのです。その後でステパノが最初の殉教者となり、ヤコブも殺されます。しかしそれでも福音は広がっていきました。そして極めつけは、迫害の先頭を切っていたひとりの青年がだれよりも多くの働きをすることになったのです。その青年こそ、後の使徒パウロでした。
  • 聖霊の力はだれもとめることが出来ませんでした。まさに主が約束されたとおり、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、・・地の果てまでわたしの証人となります。」(使徒1:8)が現実となったのです。ここでの「力を受ける」とは、聖霊による油注ぎを受けることを意味しています。その力とは、主イエスをあかしするだけでなく、主のために殉教することも厭わない力なのです(「証人」と訳された「マルテュス」μάρτυςは「殉教者」という意味があります)。
  • イエスも公生涯に入られるとき、「御霊の力を帯びて」おられました。そしてナザレの会堂でイザヤを開かれ、「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。・・・」という部分を朗読し、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と語ったのです。
  • 「主の御霊がおられる」ことと「油を注がれる」こととは同義です。旧約時代において、王と祭司と預言者が神から任職を受けるとき、その働きを力をもってなすための「油注ぎ」を受けました。彼らは上からの力、任職の油、つまり聖霊による油注ぎを受けることで、神の特別な働きをしたのです。(脚注1)
  • イエスは「聖霊による油注ぎ」を完全に受けておられました。イエスが天に帰られた後で、イエスを信じるすべての者にその「聖霊による油(権威と力)」を注がれたのがペンテコステの出来事だったのです。

1. 神の働き(奉仕)のために聖別する油注ぎ

  • 「油注ぎ」は旧約時代においてあらゆる時代にわたって行われていました。大祭司(祭司)、預言者、王たちは、神の特別な働きのために聖別され、神からの権威と力を賦与されたのです。ダビデのように、サムエルから王となるべく油注ぎを受けてから10余年にわたる荒野の放浪生活による特別な訓練を受けた者もいれば、預言者エリヤの後継者であるエリシャのように、エリヤの二倍の油注ぎを受けて、文字通り、エリヤの二倍の働きをした者もいます。神からの霊としての油注ぎが切れるならば、その働きの力は喪失したのです。したがって神の働きを全うするためには、聖霊の油注ぎが、日々、必要だったのです。
  • 「キリスト」とは「油注がれ者」という意味です。とすれば「イエスはキリストです」とは、「イエスが神からの油注ぎを受けた王であり、大祭司であり、そして預言者である」という信仰告白を意味します。

2. 聖霊による油注ぎの諸相

(1) イエスを受け入れるすべての者に与えられる聖霊の油注ぎ

  • 人がどのようにして神に仕えるかを規定したレビ記、その14章に宿営の外に隔離されていたツアラートを再び宿営の中に入れるための手続きについて記されています。まずは祭司たちのところに行って、いけにえの血を注がなければならないこと、そのことによってツァラートははじめて宿営の中に入ることができます。その後、つまり宿営の中に入ることの出来たツァラートは、宿営の中で再びいけにえの血を注がれ、かつ油を注がれて後に神の民として受け入れられたのです。
  • 祭司はツァラートの「右の耳たぶ」と「左の親指」と「右足の親指」に、血と油を塗って贖いをなしました。このことは今日のキリスト者にとっての型です。主の前においてツァラート同然の私たちが、神の小羊であるイエス・キリストの血潮によってはじめて神に受け入れられ、その後で(と言っても同時に)「聖霊の証印」をいただくことができます。この聖霊の証印によって、自分が神に受け入れられ、神の子であることの確証をいただくことができます。主にある新しい人生はここからスタートです。たとえ人から理解されなくとも、神に従うことを選び取り、ますます神を知るようになるのは、最初の聖霊の油注ぎを受けているからです。

(2) 神への奉仕のために与えられる聖霊の油注ぎ

  • 最初の聖霊による油注ぎがあるとすれば、第二段階の聖霊の油注ぎも存在します。この第二段階の油注ぎは神への奉仕のための力ある働きのために必要です。これは大祭司、預言者、王としての油注ぎというよりも、毎日、神の幕屋で奉仕する祭司たちのために必要なものでした。この油注ぎは祭司個人のためというよりも、幕屋全体、イスラエルの民全体のために仕えるための力と言えます。キリストのからだである教会に仕えるキリスト者も同様に、教会のさまざまな領域の働きをなすために必要な力を日々、あるいは折々に聖霊から与えられる必要があります。あくまでもこの聖霊の油注ぎは、個人プレーをするためのものではなく、キリストのからだである教会に仕えるために、建て上げるために与えられる奉仕の力です。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)とあるように、神の宮、聖霊の宮としての教会の働きは、私たちの生来の力によってなされるものではありません。神から与えられる聖霊の油注ぎによってなされるものなのです。
  • 多くのキリスト者たちがこの聖霊の油注ぎについて無知であってはならないのです。この聖霊の油注ぎは、キリスト者一人ひとりにすでに与えられている「御霊の賜物」をふさわしく働かせる力とも言えます。聖霊の油注ぎを受けて仕えることをせず、肉の頑張りだけで奉仕しているなら、疲れるばかりです。牧師は力を尽くして説教する準備をしなければなりませんが、聖霊の油注ぎを受けて奉仕するならば疲れることはありません。聖霊の油注ぎは神への奉仕において喜びを与られるばかりでなく、さらなる上からの力が増し加えられていきます。
  • ツァラートの油注ぎは一度限りのものですが、祭司としての働きのための油注ぎは、日々、新しくされる必要があります。祭司としての油注ぎの祝福は、日々、主の臨在の中を歩み、主の静かな御声を聞く交わりの中で与えられ、新しくされます。もしこの油が切れるならば、教会の中にさまざまな歪みをもたらすことになります。イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられます。」(ルカ11:9)と言われました。(脚注2)

(3) リーダー的存在のために与えられる聖霊の油注ぎ

  • 最初のイエスを信じるすべての者に与えられる聖霊の油注ぎ、そして神の宮を建て上げるために与えられる聖霊の油注ぎ、その他に、リーダー的存在のために、あるいは特別な領域における使命のために備えられている聖霊の油注ぎというのもあると信じます。神の民に対する神の恵みはみな公平なものですが、とりわけ働きに関しては、やはり異なった聖霊の油注ぎというものがあると信じます。それは神の主権によって与えられるもので、たとえそれをだれかが得たいと願っても、あるいは人に与えられている油注ぎを羨んだとしてもそれを得ることはできません。使徒パウロに与えられた聖霊の油注ぎは、使徒としての、あるいは使徒の中でも特別な油注ぎと言えます。
  • 教会のかしらはイエス様ですが、そのイエスによって召し出された特別な働きをする者たちがいるのです。この聖霊の油注ぎは神の権威による圧倒的な力をもたらすものです。神の全能の力が目に見えて働く力です。多くのキリスト者を真理に導くための特別な聖霊の油注ぎ、しるしと不思議をもたらす力でもあります。
  • この第三の油注ぎは神からの特別なものであり、「求めなさい、そうすれば、必ず与えられます」という類のものではないのです。もしリーダー的使命のために与えられるこの聖霊の油注ぎを、求める者がだれでも受けられるとすれば、「船頭多くして、船山に登る」ということが起きるでしょう。また教会の中で肉的なクーデターが起こることでしょう。この聖霊の油注ぎを受ける者は神の前に特別な謙虚さと従順さが求められます。ダビデがそうであったように、神によって選ばれ、神によって訓練され、整えられ、神の時が来たときにのみこの賜物は発揮されます。
  • この第三の油注ぎの不思議なところは、サウル王のように不従順という罪を犯すことによって完全に取り去られることもあれば、ダビデのように恩寵によって取り去られることがないということもあり得るということです。まさに神の完全な主権の領域に置かれている特別な油注ぎと言えます。

脚注1
聖霊の象徴としての「油」は、神への奉仕の力(神に仕えるための力)の象徴だけでなく、神の歓迎の象徴でもあります。その際の油は「オリーヴ油」ではなく、「香油」です。詩篇23篇でダビデは「あなたは・・私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。」と告白していますが、ここでの「油」は主の恩寵としての歓迎の香油です。「食事」も「香油」もユダヤ人にとっては歓迎のしるしなのです。ダビデは歓迎として香油を注がれたことにより、「ただひとつのことー主の家に住み、主のすばらしさを仰ぐー」を求め続ける生き方をしたと言えます。他にも「油」(オリーブ油)は「モノ」や「場所」や「人」を神のために聖別する象徴でもあります。しかし今回の瞑想では、神への奉仕の力を与える象徴としての「油注ぎ」に絞って瞑想しようと思います。

脚注2
「求めなさい。そうすれば与えられます。」の前者の命令「求めなさい」は現在命令形です。ですから「求め続けなさい」という意味になります。後者の「与えられます」は未来時制ですから「必ず、与えられます」という意味になります。つまり「求め続けるなら、必ず、与えられる」という意味になります。「期待しつつ、求め続ける」ことの大切さが語られています。求め続けることで必ず与えられるものが何かといえば、それは「聖霊」なのです(ルカ11:13)。


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