****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「永遠の愛」


4. 「永遠の愛」

【聖書箇所】エレミヤ書31章1~24節

ベレーシート

●今回はエレミヤ書31章を味わっていきます。エレミヤ書31章は異常な章です。というのは、この31章を除いてほとんどが神の怒りを記しているのに対して、それが全く姿を消して、神の愛が語られているからです。しかも、3節で記された「永遠の愛」(「アハヴァット・オーラーム」אַהֲבַת עוֹלָם)は、聖書でこの箇所のみです。

●人は「霊とたましいとからだ」の三つの部分からなっています。それは、私たちが神に似せて造られているからです。しかし神は霊と心だけです。神も人も「知性・感情・意志」からなっています。神の知性は「神のご計画やみこころ」の部分。神の感情は「愛・妬み・喜び・怒る・悲しみ・慈しみ」など、そして「意志」は「創造する・作る・行う・導く・治める」などです。今回は、神の感情の領域の「愛」から、「あわれむ・いつくしむ」といった面を取り上げ、それが神のご計画とどのようなかかわりを持っているかを探ってみたいと思います。

1. 「眠りの中での啓示」

●さて、エレミヤが40年間にわたって語った預言のほとんどは南ユダに対してのものでした。その内容は神のさばきであったため、彼は民から無視され、馬鹿にされました。それゆえ、彼は「涙の預言者」とも呼ばれました。ところが、31章は全イスラエルに対するメシア王国での素晴らしい祝福をその内容としています。26節で「ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった」とあることから、エレミヤは31章のことばを聞くために、眠りの中で啓示を受けたのかもしれません。彼はその中で「終わりの日」の預言を聞いていたと思われます。聖書にはヨセフのように、あるいはペテロのように、夢の中で主からの啓示を受け取るケースがたくさんあります。エレミヤが眠りから覚めた時、その眠りが「心地よかった」のは、その啓示の内容が輝かしいものであったからです。フランシスコ会訳は「眠りは甘美であった」と訳しています。「涙の預言者」と言われたエレミヤがそのような経験をしたことは、注目すべきです。私たちもその啓示を、霊を生かして味わってみたいと思います。

【新改訳2017】エレミヤ書31章1~3節
1 「そのとき──【主】のことば──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」
2 【主】はこう言われる。
「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを見出す。イスラエルよ、出て行って休みを得よ。」
3 【主】は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。

●1節の「わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」というフレーズは、31章全体の序言であり、かつ預言の結論です。「イスラエルのすべての部族」とは、文字通り「全イスラエル」を意味しています。この1節が実現するのは「そのとき」、つまりメシア王国が到来してからです。しかしその前に、2節の「剣を免れて生き残った民は荒野で恵み(「ヘーン」חֵן)を見出す。イスラエルよ、出て行って休みを得よ」という預言が実現します。「剣を免れて生き残った民」とは、獣と呼ばれる反キリストに従うことなく、イェシュアをメシアと信じるユダヤ人たちです。彼らこそ「イスラエルの残りの者」で、彼らは「荒野で恵みを見出す」ことになる、だから、そこに行って「休みを得よ」とあります。これはいつ実現する預言なのでしょうか。どのような「恵み」なのでしょうか。それは以下の出来事が考えられます。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録12章14~17節
14 しかし、女(=イスラエルの残りの者)には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所(=ボツラ)に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間(=三年半)、蛇の前から逃れて養われるためであった。
15 すると蛇はその口から、女のうしろへ水を川のように吐き出し、彼女を大水(=諸国の軍勢)で押し流そうとした。
16 しかし、地は女を助け、その口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。
17 すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者(イェシュアをメシアと信じる者)、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。

●エルサレムは反キリストの軍勢によって包囲され、略奪され、多くの者が捕らえられますが、「残りの者は都から絶ち滅ぼされない」のです。また、「荒野での恵み」とは、「大きな鷲の翼が二つ与えられ」、「荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われる」のです。それは本来受けるに値しない者に与えられる神のご好意(「ヘーン」חֵן)です。それによって「イスラエルよ、出て行って休みを得よ」が成就します。「休みを得よ」と訳されていますが、これは「一瞬にして憩う」(「ラーガ」רָגַע)ことを意味します。それはまるで、「台風の目の中に入った状態」です。

【新改訳2017】エレミヤ書31章3節
【主】は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。

●「遠くから」という表現は、単なる距離的概念、あるいは時間的概念というよりも、関係概念としての「遠さ」であり、神から「遠く」離れているにもかかわらず、神が一方的に近づいて来て、現れてくださったという二ュアンスです。ここでの「私」はエレミヤですが、彼と「イスラエルの残りの者」とが同一化しています。

●3節の「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と、「わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」は、同義です。「真実の愛」とは「決して裏切ることのない愛」を意味し、「永遠の愛」(「アハヴァット・オーラーム」אַהֲבַת עוֹלָם)は「不変の愛」とも取れますが、「オーラーム」の語源「アーラム」(עָלַם)が「秘められた・隠された」を意味することから、その愛は20節に見られるような「ハーマー」(הָמָה)や「ラーハム」(רָחַם)を含んだものと言えるかも知れません。「永遠」を理解することは優しいようで、実は難しいのです。

●ヨハネの黙示録14章16節には「永遠の福音」ということばがあります。この福音を伝えるのが御使いなのですが、「永遠」ということばが秘められています。彼は「地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた」とあり、その内容は「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」というものです。これは救うための福音ではなく、マタイの福音書25章34節にあるように、「世界の基が据えられたときから備えられていた御国を受け継ぐ」ための「永遠の福音」なのかも知れません。「永遠のいのち」が単に「不滅のいのち」を意味するのではないと同様に、「永遠」(「オーラーム」עוֹלָם)ということばは、神によって秘められ、隠された内容を含んでいます。

2. 「ハーマー」(הָמָה)と「ラーハム」(רָחַם)

【新改訳2017】エレミヤ書31章20節
エフライムは、
※「エフライム」(אֶפְרַיִם)はヨセフの次男。「エフライムは北イスラエルを代表する部族」として使われています。
わたしの大切な子、(大切な=尊い、高価な、貴重な「ヤーカール」יָקָר)
喜びの(数々の喜びを与えてくれる)子なのか
※原文は「わたしの大切な子なのだろうか、喜びの子なのだろか」とありますが、「無論そうだ」の意です。
わたしは彼を責める(彼のことを語る)たびに
ますます(=再び、さらに)彼のことを思い起こすようになる。(「ザーホール・エズケレッヌー・オード」זָכֹר אֶזְכְּרֶנּוּ עֹוד)
それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。
─【主】のことば─

「わたしは・・ますます彼のことを思い起こすようになる」は「ザーハル」(זָכַר)の「不定詞+未完了形」(「ザーホール・エズケレッヌー」זָכֹר אֶזְכְּרֶנּוּ)で強調表現となっています。つまり「彼を必ず思い起こす」ということです。例としては、創世記2章16節の「不定詞+未完了形」が「アーホール・トーヘール」(אָכֹל תֹּאכֵל)で「あなたは必ず食べよ」、「モート・タームート」(מֹות תָּמוּת)で「あなたは必ず死ぬ」に見ることができます。

●エレミヤ31章20節でも同じ用法で、彼(エフライム)を責め立てることばを語れば語るほど、「わたしは彼のことを必ず思い起こす」という意味になります。
「それゆえ(このゆえに)」(「アル・ケーン」עַל־כֵּן)、
わたしのはらわた」は「わななき」(=立ち騒ぎ、胸は高鳴り、動かされ「ハーマー」הָמָה)、「わたしは彼をあわれまずにはいられない (「ラヘーム・アラハメッヌー」רַחֵם אֲ‍רַחֲמֶנּוּ/「ラーハム」רָחַםの「不定詞+未完了形」)と語っています。

(1) パウロ(サウロ)とアナニヤ

●不思議なことですが、主の弟子たちを脅かし、殺害の意に燃えていたパウロが「天からの光」に照らされ、目が見えなくなったために、彼のお付きの者たちが彼をダマスコに連れて行きました。主はダマスコにいる弟子アナニヤに対して語りかけます。主がなぜアナニヤをサウルの所に遣わしたのか、その必然性があります。「アナニヤ」という名前は、ヘブル名では「ハナヌヤー」(חֲנַנְיָה)となります。これは「恵む、あわれむ」を意味する「ハーナン」(חָנַן)と、「主」を意味する「ヤー」(יָה)が組み合わさった名で、「主はあわれんでくださった」という意味になります。ギリシア表記では「アナニアス」(Ἁνανίας)となっているため、【新改訳2017】では「アナニア」に改訂されています。以前の訳は「アナニヤ」となっていました。主がなぜ「アナニヤ」を遣わしたのか、それは彼の名前の意味に必然性があるのです。以後、「アナニア」ではなく「アナニヤ」と訳された【新改訳改訂第3版】で引用します。

【新改訳改訂第3版】使徒の働き9章10~12節
10さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。
11 すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。
12 彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」

●主がアナニヤに語りかける前に、サウロは幻の中で、アナニヤという人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たとあります。これはとても不思議な幻です。自分を尋ねて来る者の名が「アナニヤ」であることを幻で前もって知らされたからです。サウロにとってこの幻は預言的なものでした。ところが、主の語りかけを聞いたアナニヤはサウロのところに行くことに躊躇しています。

【新改訳改訂第3版】使徒の働き9章13~17節
13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する
権限を、祭司長たちから授けられているのです。」
15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。
16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

●当初、ためらいを感じていたアナニヤに対して、主はサウロに対するご計画と使命とを告げます。このことはとても重要なことで、サウロに対する主の啓示がサウロ自身にだけではなく、アナニヤという第三者にも啓示されたということです(アナニヤこそサウロに対する主のご計画と使命を示された人物だということです)。彼は「律法を重んじる敬虔な人で、そこ(ダマスコ)に住むユダヤ人全体の間で評判の良い人」(使徒22:12)でした。このアナニヤという仲介者を通して、サウロは「兄弟サウロ」として教会の中に受け入れられることになったのです。サウロはアナニヤが自分のところに遣わされたことによって、主のあわれみを受けるという象徴的出会いを経験したのです。

●後に、パウロが第三次伝道旅行からエルサレムに帰った時に、ユダヤ当局に捕らえられて告訴されてしまいます。千人隊長はパウロがなぜ告訴されたのか、事の次第を確かめるために、祭司長たちと全議会、すなわちサンヘドリンの召集を命じました。皮肉なことに、その時の大祭司の名がなんと「アナニヤ」だったのです。彼は自分の権威を見せつけるために、パウロのそばに立っている者たちに、パウロの口を打てと命じた人でした(使徒23:2)。同じ「アナニヤ」でも、こちらは「主が嫌われる」という意味の「ハーナン」(חָנַן)です。同じ「ハーナン」ですが、「ハーナン」という語彙は両義性を持っています。パウロに対する「アナニヤ」の名前を持つ二人の人物に、それが如実に表されています。

(2) 「ハーナン」と「ラーハム」は同義(類義)語

【新改訳2017】ローマ人への手紙 9章15節
神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ(「ハーナン」חָנַן)、いつくしもうと思う者をいつくしむ(「ラーハム」רָחַם)。」

●「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」これは、同義的パラレリズムです。「あわれむ」と訳された動詞は「ハーナン」(חָנַן)で、「いつくしむ」と訳された動詞は「ラーハム」(רָחַם)です。使徒パウロは出エジプト記33章19節を引用していますが、「ハーナン」(חָנַן)は、出エジプト記では「恵む」と訳され、ローマ書では「あわれむ」と訳されています。一方、「ラーハム」(רָחַם)は、出エジプト記では「あわれむ」と訳され、ローマ書では「いつくしむ」と訳されています。つまり、「ハーナン」も「ラーハム」も意味としては同義語(類義語)と考えて良いということです。

●イェシュアの「ラーハム」(ギリシア語は「スプランク二ゾマイ」σπλαγχνίζομαι)を見てみましょう。この語彙はイェシュアのみに使われていて、神の特別な感情を意味しています。この語彙が使われている箇所では、単に「かわいそうに思う」という同情で終わることなく、その後に必ず何らかの「行動」が伴っているのに留意してください。

(3) イェシュアのあわれみ

①【新改訳2017】マタイの福音書 9章36 節
また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
② 【新改訳2017】マタイの福音書 14章14 節
イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。
③【新改訳2017】マタイの福音書 15章32 節
イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」
④【新改訳2017】マタイの福音書 18章27 節
家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
⑤【新改訳2017】マタイの福音書 20章34 節
イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。
⑥【新改訳2017】マルコの福音書 1章41 節
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
⑦【新改訳2017】マルコの福音書 6章34 節
イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。
⑧【新改訳2017】マルコの福音書 8章2 節
かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。
⑨【新改訳2017】マルコの福音書 9章22 節
霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
➉【新改訳2017】ルカの福音書 7章13節
主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。
⑪【新改訳2017】ルカの福音書 10章33節
ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った
⑫【新改訳2017】ルカの福音書 15章20節
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

●イェシュアの「スプランク二ゾマイσπλαγχνίζομαι)は何とその数「12」です。パウロが主から受けた「あわれみ」は単なる同情ではありません。「あわれみ」は具体的な行動となって表れるものです。このイェシュアのあわれみと、人の悔い改めはどのような関係にあるのでしょうか。

3. 「モアブ契約」の存在

●モーセを通して、主がモアブでイスラエルの第二世代と交わした契約があります。これを「モアブ契約」と言います。これはホレブで結ばれた「シナイ契約」(=モーセ契約)とは別のものです。「モアブ契約」を一言で言うなら、「悔い改めの契約」です。申命記30章1~20節に記されていますが、1~5節だけでもその内容を知ることができます。

【新改訳2017】申命記30章1~5節
1 私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことがあなたに臨み、あなたの神、【主】があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたが我に返り、
2 あなたの神、【主】に立ち返り、私が今日あなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、いのちを尽くし、御声に聞き従うなら、
3 あなたの神、【主】はあなたを元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、【主】があなたを散らした先の、あらゆる民の中から、再びあなたを集められる。
4 たとえ、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、【主】はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻される。
5 あなたの神、【主】はあなたの先祖が所有していた地にあなたを導き入れ、あなたはそれを所有する。主はあなたを幸せにし、先祖たちよりもその数を増やされる。

●この「モアブ契約」を要約するなら、「悔い改め」を通して、アブラハム契約とシナイ契約を結びつける契約です。アブラハム契約は無条件で永遠の祝福を約束しています。しかし、シナイ契約は、従うなら祝福を、従わないならのろいをもたらすという条件付きの約束です。ところが、モアブ契約は、イスラエルが神の命令を破り、のろいと災いを受けたとしても、悔い改めるならば、アブラハムの祝福は回復されるという約束なのです。その顕著な出来事が、バビロン捕囚とエルサレム帰還です。捕囚はシナイ契約の「のろいと災い」です。ところが、その捕囚の民が悔い改めると、約束どおり帰還が果たされ、神殿と城壁が再建されたのです。このように、悔い改めれば回復される、これが「モアブ契約」です。イェシュアの公生涯はこの「モアブ契約」に基づいて「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言って開始されたのです。しかし、それに応じなかったユダヤ人は「シナイ契約」によって再び世界離散となり、やがて再び、悔い改めることによって、「モアブ契約」による回復が約束されているのです。あわれみは人が悔い改めなくても発動する神の愛ですが、悔い改めも神の促しがなければ、みこころにかなった悔い改めにはなりません。その悔い改めがなされるなら、神はどんな人であっても、どんな状況からでも回復することができるのです

●「シナイ契約」と「モアブ契約」を換言するなら、「まこと」と「恵み」と言えます。イェシュアが「後の者が先になり、先の者が後になる」(マタイ20:16)と言っているように、常に「恵み」が先行しています。詩篇85篇10節には「恵みとまことはともに会い」とあります。それが天の御国の統治理念(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)と言えます。この神の統治理念をもって、エレミヤ書31章の預言を味わってみましょう。

①【新改訳2017】エレミヤ書31章18~19節
18 わたしは、エフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめて、私は、くびきに慣れない子牛のように懲らしめを受けました。私を帰らせてください(שׁוּב)。そうすれば、帰ります(שׁוּב)。【主】よ、あなたは私の神だからです。
19 私は立ち去った(背いた)後で悔い、悟った後で、ももを打ちました。恥を見て、辱めさえ受けました。若いころの恥辱を私は負っているのです』と。

●エフライムは終わりの日の未曾有の大患難の中で、その苦しみが自分たちの犯した罪ゆえの、神からの懲らしめだと悟るのです。おそらくその悟りは、神からの「恵みと嘆願の霊」の先行的な恩寵によるものです。その霊によって悟り、「ももを打つ」のです。「ももを打つ」とは「胸を打ちたたくこと」と同義です。自分の胸をたたいて「罪人の私をあわれんでください」と祈った「取税人」の祈りがそうです(ルカ18:13)。神はこの「あわれんでください」ということばにひと際、敏感なのです。その取税人はどうなったでしょうか。「義と認められて家に帰った(=御国に入った)のは、あのパリサイ人ではなく、この人です」とイェシュアは言われました。

② 【新改訳2017】エレミヤ書31章4~6節
4 おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。
5 再びあなたはサマリアの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植え、その初物を味わう。
6 エフライムの山で、見張る者たちが『さあ、シオンに、私たちの神、【主】のもとに行こう』と呼びかける日が来るからだ。」

●「おとめイスラエル」とは、ここでは「北イスラエル」であることがわかります。メシア王国では、彼らは完全に偶像を捨てて、まことの神を礼拝するためにシオン(=エルサレム)に上ることが預言されています。

③【新改訳2017】エレミヤ書31章7~9節
7 まことに、【主】はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらに向かって叫べ。告げ知らせよ、賛美して言え。『【主】よ、あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』
8 見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には、目の見えない者も足の萎えた者も、身ごもった女も臨月を迎えた女も、ともにいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る
9 彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻るわたしは彼らを、水の流れのほとりに、つまずくことのない平らな道に導く。まことに、わたしはイスラエルには父であり、エフライムはわたしの長子である。」

●7節で「ヤコブ」が「国々のかしら」となることがわかります。また神は、「イスラエルの残りの者」を「北の国から」連れ出し、「地の果てから」集めるとあります(黙示録7章1~8節参照)。

④【新改訳2017】エレミヤ書31章15~17節
15 【主】はこう言われる。「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ。」
16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──【主】のことば──彼らは敵の地から帰って来る。
17 あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。

●「ラマ」はベニヤミン領であり、ユダの民が捕虜として集合させられた場所です。そこからバビロンに連行されました。ラケルはベニヤミンを産んでから死にましたが、ベニヤミンの人々が連れて行かれることで、「ラケルは泣いている」とあります。ラケルはベニヤミンの擬人化された象徴です。捕囚された民の子らは必ず帰って来るので、「あなたの目の涙を止めよ」とあります。このように全イスラエルが悔い改めることでイェシュアをメシアであると悟ることは、神の悲願です。私たちが将来の神のご計画を知ることは、エレミヤのように、「目覚めの甘美さ」を味わうことになるのです。

三一の神の霊と私たちの霊はともにあります。

2023.11.19
a:326 t:1 y:6

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional