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「悔い改めの勧告」と「第一の幻」

「悔い改めの勧告」と「第一の幻」

【聖書箇所】ゼカリヤ書1章1~17節

ベレーシート

●スッコートの集会Ⅱから、ゼカリヤ書を取り上げます。今回はゼカリヤ書1章1~6節の「悔い改めの勧告(呼びかけ)」と、その勧告をイスラエルの民が受け入れるために、神はゼカリヤに八つの幻を見せますが、今回はその中の「第一の幻」について取り上げたいと思います。まず、冒頭の節を見てみましょう。

1.「イドの子ベレクヤの子、ゼカリヤ」という名前が意味すること

【新改訳2017】ゼカリヤ書1章1節
ダレイオスの第二年、第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような【主】のことばがあった。

●預言者ゼカリヤが登場します。彼の正式の名は「イドの子ベレクヤの子ゼカリヤ」です。「イドの子ベレクヤの子」が苗字で、「ゼカリヤ」が名前です。

(1)「イド」
●「イッドー」(עִדּוֹ)の原意は「戒める、証言する」という意味の動詞「ウード」(עוּד)です。名詞は「エードゥート」(עֵדוּת)で「戒め」「あかし」「さとし」と訳されます。詩篇119篇には「トーラー」がいろいろな言い方で表現されますが、その中に「エードゥート」(עֵדוּת)があります。出エジプト記では「あかしの箱」(Testimony)を意味しますが、詩篇ではその「あかしの箱」の中に納められている石の板に記された十戒のことを指しています。ですから「あかし」と訳しているところもあります。

(2)「ベレクヤ」
●「べレフヤー」(בֶּרֶכְיָה)の原意は、「祝福する」という意味の動詞「バーラフ」(בָּרַךְ)に、「主」を意味する神聖四文字(יהוה)の短縮形「ヤーハ」(יָהּ)がついて「主が祝福する」になります。詩篇119篇の第二段落にも、この動詞が分詞(「ほむべき方」)で登場します。

(3)「ゼカリヤ」
●「ゼハルヤー」(זְכַרְיָה)の原意は、「覚える、記憶する」という意味の動詞「ザーハル」(זָכַר)に、主の短縮形「ヤーハ」(יָהּ)がついて「主が覚えている」「主は決して忘れてはいない」という意味です。詩篇119篇には「ザ―ハル」が三回(49, 52, 55節)出てきます。

●これらを結び合わせて考えるなら、どうなるでしょう。「主があなたがたを祝福しておられ、決してあなたがたを忘れてはおられない。これが主の契約におけるあかしなのだ」というメッセージが浮かび上がります。人の名前にも神のメッセージが含まれています。ここでの「あなたがた」とは、神によって選ばれたイスラエルの民を意味します。それゆえに、ゼカリヤ書の序文的部分(1~6節)で、主がご自身の民に対して、主との正しいかかわりに立ち返るように呼びかけるところから始まっているのです。このかかわりこそが、ゼカリヤ書の終末預言の背景にある重要な事柄なのです。

2.「わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」

●さて、このゼカリヤが語った主のことばを見ていきましょう。

【新改訳2017】ゼカリヤ書1章2~6節
2 「【主】はあなたがたの先祖に激しく怒った。
3 あなたは人々に言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしに帰れ。──万軍の【主】のことば──そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の【主】は言われる。』
4 あなたがたの先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに叫んで言った。『万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは悪の道と悪しきわざから立ち返れ。』しかし、彼らはわたしに聞かず、わたしに耳を傾けもしなかった。──【主】のことば──
5 あなたがたの先祖たちは、今どこにいるのか。預言者たちは永遠に生きるだろうか。
6 しかし、わたしのしもべである預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばと掟は、あなたがたの先祖に追い迫ったではないか。それで彼らは立ち返って言ったのだ。『万軍の【主】は、私たちの生き方と行いに応じて、私たちにしようと考えたことをそのとおりになさった』と。」

(1) ヘブル語特有の強調表現

●ゼカリヤ書1章において、ヘブル語特有の強調表現を見ることができます。それは、同語根を持つ動詞と名詞を重ねて用いることで、意味をより強調するという手法です。この手法は同根対格と言われています。

① 2節「主はあなたがたの先祖に激しく怒った」
動詞の「怒る」(「カーツァフ」קָצַף)と、名詞の「怒り」(「ケツェフ」קֶצֶף)の積み重ね。

② 14節「・・わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」動詞の「ねたむ(熱中する、熱愛する)」(「カーナー」קָנָא)と、名詞の「ねたみ(熱心、熱愛)」(「キヌアー」קִנְאָה)の積み重ね。

③ 17節にも強調表現があります。つまり同じ言葉が一つの節に4回も重ねて使われていることです。それは「もう一度、再び」を意味する「オード」(עוֹד)という語彙です。
【新改訳2017】ゼカリヤ書1章17節
もう一度叫んで言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしの町々には、再び良いものが満ちあふれ、
【主】は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ。』」
●ここで強調されている事柄は、「エルサレムが再建されて、主の神殿が建て直されること」なのです。

④「万軍の主」という主の名
●エルサレムを再建するのはだれか。それは「万軍の【主】」です。ところで、この「万軍の【主】」(「アドナイ・ツェヴァーオート」יהוה צְבָאוֹת)という主の名前は旧約で487回使われています。ゼカリヤ書では53回。今回の箇所(1~17節)でも9回です。「異邦人の時(支配)」におけるユダヤ人、またエルサレムの状態はまことに小さく、貧弱なように見えますが、神の視点から見れば決してそうではないということを示しているのが、この「万軍の【主】」という神の名前なのです。

(2) 悔い改めの勧告(2~6節)

●3~6節には「帰る」(「シューヴ」שׁוּב)ということばが4回(3, 3, 4, 6節)出てきます。捕囚先のバビロンからエルサレムに帰還したユダの民に、主は「わたしに帰れ。・・そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」と約束されました。彼らはバビロンから帰ってきましたが、そのほとんどの人たちは完全に主に立ち返らなかったのです。万軍の主は預言者ゼカリヤを通して、ユダの民に対してご自分に立ち返るよう呼びかけたのです。

●イェシュアの公生涯において、最初のことばは何だったでしょうか。

【新改訳2017】マタイの福音書4章17節
この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい(「シューヴ」שׁוּב)。天の御国が近づいたから」と言われた。

●神が悔い改めを迫る源泉は何でしょうか。それは人が神と向き合う関係に形造られたからに他なりません。

【新改訳2017】創世記2章7~8節
7 神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。


3. 第一の幻:「赤い馬に乗った人」(1:7~17)

●ゼカリヤはダレイオス王の第二年の第八の月に預言者として召されました。そしてその三か月後に、「八つの幻」を見せられます。一晩に、です。それらは「異邦人の時」――バビロンのネブカドネツァルから始まってキリストの再臨まで、神の民とエルサレムを支配した異邦人の時代――における神の民とエルサレムに対して語られている終末預言です。昨日、ハガイ書2章から「さあ今、あなたがたは、今日から後のことをよく考えよ」という預言について話しましたが、ゼカリヤ書も同じです。聖書で私たちが目を留めなければならないことは、「後のこと」だということです。「これはイスラエルの話だろう」と思われるかもしれませんが、私たちエックレーシアは彼らに接ぎ木されたものです。ですから、同じくその方向に目を向けなければなりません。

【新改訳2017】ゼカリヤ書1章7~17節
7 ダレイオスの第二年、シェバテの月である第十一の月の二十四日に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような【主】のことばがあった。
8 夜、私が見ると、なんと、一人の人が赤い馬に乗っていた。その人は、谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。そのうしろには、赤毛や栗毛や白い馬がいた。
9 私は「主よ、これらの馬は何ですか」と尋ねた。すると、私と話していた御使いが「これらが何なのか、あなたに示そう」と言った。
10 すると、ミルトスの木の間に立っていた人が答えた。「これらは、地を行き巡るために【主】が遣わされた者たちだ。」
11 すると彼らは、ミルトスの木の間に立っている【主】の使いに答えた。「私たちは地を行き巡りましたが、まさに全地は安らかで穏やかでした。」
12 それに答えて【主】の使いは言った。「万軍の【主】よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたが憤られて七十年になります。」
13 すると【主】は、私と話していた御使いに、恵みのことば、慰めのことばで答えられた。
14 私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。
15 しかし、わたしは大いに怒る。安逸を貪っている国々に対して。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らは欲するままに悪事を行った。』
16 それゆえ、【主】はこう言われる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。──万軍の【主】のことば──測り縄がエルサレムの上に張られる。』
17 もう一度叫んで言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしの町々には、再び良いものが満ちあふれ、【主】は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ。』」

●最初の幻に登場する人物として、「赤い馬に乗った一人の人」(8節)、「ミルトスの木の間に立っている人」(10節)、そしてゼカリヤと話し、また「万軍の主」と語っている「主の使い」がいます。これらは別々の人物ではなく、一人の人物、すなわち、「受肉前のキリスト」を表しています。旧約聖書には「受肉前のキリスト」と思われる箇所があります。創世記16:7~13、22:11~12、31:11~13、32:24~31、48:15~16。出3:2、ヨシュア記5:13~15、士師記13:3, 6, 17, 18, 22、ダニエル3:25, 7:13、等を参照。

●「ミルトス」はイスラエルの常緑の灌木で「銀梅花」とも呼ばれます。旧約聖書には6回しか使用されていません(ネヘミヤ8:15、イザヤ41:19, 55:13、ゼカリヤ1:8, 10, 11)。レバノン杉のような高木と比べるならば、ミルトスは低木のために見栄えもなく、また建築材としても使えません。それゆえ、謙遜さ、慎ましさの象徴として解釈されています。またミルトスは仮庵を作る時に用いられる(ネヘミヤ8:15)ところから、メシアの時代が暗示されているとも言われます。

画像の説明

●ちなみに、「ミルトス」はヘブル語で「ハダス」(הֲדַס)と言いますが、エステルのユダヤ的別称は「ハダス」の女性形である「ハダッサー」(הֲדַסָּה)です。

(1) 「地を行き巡るために主が遣わされた馬」

●「一人の人が赤い馬に乗っていた」とありますが、その乗り手は他の者たちから全地の偵察の報告を受けていることから、「主の使い」であるとわかります。「赤毛の馬」「栗毛の馬」「白い馬」は、「地を行き巡るために主が遣わされた者たち」です。それらが地を行き巡って見たものは「全地は安らかで穏やか」な様子でした。しかしこの「安らか、穏やか」さは、偽りの平和です。その背景にあるのは神の民を踏み倒し、踏みにじって自分たちの権力を誇っている異邦の諸国(世界)の姿です。神はご自身の民を矯正する目的で異邦人を用いたに過ぎません。しかし彼らは、自分たちの権力を誇っていました、それゆえに、15節で主は「わたしは大いに怒る。安逸を貪っている国々に対して。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らは欲するままに悪事を行った。」と怒りを露わにしています。

●「谷底にあるミルトスの木の間に立っている人」が啓示しているのは、イスラエルの暗黒時代の時にも、神である主がイスラエルのただ中におられるということです。そして続く幻を通して、来るべきメシアに焦点が当てられていくのです。

(2) エルサレムに対する主の熱愛

●「第一の幻」で最も注目しなければならないのは、主のエルサレムに対する熱愛です。かつて、主の栄光がエルサレムから離れて行くのをエゼキエルは見ました(エゼ10:18~19、11:22~23)。そして滅亡が訪れ、異邦人の時が始まったのです。イスラエルの回復のプロセスはこの滅亡とは逆のプロセスとなります。すなわち、エルサレムに神殿が再建されることです。そしてそこに神が帰られることです。この二つのことが真に成就されるのは、千年王国においてです。これが第一の幻の結論です。そのときには、良い(トーヴ)ものが「満ちあふれる」(口語訳・新改訳)、「恵みで溢れる」(新共同訳)のです。原語の「プーツ」(פּוּץ)は「広がって行くイメージ」です。そして、千年王国の時代の都エルサレムは、「主はそこにおられる」〔アドナイ・シャーンマー〕יהוה שָׁמָּה (エゼ48:35)と呼ばれるようになるのです。

The 2nd Celebrate Sukkot 集会Ⅱ 2023.10.2(Mon/朝)
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