****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「今日から後のことをよく考えよ」

「今日から後のことをよく考えよ」

【聖書箇所】ハガイ書2章15, 18節

ベレーシート

●「第2回セレブレイト・スッコート」の集会Ⅰは、朝の礼拝のメッセージに続いて、ハガイ書から取り上げます。バビロン捕囚から解放されて、故国への帰還を許されたユダの民は、単なる帰還が許されたのではなく、エルサレムにおいて神殿を再建すること、それがキュロス王の勅令でした。主に霊を奮い立たせられた最初の帰還者たち(約5万人)は早速、神殿の礎を据えました。ところが、周囲の敵の激しい妨害に遭い、希望は失望に変わってしまいました。工事再開のめどが立たず、神殿再建の工事は18年間中断してしまいます。時を経るうちに、民は、神中心の生き方よりも自分勝手な生活を第一にする生き方へと変質してしまいました。こうした状況を打破するため、神からの強力なインパクトが必要だったのです。

●主は、恐れの中に支配されていた民の前に、二人の預言者ハガイ、およびゼカリヤを遣わして、「わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている。恐れるな。」(ハガイ2:5)と呼びかけ、再建工事を再開するよう彼らの霊(ルーアッハ)を奮い立たせました。それによって彼らは、B.C.520年に再び仕事に取りかかりました。神殿の土台を築いてから18年の月日が経過していましたが、5年後に神殿は再建されました。バビロンによって神殿が崩壊したのはB.C.586年でした。しかし神殿が再建したのはB.C.516年、実にエレミヤが預言した七十年が成就した年です。

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1. ハガイの二度目のメッセージ

【新改訳2017】ハガイ書 1章14~15節
14 【主】が、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の【主】の宮に行き、仕事に取りかかった
15 それは第六の月の二十四日のことであった。ダレイオス王の第二年、

●この節には、主が二人の指導者と民の残りの者の(「ルーアッハ」רוּחַ)を「奮い立たせ」て、18年間頓挫していた神殿の工事を再開させたことが記されています。関根訳は「霊を呼び起こした」と訳しています。工事再開後、神はハガイを通して、覚醒預言を2章1~9節で繰り返しておられます。

【新改訳2017】ハガイ書2章1~5節
1 第七の月の二十一日に、預言者ハガイを通して、次のような【主】のことばがあった。
2 「シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者に次のように言え。
3 『あなたがたの中で、かつての栄光に輝くこの宮を見たことがある、生き残りの者はだれか。あなたがたは今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。
4 しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。─【主】のことば─エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれこの国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──
5 あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている。恐れるな。』

●民が再建工事に取りかかってから、27日目に当たる日に語られたことばです。「第七の月の二十一日」に注目したいと思います。この日「二十一日」は、第七の月(9月中旬~10月中旬)の15日から始まる「仮庵の祭り」初日(今日で言うと10月1日になります)から数えると、7日目に当たります。つまり「仮庵の祭り」の最終日に、ハガイは第二のメッセージを受け取り、語ったのです。

●指導者のゼルバベルと大祭司ヨシュアに対して、また主にあるすべての民に対して、「強くあれ」と命じ、「わたしがあなたがたとともにいるから」と約束しています。「強くあれ」(「ハーザク」חָזַק)というフレーズは、神の歴史の中で何度も繰り返し語られている激励用語です。「強くあれ、雄々しくあれ」という形で使われることが多いのですが、ここでは前半の「強くあれ」のみです。そしてそのあとに「恐れるな」ということばが付随していますが、その理由として、「あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている」からだとしていることが重要であり、ハガイが語るメッセージに一貫しています。これは神が民と結んだ合意に基づくシナイ契約のゆえに、与えられているものです。それゆえに「恐れてはならない」のです。

●恐れはたましいの領域です。それに打ち勝つためには、霊を活用しなければなりません。神がイスラエルの民と結んだ約束により、「わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている」と言われています。こんなフレーズを読んだことがあるでしょうか。ネヘミヤがイスラエルの歴史に働いた神の恵みを回顧している祈りの中に、「あなたは、彼らを賢くしようと、ご自分の良き霊を与え、・・」(ネヘミヤ 9:20)とあります。イザヤ書63章で、主の民がいにしえのモーセの日を回顧している中に、神を「自分たちの中に主の聖なる御霊(=霊)を置いた方」と呼んでいます。人の霊が機能不全を起こしている中でも「霊の残り(残滓)」(マラキ2:15)があるのです。しかしイスラエルの民だけは神との契約のゆえに、また彼らが神のことばを悟り、賢くなるために、「良き霊」が与えられていることを聖書が証言しています。それゆえ神はその霊を働かせることによって、「恐れるな」と語っているのです。「恐れ」はたましいに足場を築いているサタンから来ます。神殿の再建は、単なる表面的な目に見えるものではなく、霊的な戦いそのものなのです。パウロの言う「霊とたましいを切り分けること」は、旧約ですでに神は繰り返し何度も語っておられたということを、今回、確認したいと思います。

●かつてバビロンから帰還した民は、それぞれ自分たちが元いた町々に住み着きました(エズラ2:70)。しかし「第七の月が来たとき(近づくと)」、彼らは「一斉に」エルサレムに集まって来たのです。それは彼らがモーセの律法に定められている「仮庵の祭り」をするためでした。すでに彼らはバビロンにおいて、二・三世代かけてトーラー・ライフスタイルを築いていました。そうした彼らが主に奮い立たせられて帰還したわけですから、トーラーを中心とした生活をしようとするのは当然でした。まだエズラのような人物はエルサレムにはいませんでしたが、彼らは彼らなりに、自発的・主体的に神のトーラーに従って生きようとしていたことが分かります。上からの命令的勧告によるのでもなく、あるいは合議による決定でもなく、ただ「一斉に」(原文では「一人の人のように」「ケイーシュ・エハード」כְּאִישׁ אֶחָד)、「モーセの律法に書かれているとおりに」全焼のささげ物を献げるために、こぞって祭壇を築いたのでした。これは主の例祭の回復を意味するスタートでした。そのことがエズラ記3章に記されています。共通の情熱に動かされた者たちが「一人の人のように」一斉に集まって来たことがすごいことです。いわば「心を一つにして」集ったのです。これこそ神の民の力です。「心を合わせて」「心(と思い)を一つにして」というリアリティーは、ある種の「力」を秘めています。これこそが初代教会の力でした(使徒1:22/2:1, 46/4:24, 32/5:12参照)。

●バビロンから帰還した民が最初に行った主の祭りは「仮庵の祭り」です。これは後に捕囚からの帰還を記念する日ともなりました。この「仮庵の祭り」がなされる月は、やがてイスラエルの新年となります。これはメシアの到来と深い関係があります。キリストの初臨は12月のクリスマスの時期ではなく、今や「仮庵の祭り」の時期であったことが明らかにされています。また、キリストの再臨の時期もこの「仮庵の祭り」の頃と考えられています。主の例祭と神のご計画のマスタープランには密接な関係があるのです。置換神学の弊害によって、このことが長い間、教会で覆われていました。しかし教会がユダヤ的・ヘブル的ルーツに戻ることで、初めて神の本来のご計画(マスタープラン)が見えるようになって来ています。

●帰還した民が実際に神殿再建を始めたのはいつかといえば、彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いて二年目の第二の月でした(エズラ3:8)。おそらく、仮庵の祭りの半年以上後です。

2. 「この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる」という預言

●かつて神殿の礎が据えられた時、民はみな主を賛美して大声で喜び叫びました。しかしその一方で、彼らのうち最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、大声で泣いたとあります(エズラ3:12)。第一神殿の破壊は約50余年前だったので、老人たちはその神殿の礼拝の光景を覚えていたと考えられます。なぜ、彼らは泣いたのでしょうか。まだ神殿の礎が据えられただけですが、再建される神殿の規模はソロモンの時代の神殿と同規模(高さ60キュビト、幅60キュビト)です。ですから、老人たちの悲しみは神殿の規模ではなく、他の理由だったことがわかります。その理由は、賛美の貧弱さだったかもしれません。というのも、ダビデの規定によれば聖歌隊は4千人規模であり、しかも多くの楽器(フル・オーケストラ)によるものであったからです。しかしここでの賛美は、聖歌隊もなく、楽器も祭司たちが吹くラッパとシンバルだけでした。かつての壮大な賛美の姿はこのときはなかったのです。これが、老人たちが「大声をあげて泣いた」理由だと考えられます。空白の18年間も、そのことを神は覚えておられて語ったのが、以下のメッセージでした。

【新改訳2017】ハガイ書2章6~9節
6 まことに、万軍の【主】はこう言われる。『間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす
7 わたしはすべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす
──万軍の【主】は言われる──
8 銀はわたしのもの。金もわたしのもの。──万軍の【主】のことば──
9 この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。──万軍の【主】は言われる──
この場所にわたしは平和を与える。──万軍の【主】のことば。』」

●「間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす」と語るのは、「万軍の【主】」です。この名が最初に出てくるのは、Ⅰサムエル記1章3節です。サムエル記は、イスラエルの人々が「ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」と言って、イスラエルの王制が始まる書です。イスラエルは神がいるにもかかわらず、周囲の国々に脅威を感じていたのです。この神の名が呼ばれるようになったのは、周辺諸国との軋轢が生じるようになったからです。「万軍の【主】」(「アドナイ・ツェヴァーオート」יהוה צְבָאוֹת)という主の名前は旧約で多く使われています。イザヤ62回、エレミヤ77回、ハガイ14回、ゼカリヤ53回です。驚くべきことに、ゼカリヤ書全14章の中で53回という使用頻度は尋常ではありません。「異邦人の時(支配)」におけるユダヤ人、またエルサレムの状態はまことに小さく、貧弱なように見えたとしても、神の視点から見れば決してそうではないということを示しているのが、この「万軍の【主】」という神の名前なのです。

●ハガイ書に戻りましょう。万軍の【主】はこう言われる。「間もなく、もう一度・・を揺り動かす」とはどういう意味なのでしょうか。すでに、イェシュアの死と復活に際しても、地震が伴っています。しかしこれらの出来事は、やがて起こる「終わりの時」のデモンストレーションと考えることができます。その意味をより深く理解するみことばの伴侶が以下にあります。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙12章26~29節
26 あのとき(=シナイ山)は御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。
「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」
27 この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています
28 このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。
29 私たちの神は焼き尽くす火なのです。

●まず、神が語られる「間もなく」ということばを、人の感覚で受け止めないことです。神にとっては、「千年が一日」です。三日だと三千年です。ハガイが語った時からして、まだ三千年経ってはいません。しかし神の感覚では「間もなく」なのです。神の歴史は七日間(六千年+最後の千年間)程なのかもしれません。

●主は「すべての国々を揺り動かす」ことによって、「宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる」ようになると言っています。「先のものにまさる」の「先のもの」とは、ソロモンによる第一神殿のことです。それに勝る神殿が後の栄光として現れることを預言しています。具体的にはどういう神殿(宮)でしょうか。イェシュアの時代には第二神殿でした。当時のヘロデ王はその神殿を増築し、さらに派手にしました。しかしA.D.70年にローマによって崩壊しました。その時神は、天と地、海と陸を揺り動かされてはいません。「もう一度」が起こるのは、「終わりの時」です。天地が揺るがされる時は二段階あります。それは千年王国の前と後です。神のみわざの多くが二段階です。メシアの来臨―「初臨と再臨」、メシアの再臨―「空中と地上」、祝福の雨―「先の雨と後の雨」、神の統治―「メシア王国と新しいエルサレム」などもそうです。

(1) 「千年王国の前」

【新改訳2017】ヨハネの黙示録16章17~19節
17 第七の御使いが鉢の中身を空中に注いだ。すると大きな声が神殿の中から、御座から出て、「事は成就した」と言った。
18 そして稲妻がひらめき、雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。
19 あの大きな都は三つの部分に裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。神は大バビロンを忘れず、ご自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。

●「大バビロン」と記された、「獣」と呼ばれる反キリストによるこの世の組織(宗教・政治・経済)は、未曾有の地震で一瞬にして崩壊します。

【新改訳2017】マタイの福音書24章29~30節
29 そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます
30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、
人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。

(2) 「千年王国の後」

●「天地が揺るがされる時」はあと一つあります(黙示録20:11)。それは「滅びることのない国」(ダニエル7:14)であり、「いと高き方の聖徒たちが受け継ぐ国」(同、7:18)です。また「その御国は永遠の国」(同、7:27)とも言われます。これは千年王国を越えた永遠に続く御国です。それはキリストが王国を御父に渡される時です。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙 15章24節
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます


べアハリート

●「神の民と神殿」、この二つは神の歴史が動いていく重要な鍵です。この二つが麗しい形で一つになっていた時は、ダビデ・ソロモン時代です。この形が初めて崩壊したのがバビロン捕囚の出来事でした。神の民は捕囚の身となり、エルサレムの神殿は完全に破壊されました。しかし再び歴史は動きます。神の民がバビロンからエルサレムに帰還し、そこに第二神殿が再建された時です。しかしその時すでに、バビロンのネブカドネツァル王の時代から「異邦人の時」が始まっており、その支配のもとに神の民は置かれることになります。この第二神殿が再び破壊され、神の民も世界離散することになったのが、A.D.70年です。それから神の歴史の針は止まってしまっています。再び、エルサレムに神の民(ユダヤ人)と神殿が存在するのは第三神殿が建つときですが、その時は巧妙に獣と呼ばれる反キリストに騙されています。完全な形でこの二つがこの地上に存在するのは、キリストの地上再臨後の千年王国においてです。そこではイスラエルの全部族が集められ、エルサレムに第四神殿が建てられるのです。その神殿のことがエゼキエルによって預言されています(40章以降)。そして最終の「新しい天と新しい地」においては、神と子羊が神殿そのものとなり、あらゆる国の主に贖われた人々が神を礼拝するようになります。新しいエルサレムにおいて、形のない神殿と神の民が永遠に存在するのです。

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The 2nd Celebrate Sukkot 集会Ⅰ 2023.10.1(Su/夜)

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