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「メシアの初臨と再臨の預言」

「メシアの初臨と再臨の預言」(時間軸のない「預言の遠近法」)

【聖書箇所】ゼカリヤ書9章9~17節

ベレーシート

●ゼカリヤ書9章1~8節にはイスラエルを取り巻く町々に対して、神のさばきが語られています。9節以降は、全イスラエルの回復のためにメシアが到来することを預言している重要な箇所です。今回はこの部分に注目したいと思います。

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1. メシアの初臨

●9章9節と10節にはそれぞれメシアの初臨とメシアの再臨が、同時に預言されています。神の預言は常に神のマスタープランから語られています。神のご計画がどのように展開していくのか、どんな結末になるのか、そのシナリオはすでに存在しているのです。メシアの初臨も再臨もすでに神のマスタープランの中にあるとすれば、「もし、イェシュアが十字架にかかって死ななかったらどうなるのか」といった質問は成り立ちません。なぜなら、もしそうであるならば、イェシュアはメシアではなかったからです。メシアは初臨において、ご自分の民から拒絶され、殺されますが、やがて彼らを大患難の経験を通して悔い改めへと導き、再臨によって彼らのメシアとして統治することになるということが、すでに天において決まっているのです。

●イェシュアは地上の生涯において、自分がメシアであるとは一言も言いませんでした。むしろ、旧約で預言されているメシアの行動によって、自分がメシアであることを示そうとされました。9節の預言は、マタイの福音書21章1~11節に記されている「エルサレム入場」で成就しています。しかし当時のイェシュアの弟子たちは、このことが分かりませんでした。イェシュアが栄光を受けられた後に、はじめてこの出来事がメシア到来のしるしであったことを悟ったのです。

【新改訳2017】ゼカリヤ書 9章9節
娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。
見よ、あなたの王があなたのところに来る。
義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。
雌ろばの子である、ろばに乗って。

●ここに記されている預言通り、メシアはろばに乗って、それもまだだれも乗ったことのない「雌ろばの子である、ろば」に乗って、エルサレムに入場されたのです。当時は、高貴な者、身分の高い者、祭司たちもろばに乗っていました。民衆は、イェシュアがこれまで多くの奇蹟をもたらした存在として、「力あるメシア」として歓迎したのです。しかし預言によれば、彼は「柔和な者」だと記されています。「柔和な者」とはどんな者でしょうか。ヘブル語本文では「アーニー」(עָנִי)ということばを使っています。これは形容詞で、「貧しい、哀れな、悩み多い、へりくだった、柔和な」という意味です。そうした意味の象徴として、「ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って」と表現されているのです。「アーニー」なるメシア・イェシュアは、エルサレムにおいて、宗教指導者たちの拒絶に遭い、受難を受けることを預言しているのです。

●すでに聞かれた方もおられると思いますが、再度、お付き合いください。

【新改訳2017】マタイの福音書20章29~34節
29 さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。
30 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。
31 群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、
「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。
32 イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」
33 彼らは言った。「主よ、目を開けていただきたいのです。」
34 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

【新改訳2017】マタイの福音書21章1~17節
1 さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき、イエスはこう言って、
二人の弟子を遣わされた。
2 「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくで
しょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」
4 このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった
5 「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(ここでの「子ろば」は「アイル」(עַיִר)で男性名詞)
6 そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
7 ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。
8 すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。
9 群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」
10 こうしてイエスがエルサレムに入られると、中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。
11 群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。
12 それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」
14 また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
15 ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て
16 イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」
17 イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。

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●「ろば」、ないし「子ろば(男性名詞)」は「アイル」(עַיִר)です。ところが、この語彙の動詞「ウール」(עוּר)には「目覚める」という意味があり、もう一つの動詞「アーヴァル」(עָוַר)には反対の「盲目にする」という意味があります。ですから名詞の「イッヴェール」(עִוֵּר)には「盲人」「盲目」という意味があります。このように、「子ろば」は人を「盲目にし」、「目を覚まさせる」という両義的な意味があるのです。ゼカリヤ9章9節が引用されるマタイの福音書と、その並行記事のマルコの福音書には、イェシュアがエルサレムの町に入場する前に、盲人の目が開かれるという場面があります。と同時に、そこには霊的な盲人もいるのです。この現実を表すために「子ろば」が登場しているのです。そのことを、ヘブル語を見ると「なるほど」と理解できるのです。しかもエルサレムの「都」や「町」を表す語彙も「イール」(עִיר)です。これらは、すべてヘブル語のペアレント・ルーツ(親語根)、すなわち、ここではערが同じなのです。

●ちなみに、何に対して「盲目なのか」、あるいは「目が覚まされる」のかといえば、それはイェシュアが預言されていたメシアだということに対してです。マタイの福音書21章から、「子ろば(ちいろば)のように、イェシュアを背中にお乗せして、私も何か神のお手伝いをしたい」というメッセージは、残念ながら出てはきません。

2. メシアの再臨

【新改訳2017】ゼカリヤ書9章10節
わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。

●10節の「彼」は「王なるメシア」です。しかし、再臨のメシアが初臨のメシアと異なるところは、彼が王なるメシアとしてこの地上において戦いをやめさせ、平和を実現するところです。そして王なるメシアとして全地を支配されます。これは多くの預言者たちによって語り継がれてきた「ダビデ王国の再現」です。

●9節と10節の間にはすでに2500年以上の間隔が開いているにもかかわらず、隣り合わせに置かれていることが驚きです。このようなことが描かれている箇所は他にないでしょうか。

●実はあります。その箇所は創世記1章26節と27節です。

【新改訳2017】創世記1章26~27節
26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

●26節の「人」は「最初の人アダム」(第一の人)です。しかし、27節の「人」は「最後のアダム」(第二の人)です。預言的遠近法といえるかどうか、微妙ですが、それが隣に同時に並べられているのです。詳しくは、昨年の「セレブレイト・スッコート」をご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=Dzz_-OwoBok/https://www.youtube.com/watch?v=aRKzD3yelaA

3. 全イスラエルの回復の預言(11~17節)

●ゼカリヤ書9章で、もうひとつ目を引くのは、全イスラエルが長子としての権利を回復することです。

【新改訳2017】ゼカリヤ書9章12~13節
12 望みを持つ捕らわれ人よ、砦に帰れ。わたしは今日もまた告げ知らせる。二倍のものをあなたに返す、と。
13 わたしは、ユダをわたしの弓として引き絞り、これにエフライムをつがえたのだ。ヤワンよ、おまえの子らに向かって。シオンよ、わたしはあなたの子らを奮い立たせ、あなたを勇士の剣のようにする。

【新共同訳】ゼカリヤ書 9章13節
わたしが引き絞るのはユダ/エフライムもわたしは弓として張る。シオンよ、わたしはあなたの子らを奮い立たせ/あなたを勇士の剣のようにして/ヤワンよ、お前の子らに向かって攻めさせる。

●全イスラエルはここでは「望みを持つ捕らわれ人よ」と呼びかけられ、メシアが君臨される「砦に帰れ」と語られます。「砦」とは「エルサレム」のことです。そこで全イスラエルは神の長子としての権利を回復されます。そのことを、聖書は「二倍のものを返す」と表現しています。なぜなら、長子の権利は「二倍の祝福」だからです。全イスラエルが回復される時には、一人の王なるメシアを仰ぐことが告げられています(エゼキエル37:15~28)。

●13節にある「ヤワン」とは「ギリシア」を意味します。「ヤワンよ、おまえの子らに向かって」とあります。このヤワンの背景には、「アンティオコス4世・エピファネス」がいます。彼は強大な軍隊によってユダヤを侵略し、ユダヤの宗教と文化を破壊し、ギリシア化しようとした人物です。この人物は終わりの時に登場する「獣」と呼ばれる反キリストの「型」です。しかし「わたしは、ユダをわたしの弓として引き絞り、これにエフライムをつがえた」ことで、ユダとエフライムが一つにつながることが預言されているのです。

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The 2nd Celebrate Sukkot 集会Ⅸ 2023.10.6 (Fri/夜)
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