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「その日に」

「その日に」(「バヨーム・ハフー」בַּיוֹם הַהוּא)

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【聖書箇所】ゼカリヤ書12章1節~14章21節

ベレーシート

●ゼカリヤ書において、「その日に」(「バヨーム・ハフー」בַּיוֹם הַהוּא)という語彙は26回登場します。その中で12~14章には17回あります(12章に6回、13章に3回、14章に8回)。「その日」とは「主の回復の日」の意味であり、取り去られ、散らされたものが、エルサルムに取り返される時なのです。ギリシア語の「カイロス」(καιρός)のように、終わりの日に起こる定められた時を意味しています。

●ゼカリヤは、捕囚から帰還したユダの人々に神殿再建の希望を与え、力づけるために起こされた預言者です。しかし彼が与えられた主のメッセージは単なる神殿再建にとどまらず、「終わりの日」のことが重ねられていたのです。特にゼカリヤ書12~14章は、エルサレムを中心になされる神の祝福の顕現が預言されています。特に注目すべきは、12章の「恵みと嘆願の霊が注がれること」、13章の「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれること」、そして最後の14章に至っては「主の足がオリーブ山の上に立つこと」です。その一つ一つを、The 2nd Celebrate Sukkotの最終日の集会で味わいたいと思います。

1. 民族的回心をもたらす「恵みと嘆願の霊」(12章)

●「その日」(原文は「その日に」)が12章には6回(3, 4, 6, 8, 9, 11節)あります。宣告しておられる方は、「天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方」である【】です。「エルサレムを、その周りのあらゆる民をよろめかせる杯とする。エルサレムが包囲されるとき、ユダについてもそうなる。」との宣告です。そして、「その日に」起こることを列記してみると以下のようになります。

(1) 3節の「その日」

わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。
すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける。
地のすべての国々は、それに向かって集まって来る。

●「エルサレム」、また「ユダ」は反イスラエルの諸国に対して「よろめかせる杯」となり、また「重い石」となることが語られています。「よろめかせる杯」とは諸国がぶどう酒に酔ったように役立たずの国となることを意味し、「重い石」とは、それを持ち上げようとして、逆にその石によって大傷を負ってしまうことを意味します。過去の歴史においても、諸国は神の民イスラエル、あるいはエルサレムに対して取った態度によって神のさばきを受けて来ました。エジプトのパロ、バビロンのネブカドネツァル、ペルシアのハマン、ギリシア(シリア)のアンティオコス・エピファネス4世、ナチスのヒットラーなどです。そして終わりの時には、サタンの子である「獣」と呼ばれる反キリストもさばかれます。神はご自身の民を選民としての使命に目覚めさせるために、主権をもってこうした敵を用いられます。そしてそれらの敵をことごとく滅ぼされるのです。まさに、「飛んで火に入る夏の虫」です。

(2) 4節の「その日」

──【主】のことば──わたしはすべての馬を打って驚かし、その乗り手を狂わせる。しかし、わたしはユダの家の上に目を見開き、もろもろの民のすべての馬を打ってその目を見えなくする。

●主はユダの家の上に目を見開きますが、エルサレムを包囲する諸国のすべての馬の目を見えなくします。つまり、諸国は戦いにならない状況に陥ります。

(3) 6節の「その日」

わたしはユダの首長たちを、薪の中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えるたいまつのようにする。彼らは右も左も、周りにいるどの民も焼き尽くす。しかしエルサレムはなお、元の場所エルサレムに残る。

●敵は破壊されますが、エルサレムは安泰です。

(4) 8節の「その日」

【主】はエルサレムの住民をかくまう。その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ【主】の使いのようになる。

●エルサレムの住民は主によって守られるだけでなく、神(主の使い)のようになって立ち上がる者が起こります。

(5) 9節の「その日」

わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。

●エルサレムに攻めて来るすべての国々は敗北します。

(6) 11節の「その日」

エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダド・リンモンのための嘆きのように大きくなる。

●10節からつながります。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」とあるように、エルサレムに攻めて来るすべての国々が敗北した後に、エルサレムでは、一人一人が悔い改め、民族的な悔い改めが起こります。恵みと嘆願の霊を注がれ、その結果、彼らは、「自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、激しく泣く」のです。この「激しく泣く」は「マーラル」(מָרַר)で、ペテロがイェシュアを三度裏切った後に、主のことばを思い出して、激しく泣いたこととつながります(マタイ26:75)。それは、終わりの日の「イスラエルの残りの者」の悔い改めを映し出している預言的な行為と言えます。

●民族的な悔い改めが起こるために、神の「恵みと嘆願の霊」が民の上に注がれます。「恵みと嘆願の霊」・「ルーアッハ・ヘーン・ヴェタハヌーニーム」(וְתַחֲנוּנִים רוּחַ חֵן) です。「恵み」は「ヘーン」(חֵן)で神の好意を意味し、その語源は「ハーナン」(חָנַן)。「嘆願」は「タハヌーン」(תַּחֲנוּן)」(=原文は「数々の嘆願」)で、その語源も同じく「ハーナン」(חָנַן)です。これは神のあわれみの溢れを表す表現です。この霊が注がれた者たちこそ「イスラエルの残りの者」なのです。

●すでにイェシュア・メシアが復活して昇天された後に、聖霊が注がれています。それによってメシアニック・ジューと異邦人とからなる「エックレーシア」が誕生しましたが、終わりの日に聖霊が注がれるその目的は、神の民である「イスラエルの残りの者」が、いわば民族的に(=全イスラエルとして)回心するためなのです。

●獣と呼ばれる反キリストによる未曾有の大患難をくぐり抜けた「イスラエルの残りの者」は、キリストの再臨の前に聖霊の傾注によって、「自分たちが突き刺した者(イェシュア)」と「主」とを仰ぎ見て、それが一体であったことに霊の目が開かれるのです。そしてメシアを拒絶したことがどんなに大きな罪であったかを示されて、「激しく泣く」のです。それは、尋常ではない「苦しみを伴ったひどい悲しみ」です。こうした民族的回心こそ、エゼキエル37章にある「枯れた骨」が生き返るヴィジョンです。

2. 罪と汚れをきよめる「一つの泉」(13章)

●ゼカリヤ書13章において、「その日」に起こる出来事に目を留めたいと思います。ゼカリヤ書9章にメシアの初臨と再臨に起こることが隣り合わせにして語られていたように、13章にもそれが見られます。7節が初臨で、8~9節が再臨のことです。下の図がそうです。

画像の説明

【新改訳2017】ゼカリヤ書13章7節
剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の【主】のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。

●「剣」とは、神の民を正しく指導しない指導者たちの象徴です。「わたしの羊飼いに向かい(攻め)、わたしの仲間に向かえ(攻めよ)」の「わたしの羊飼い」とはメシアのことで、「わたしの仲間」も同義です。「わたしの仲間」と訳された原文は「ゲヴェル(גֶּבֶר)・アミーティ(עֲמִיתִי)」で、「同僚、隣人」を意味します。口語訳は「わたしの次に立つ人」、新共同訳は「わたしの同僚であった男」と訳しています。主の最も身近な人、主と一体となっている人、主の分身とも言える存在といえば、それはイェシュア・メシアしかいません。イェシュアは「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と宣言されました。

●驚くべきことに、主がユダヤの指導者たちである「剣」に対して、その彼を打ち殺すように命じているのです。これはやがてメシアが十字架の死によって死ぬことを預言したものです。もし、父から遣わされた御子イェシュアが死ぬことがなかったとしたら、彼はメシアではなかったことになります。神には、御子イェシュアがユダヤ人の指導者たちによって十字架で死ぬことによって、人類の贖いのわざを成し遂げるというご計画があったからです。預言どおりユダヤ人の指導者たちとその民がメシアを拒絶し殺すことで、彼らは世界離散する結果になることが語られています。「わたしは、この手を小さい者たちに向ける」(新共同訳では「小さいものを撃つ」)とは、そのことを意味しています。

●8~9節はキリストの再臨を預言しています。

【新改訳2017】 ゼカリヤ13章8~9節
8 全地はこうなる(ここ1回のみ)──【主】のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る
9 わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『【主】は私の神』と言う。」

●長い間、世界離散していた神の民を神は集められますが、彼らにイェシュアをメシアとして受け入れさせるために、神は反キリストを用いて大患難の試練を与え、そのことを通してイスラエルの民に主の御名を呼び求めさせる、というのがここでの預言です。反キリストによる迫害、自然界における様々な異変による災害、そして最後のハルマゲドンの戦いを通して、ユダヤ人の三分の二は死にます。しかし残りの三分の一は火の中で製錬される銀のように練られ、その中で彼らは真の神の民(イスラエルの残りの者)として純化されるのです。それは、ダニエル書12章1節後半に記されている者たちかもしれません。

【新改訳2017】ダニエル書12章1節
その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。
(※「あの書」とは、天にあるいのちの書、神のシナリオ)

(1) 罪と汚れをきよめる「一つの泉が開かれる」(1節)

【新改訳2017】ゼカリヤ書13章1節
その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

●ここでの「泉」は「マーコール」(מָקוֹר)で、神ご自身の象徴です。「水の源」「いのちの泉」として表現されています。語源の「クール」(קוּר)は「井戸を掘る」です。エレミヤ書2章13節では、「いのちの水の泉であるわたしを捨て」とあります。同、17章13節では「いのちの水の泉である主を」とあります。後にイェシュアが仮庵の祭りの大いなる日(終わりの日)に、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」と語られました。この「生ける水の川」とは御霊のことです。この御霊はイェシュアの復活の日の夕べに、イェシュアが弟子たちに「息を吹きかける」ことで実現します。しかしゼカリヤ書13章1節に預言されている「一つの泉」が開かれるのは、大患難の終わり頃、メシア再臨の直前に開かれる聖霊の泉です。「イスラエルの残りの者」は、この泉の水を飲むことによって自分たちの罪を悔い改め、民族的な回心へと導かれるのです。ちなみに、そのメシアの再臨の時期は、主の例祭が啓示しているように仮庵祭の時期であり、仮庵祭は「水の祭り」でもあるのです。

(2) 偶像礼拝からのきよめ、および偽預言者たちの除去(2節)

【新改訳2017】ゼカリヤ書13章2節
その日──万軍の【主】のことば──わたしはもろもろの偶像の名を、この地から絶ち滅ぼす。それらの名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。

●「その日」には、ユダの地から偶像礼拝が完全に断ち滅ぼされ、偽預言者たちも真のメシアの到来によって恥を受けます。彼らが再び立つことは許されません。イスラエルの長い歴史の中で、偶像礼拝と偽預言者は神の民を神から引き離してきた最大の要因です。それゆえ、「その日」には「偶像の名」は一掃され、偽預言者たちとその「汚れの霊」(ストイケイア)は、すべて一掃されるのです。

3. その日、主の足はオリーブ山の上に立つ(14章)

●ゼカリヤ書14章は最も心躍らされるエキサイティングな箇所です。

【新改訳2017】ゼカリヤ書14章1~4節
1 見よ、【主】の日が来る。あなたから奪われた戦利品が、あなたのただ中で分配される。
2 「わたしはすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。都は取られ、家々は略奪され、女たちは犯される。都の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は都から絶ち滅ぼされない。」
3 【主】が出て行かれる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
4 その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。

●「わたしはすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる」とあるように、神は、反キリストが招集した諸国の軍勢を用いて、エルサレムを攻めさせます。エルサレムは包囲されて、家々が略奪され、完全に逃げ場を失い、捕らえられます。エルサレムが大混乱のどん底に陥れられたとき、その状態から脱出する手段が絶たれたときに、【主】が出て来られるのです。「イスラエルの残りの者」を絶ち滅ぼさず、試練の火の中を通させることで彼らの霊の目を開かせるためです。それからの出来事を時系列に順序よく組み立てるのは容易ではありません。

(1) その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ

●「その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ」とあります。すでに、主はボツラに帰って来ておられます。「ボツラ」は「イスラエルの残りの者」が獣と呼ばれる反キリストの支配から逃れている場所です。そこから、「イスラエルの残りの者」はイェシュアを王として付き従い、「一つの群れ」となるのです。そのときのことをイザヤ書63章1節は以下のように預言しています。

【新改訳2017】イザヤ書63章1節
「エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来る方は。その装いには威光があり、大いなる力をもって進んで来る。」・・・・

(2) オリーブ山が二つに裂ける大地震

●ボツラから来て主の足がエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つそのとき、エルサレムを中心に地震が起こるとされています。現在のオリーブ山は、エルサレムの「神殿の丘」と呼ばれる「モリヤの山」より95メートルほど高いようです。しかしメシア再臨時に、かつてない大地震が起こり、オリーブ山は南北に二分され、東の死海から西の地中海へと大きな谷ができます。この地殻変動によって、エルサレムに包囲されていたイスラエルの民に脱出の道を開くことになります。イスラエルの民はそこを通って逃げることができるのです。そのようにして、14章2節の「しかし、残りの民は都から絶ち滅ぼされない」ということが実現します。

(3) 主はすべての聖徒たちとともに来る(5節後半)

●エルサレムに包囲された民が助け出された後に、主は、すべての聖徒たちとともにオリーブ山に立たれるのです。その箇所を原文で見ると以下のようになっています。

画像の説明 

●「すべての聖徒たち」(【新改訳2017】「すべての聖なる者たち」)と訳された部分を、口語訳は「もろもろの聖者」と訳し、新共同訳は「聖なる御使いたち」と訳しています。私見としては、おそらくこの両方が含まれていると考えられます。というのは、新約では「私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるとき」(Ⅰテサロニケ3:13)とも、「見よ、主は何万もの聖徒を引き連れて来られる」(ユダ14)ともあり、そしてまた「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき」(マタイ25:31)という表現もあるからです。

(1) 天に携挙されたエックレーシア
(2) イスラエルの残りの者によって救われる異邦人
(3) 旧約の聖徒たち
(4) すべての御使いたち


4. メシア王国(千年王国)は人間の想像を超えた世界(7~9節)

【新改訳2017】ゼカリヤ書14章7~9節
7 これはただ一つの日であり、その日は【主】に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。
8 その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。
9 【主】は地のすべてを治める王となられる。その日には、【主】は唯一となられ、御名も唯一となる。

(1) 昼も夜もない「ただ一つの日」

●メシアの地上再臨によってもたらされる新しい世界(千年王国)の中心地となるエルサレムは、人が想像し得ないような世界です。「夕暮れ時に光がある」(7節)とあるように、エルサレムだけは常に光が照らされており、夜がありません。

(2) 神殿から流れ出るいのちの水はすべてのものを生かす

●8節の預言も想像を超えた世界です。エルサレムはこの時代には、地震による地殻変動によって最も高い山となります。そのエルサレムの神殿(第四神殿)の敷居から流れ出るいのちの水については、エゼキエルも47章で預言しています。この水は、生ける水の源である神ご自身から湧き出る「いのちの水」、「マイム・ハッイーム」(מַיִם חָיִּים)です。この水が流れ行くところでは、すべてのものが生かされるのです。

●エゼキエル書47章によれば、このいのちの水は東に向かって流れて死海に入り、多くの種類の魚が住むようになると預言しています。ゼカリヤ書ではこの水は西の地中海にも注がれることが示されています(14:8)。いのちの水がエルサレムの神殿から流れ出るだけでなく、同時に、イザヤによれば、「そこにすべての国々が流れて来る」ことが預言されています。それは、「シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るから」です(イザヤ2:2~3)。ヤコブの家も、そして異邦人の主にある者たちも「主の光のうちを歩む」ようになるのです(同、5節)。そのような世界が来ることへの期待をますます新たにしたいものです。

The 2nd Celebrate Sukkot 集会Ⅻ 2023.10.8(Sun/夜)


2023.12.12
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