主に対する誓願についての規定
民数記の目次
25. 主に対する誓願についての規定
【聖書箇所】 30章1~16節
はじめに
- この章の主題は「誓願」(誓うこと)についてです。誓うことについての主の命令は、2節にあるように
ということです。ここには誓うことの厳粛さが語られています。
「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」
- 誓願はあくまでも神に対する自発的な意志に基づくものでなければなりません。決して強制されるものではありません。しかしひとたび誓願をするならば、それに自らが縛られてしまっても良いとするほどに、自発性の強いものでなければならないのです。
1. 神の誓い
- 聖書には多くの誓願を見ることができますが、まず重要なことは「神の誓い」です。聖書の中には神が自ら立てた誓いを繰り返し繰り返し記していますが、とりわけ、神がアブラハムに対して誓われた誓いは決して忘れることはありません。
- バプテマスのヨハネの父であり祭司でもあったザカリヤは、聖霊に満たされて語った中に「救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」とあります。その理由として「われらの父アブラハムに誓われた誓を覚えて」いてくださったことをあげています。神はご自身の誓いを決して忘れることなく、それを果たされる方です。神の口から出た誓い(約束)は、決して変更されることなく、必ず果たされます。
2. 神に対する誓いについて
- その神に対してなされる誓いも同様に、果たされることが求められます。申命記23:22には次のように記されています。
「あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく(怠ることなく)、それを果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、(果たされなければ)、それはあなたの罪となるからである。」
- つまり、誓願は果たされるべきことであり、決して軽はずみな誓いをしないようにとの戒めでもあります。
3. ひとつの例(ハンナの誓願)
- 預言者サムエルを産んだ母ハンナの誓願があります。彼女は夫エルカナに愛されながらも、胎は閉じられていて、子どもがありませんでした。しかし第二夫人であるペニンナには多くの息子と娘たちがいました。夫に愛されているハンナを憎むペニンナは彼女をいらだたせるようなことをしていたのです。ハンナの心は痛み、主の宮で主に祈って激しく泣きました。そのとき、彼女は主に誓願を立てました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私に心を留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりをあてません。」(1サムエル1:11)
- このハンナの祈りは聞かれました。そして生まれた男の子の名前をサムエルと名づけました。第一子は母親にとって最も大切な存在です。その子が乳離れした頃、彼女は主に誓ったとおりに主にささげたのです。具体的には、祭司エリのもとに預けたのです(神のもとに預けたちと言う方が真実かもしれません)。このようにして、誓願を立てて与えられたサムエルは、やがてイスラエルの歴史の舵取りをしていく者となったのです。
- 彼女の誓願がそのまま果たされた背景には、夫のエルカナがハンナの誓願に対して反対する事なく黙って認めたからです。もしこのとき、夫のエルカナが反対した場合はどうなるのでしょうか。このような問題を想定して、民数記の30章が記されています。夫と妻、父と娘のかかわりにおいて、もし妻や娘が主に対して誓願を立てた場合、誓願を立てた以上はそれを果たさなければなりません。しかし父や夫が反対した場合にはその誓いは解かれます。そして赦されます。しかし、夫や父が黙っていた場合には妻や娘の誓願は果たさなければならないということです。誓願の重さを確認しながらも、家庭における神が与えた権威という秩序に逆らってまで、立てた誓いを果たそうとすることを禁じたのがこの民数記30章です。
- この視点に立つならば、ハンナが男の子(サムエル)を主にささげるという誓いについては、夫のエルカナも反対をしなかったということになります。一つの家庭の中に起った日常茶飯事的な悲しみの出来事の中に神の計画があったと言えます。そしてそこにはハンナの誓願と夫の承認も与(くみ)されていたということです。つまり、ある人の一つの誓願という行為の中に、神の不思議な奇しい神の計画が隠されていたということです。
2012.2.28
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