神へのささげものの規定
民数記の目次
24. 神へのささげものの規定
【聖書箇所】 28章1節~29章40節
はじめに
- 民数記28章と29章は「神へのささげもの規定」が記されています。28章2節に「イスラエル人に命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしへのなだめのかおりの火によるささげ物として、わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない。」とあるように、「命じる」というヘブル語の「ツァーヴァー」צָוָהの強意形のピエル態によって語られる内容が29章39節までカギ括弧で枠付けられています。
- 特に、28章2節の「あなたがたは、わたしへのなだめのかおりの火によるささげ物として、わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない。」という部分は、29章39節までの内容の概観を示しています。
(1) だれが(Who) 「あなたがた」(イスラエルの民) (2) 何を(What) 「わたしへのなだめのかおりの火によるささげ物」、すなわち「わたしへの食物のささげ物」 (3) いつ(When) 「定められた時に」(常供、安息日、過越の祭り、収穫の日、等) (4) どのように(How) 「気をつけて」、「怠らず」(口語訳)、「忠実に」(新共同訳) (5) だれに(Whom) 「わたしに」(主) (6) なにをする(Doing) 「ささげなければならない」
- 以上の項目による具体的な内容(規定)が28章、29章の内容です。
1. 火によるささげ物
- まず、「火によるささげ物」とはなにかということです。これは「祭壇」にささげられるもの、すなわち祭壇にささげられる物はすべて火によるささげ物ということになります。神にささげられる物はすべて祭壇を通っていくので、すべてのささげ物は「火によるささげ物」ということになります。
- ⇒「レビ記のささげ物の規定について」をクリック
2. 主へのなだめのささげ物
- しかし、「わたしへのなだめのかおり」という表現は、主が喜ばれるさざげ物を意味します。ささげ物の中で神が喜ばれるのは「全焼のいけにえ」、「穀物のささげ物」(油を混ぜた小麦粉)、そして「和解のささげ物」です。ただし、民数記では「和解のささげ物」という表現はありません。逆にレビ記には出てこない「注ぎのささげ物」というのが民数記には多く登場します。それは28:7に「強い酒を聖所で注ぐ」という表現がありますので「強い酒やぶどう酒」のことを意味しているかもしれません。祭司たちは「ぶどう酒や強い酒を飲んではならない」という規定がありますので(レビ10:9)、民数記の「強い酒やぶどう酒」は主へのささげ物としてささげられたことになります。この「注ぎのささげ物」は、「全焼のいけにえ」や「穀物のささげ物」と共にささげられたわけですから、主に喜ばれるささげものであったわけです。
- 神が喜ばれるささげ物は自発的なささげ物です。贖いのための「罪のいけにえ」は、主への火によるささげ物ですが、主へのなだめのかおりのささげ物とは言われていません。「罪のいけにえ」は神に近づくための必然的なものであり、決して任意の自発的なものでありません。
- 「神へのささげ物」、および「神へのいけにえ」の規定は、やがて神から遣わされる御子イエスにおいてすべて満たされることになります。つまりイエス・キリストの人格とその生涯において、旧約のすべてのさざげものといけにえが集約しているのです。私たちが旧約のささげ物の規定といけにえの規定の詳細を知るならば、イエス・キリストの卓越性はより鮮やかになります。それだけでなく、使徒パウロやヘブル人への手紙が語っていることがより理解できる者となるのです。キリストの栄光の富の豊かさに目からウロコを経験する者となるのです。
3. 定められた時に
- 28章、29章には「定められた時」にささげる物といけにえについて記されています。「定められた時」とは以下のあげる「時」です。
(1) 毎日
(2) 安息日(七日目)
(3) 過越の祭り(第一の月の14日目)
(4) 過越の後に続く七日間の聖会(種を入れないパンの祭)
(5) 収穫の日(過越から50日目、七週の祭)
(6) 第七の月の1日(新月祭)の「聖なる会合」
(7) 第七の月の15日から8日間にわたる「聖なる会合」(後の「仮庵の祭り」)
4. 「ささげる」という動詞の「カーラヴ」קָרַב
- 旧約で使われている「礼拝用語」の「ささげる」という動詞は「カーラヴ」קָרַבです。この動詞は「ささげる(95回)、近づく(58回)、持ってくる、携える、連れて来る(行く)」という意味を持っています。名詞の「ささげもの」は「コルバーン」קָרְבָּןで、訳語も「コルバン」(新約)と表記されています。
- 新約における「ささげる」という動詞は、「パリステーミ」παριστημιです。ローマ人への手紙12章1節に出て来きます。
新改訳改訂第3版
12:1
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
- 「ささげなさい」という動詞は、「そばに」という意味の前置詞「パラ」παραと「立つ」を意味する「ヒステーミ」ίστημιの合成語で、不定詞アオリストです。「ささげること」は霊的な礼拝だという意味です。
- しかも、「あなたがたのかたらだを、聖い、生きた供え物として」とは、神に喜ばれるなだめの供え物、すなわち自発的な備え物として自らをして神の前に立たせるということになります。これこそが、まことの献身であり、霊的な礼拝なのだと使徒パウロは私たちに語っています。
- 「ささげる」ことについて挙げておきたい箇所はパロウが愛弟子テモテに宛てた手紙で次のように語っているところです。
【新改訳改訂第3版】
Ⅱテモテ 2:15
あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。
- ここにもローマ12章1節と同様に「パリステーミ」という動詞が使われています。文法的には不定詞アオリストですので、はっきりと自らの意志によって決意するようにという含みがあります。
2012.2.25
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