Ps62の「かかわりの構造」
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- 詩篇62篇のかかわりの構造の特徴は、「私」という存在が、「神(主)」に対する信頼と確信を述べ(1, 2, 5, 6, 12節)、「おまえたち(敵)」に対してはその企みを見抜いていることを述べ(3節)、同胞(信)の「民」に対しては「神」を信頼するように呼びかけているということです(8節)。
- また、「私」と「民」に寄り添うように「人称なき存在」が、「敵」の実体とその彼らのむなしさを告げていることです。新改訳で「まことに」ということばで始まっていることば(4節と9節にあることば)がそうです。「私」という存在が敵に対して語るときには、「おまえたち」と二人称で呼びかけているのに対して、「人称なき存在」が敵に対して語るときには、「彼ら」と三人称が使われています。
- 4節「まことに、彼らは彼(3節の「ひとりの人」のことを指す)を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福と、心の中かーではのろう。
- 9節「まことに、身分の低い人々は、むなく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。」
- 10節も「人称なき存在」が「私」と「民」に語っていると取るのが自然です。そのようにして、「私」が語る信仰の告白(1,2, 5,6節)が強固にされるように諭し、導いています。
- また、「私」という存在は、「力は神のものである」という神の声を一度ならず、二度も聞いたことが11節に記しています。
- 以上のようなかかわりを三位一体的視点から見るならば、以下のようになります。
- 私たちは目に見えるさまざまな現実に反応しやすいものです。しかし詩篇62篇の作者が「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救い(望み)は神から来る」という姿勢を崩していません。こうした在り方を完全に生きられたのは御子です。「沈黙」は決して消極的なことではなく、神を信頼する者だけに与えられた積極的で強固な姿勢です。なぜなら、すべての「力」(信頼する力、みこころを行なう力、愛する力、ものごとの背後にある事実を見抜く力など、そうしたすべての力)が、神から来ると堅く信じているからです。沈黙と信頼が密接に結びつける聖霊の助けも見逃すことができません。御子はあらゆる力が神から来ると信じて完全に貧しくなられました。
- 御父が語られた「力は神のものである」という真理。御霊がそれを取りついで語ったとも言えますが、この真理を受け止めて(信頼して)生きられた御子が、私たちに対しても、同じように生きるように呼びかけている詩篇だと理解したいと思います。