****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

05.「ヨハネの福音書3章の『しるし』」(2)


05.「ヨハネの福音書3章の『しるし』」(2)

ベレーシート

●ヨハネの福音書を学んでいますが、その中心テーマは「いのち」と「建て上げ」です。「エデンの園」から「メシア王国」に至るまで、神のご計画は一貫しています。それは「神の住まいを建て上げる」ことです。

(1)「エデンの園」・・最初の人がエデンの園に置かれたのは「耕し、守るため」でした。「耕す」とは「祭司としての務めをする」ことであり、「守る」とは「祭司の務めをするための神からの権威を行使する王なる務め」のことです。 エデンの園は「神と人が住むための贅沢な場」でした。
(2)「幕屋」・・幕屋の建造目的は「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」(出25:8)とあるように、エジプトから救い出されたイスラエルの民の中に神が住まわれるためのものです。「ただ中に」というのは「ど真ん中に」という意味で、それは後に「人の霊の中に」神が住まわれることを預言的する啓示でした。「幕屋」から「神殿」へと姿を変えますが、その目的は変わりません。
(3)「教会」・・「エックレーシア」になると、神と人との関係がさまざまなたとえで表されるようになります。
① キリストをかしら(頭)とし、教会はそのからだ(肢体)とするイメージ。
② キリストを要石とし、教会はその土台の上に建てられる建物のイメージ。
③ 御父を持ち、御子を長兄とする兄弟姉妹としての家族のイメージ。
④ キリストを花婿とし、教会はその花嫁のイメージ。
⑤ キリストを羊飼いとし、教会は羊の群れのイメージ。 
⑥ キリストをぶどうの木とし、教会はその枝のイメージ。
※これらのたとえはすべて、「霊の中の事柄」です。
(4)「メシア王国」・・「キリストを王とし、教会とイスラエルの残りの者を民とする王国」
(5) 神と人とが永遠に共に住む最終的な聖なる都 「新しいエルサレム

●特に、ヨハネは「神と人がともに住む」ための「神殿・教会・花嫁・羊の群れ・メシア王国」が「いのちをもって建て上げられること」を取り上げています。ヨハネの福音書にある「永遠のいのち」という語彙がそのことを物語っています。「永遠のいのち」は共観福音書が合わせて8回であるのに対して、ヨハネの福音書では18回、ヨハネの手紙(第一)では6回、つまりヨハネ文書では合わせると24回も使われています。この「いのち」は「ゾーエー」(ζωή)と言われるもので、たましいの「いのち」(「プシュケー」ψυχή)とは異なるものです。神の家や花嫁の「建て上げ」のために、優先すべきは「いのち」(ζωή)の事柄なのです。

1.「御子を信じる」というしるし

●「永遠のいのち」という語彙が、ヨハネの福音書3章には三箇所あります。

①【新改訳2017】15節
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
②【新改訳2017】16節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
③【新改訳2017】36節
御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

●①②③をまとめるなら、「御子を信じる者こそが、永遠のいのちを持つ」という定式が成り立ちます。ところで、御子の何を信じることで、永遠のいのちを持つことができるのでしょうか。これを知るための手がかりが、14節の「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」という事実を信じることです。

【新改訳2017】民数記21章4~9節
4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、
5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」

●民数記21章は荒野の放浪の全期間がまとめられている章です。イスラエルの民が「ホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり」とあります。迂回するための総距離はかなりのものであったようです。民は「途中で我慢ができなくなった(=耐え切れなくなった)」のです。「耐え切れなくなった」とき、これまでの思いが一挙に噴き出してしまうことは人間の常です。イスラエルの民はこのとき「パンもなく、水もない。われわれ(原文=私たちのたましい/נֶפֶשׁ)はこのみじめな食べ物に飽き飽きしている」と言ったのです。「みじめな食べ物」とは、神が荒野でご自分の民に与えた恵みの食べ物「マナ」です。「その味は蜜を入れた薄焼きパンのよう」(出16:31)とも、「油で揚げた菓子のような味」(民11:8)」とも記されているものですが、それを「みじめな食べ物」(口語訳「粗悪な食べ物」)と言い、それに「飽き飽きしている」と言ったのです。「飽き飽きしている」と訳されたヘブル語「クーツ」(קוּץ)は、「生きているのが嫌になる」という意味です(初出:創27:46)。これは神に対する最高度の侮辱的なことばです。この侮辱は、たましいに足場を築いているサタンによってもたらされたものです。パウロが「肉の思いは神に敵対する」と言っているように、これに対する神の反応はまことに厳しいものでした。

6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。

●「燃える蛇」の「燃える」は「焼く」を意味する「サーラーフ」(שָׂרָף)で、噛まれると火のような痛みをもたらします。多くの者が蛇にかまれ、その毒で死にました。これがイスラエルのつぶやきに対する神の刑罰でした。

●食べ物に対するイスラエルの民のつぶやきに対して、神がそれほどに怒られたのには理由があります。「マナ」はやがて神から与えられる「天からのマナ」の型です。「天からのマナ」は神の口から出るすべてのことばとも言えますし、またそのことばを語るために来られた御子ご自身とも言えます。もし私たちが神の語られることばをみじめな食べ物として飽き飽きしているとつぶやくなら、さばきは免れません。尽きることのない霊的な源として、私たちのたましいを満ち足らせる良いものとして、感謝して受け取り、その豊かな味わいを味わうことがなければ、霊的飢饉を自ら招き、痛みを伴う死がもたらされるということを警告しています。

7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。

●神のさばきによる痛みを経験した者たちは、自らの罪を認め、神とモーセに救いを求めました。罪による痛みの経験は再び神に近づくことのできるしるしでもあります。痛みを伴わない救いは、真の救いとはならないからです。だれでも罪を犯し、失敗をしますが、自分の罪を認めることは痛みを伴います。それが神に立ち返る機会となるのです。イスラエルの民がこのとき経験した痛みは相当なものでした。それは彼らが同じ罪を犯すことのないための神の恵みと言えます。モーセが彼らのために祈ると、主は救済の手段をモーセに教えました。

8 すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

●これが神の救済方法なのです。旗ざおの上に付けられた「青銅の蛇」こそ、神が示した唯一の救いの手段でした。そしてこれがイェシュアの十字架の死による救いの型であるのです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書3章14~16節
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

●モーセが人々の救いのために青銅で燃える蛇を作ってそれを旗ざおの上に付けたように、人の子もまた上げられなければなりません。その理由は、「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」と語っています。御子イェシュアを「仰ぎ見る」(「ラーアー」רָאָה)ことで、私たちは救われるのです。「青銅の蛇を仰ぎ見る」という救済は預言的、奥義的です。イェシュアが十字架にかけられるという事実が起こらなければ、理解できないことだからです。「主を仰ぎ見る」ことが「主を信じる」ことであり、「主を信じる」ことが「主の中に生きる」ことであり、「主の中に生きる」ことが「永遠のいのちを持つ」ことです。この「永遠のいのちによって神と人が建て上げられていく」のです。

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●ところで、どうして「イェシュア」が「蛇」に置き換わるのでしょうか。「青銅の蛇」は「ネハシュ・ネホーシェット(נְחַשׁ נְחֹשֶׁת)です。「蛇」も「青銅」も語源が同じです。蛇を意味する「ナーハーシュ」(נָחָשׁ)のゲマトリアは、50+8+300=358。「キリスト」を意味する「マーシーアッハ」(מָשִׁיחַ)のゲマトリアも、40+300+10+8=358。したがって、置き換えが可能なのです。

●民数記21章10節以降には、青銅の蛇を仰ぎ見て、生きた者たちが北へと進軍していく輝かしい記録が記されています。彼らは川のほとりに宿営し、また井戸のあるところを進みました(16節)。そしてイスラエルの民は「井戸よ、湧きいでよ」と歌いました。「井戸」は「尽きることのない源泉」である「聖霊」の象徴です。「いのち」は「霊」によってもたらされます。イスラエルの民はアモリ人の王シホンとバシャンの王オグとの戦いに勝利し、その地を占領します。約束の地に向かって新しい世代が少しずつ整えられていくのを見ることができます。これは、彼らが旗ざおに上げられた青銅の蛇を仰ぎ見る経験を通して生きたことの証しと言えます。

2. 旧約時代の神の霊と新約時代の神の霊

●旧約時代では神の霊は人の上に外側から臨みます。これは神の霊がある働きをするために人の上に臨み、押し動かすことを意味します。この場合、神の霊が人の内に入るということも、人の内に住むということもありませんでした。神の霊は人の上に臨むことはあっても、「人のうちに永久にとどまることはない」とあります(創世記6:3)。

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原文直訳は、
「わたしの霊は、人の中でいつまでも争わない。」(「ドーン」דּוֹןはここ一回のみ)

【新改訳2017】
「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。」
【新共同訳】「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。」
【口語訳】「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。」

●詩篇51篇11節では、「私をあなたの御前から投げ捨てず あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください」とあることから、神の霊は時として人から取り去られることがあり得るのです。

●旧約時代の聖霊は、神のために働かせ、戦わせ、語らせる力として与えられています。神の力を持っていますが、神のいのちは内側に持っていません。その良い例がサムソンです。彼は超人的な神の力を与えられていましたが、いのちの面においてはあわれな人でした。

●ところが新約時代の聖霊は人の内側に住むだけでなく、人の霊とミングリングして神の子であることを証しするのです。しかも聖霊は人の内に永遠に住まれます。その状態が本来の人の姿であるため、それが再生されたことを意味して「プレーロー」と言います。さらに新約の聖霊は内側だけでなく、外側においても臨み、人は力を受けます(使徒1:8)。それはキリストの証人となる力であり、五旬節に「聖霊のバプテスマ」としてイェシュアの弟子たちに注がれて、彼らは上からの力を着せられました。その「聖霊の満たし」を「ピンプレーミ」と言います。新約の聖霊は、内と外に働き、人は二重にその祝福を永遠に享受することができるのです。これこそが新約時代においてなされた聖霊の恵みです。それゆえ、「聖霊に対する冒涜は赦されない」のです(マタイ12:31)。

●旧約の人々は聖霊の内住を経験していません。神の霊を外面で経験しているだけです。しかし新約時代の人たちは内も外も両面を経験することができるのです。それを経験した人物は、最後のアダムであるナザレ人イェシュアです。ナザレ人イェシュアの内には「七つの霊」が内在していました。その「七つの霊」とは、「主の霊知恵の霊悟りの霊思慮の霊力の霊主を恐れる霊知識の霊」です(イザヤ11:2)。イェシュアが人となられた時から、これらの七つの霊がすでに与えられており、その霊はイェシュアの成長とともに継続的に強められていきました。つまり、受肉とともに「プレーロー」されていたということです。

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●イェシュアは三十歳になって公生涯に入られる前に洗礼を受けられました。そのとき天が開けて、神の御霊が鳩のように彼の上に降りました。この時がイェシュアの「ピンプレーミ」のときです。これはやがての弟子たちの予表でもあります。復活の夕べに、イェシュアが息を吹きかけることで、彼らは内に聖霊を受けます(プレーロー)。そのことで弟子たちはイェシュアの語った「御国の福音」を悟り、理解することができたのです。しかし彼らは「いと高き所から力を着せられるまで、都にとどまる」必要がありました。なぜならイェシュアの証人となるためです。五旬節の日になって、皆が「聖霊に満たされ(ピンプレーミされ)」て上からの力を受けます。ピンプレーミの特徴は、聖霊が「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」ように、聖霊に満たされた者が、それぞれ口で語り出すことです。

3.「永遠のいのち」というしるし

●ここで、ヨハネ3章に戻ります。
「永遠のいのち」とは「いのちを与える霊」であり、計り知れない、無尽蔵の聖霊によってもたらされるいのちなのです。このことを私たちは深く知る必要があります。それは30節で、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」とヨハネが言っているからです。「盛んになる」と訳された「アウクサノー」(αὐξάνω)は「増大する」という意味です。キリストのいのちが増大することで、いのちを与える霊が無尽蔵に与えられることを述べています。このことを「受け入れる」ことが出来るでしょうか。以下のことばは、私たちの信じるキリストが測り知れない方であることを証ししているのですが、「だれもその証しを受け入れない」と述べています。「受け入れる、受け入れない」とは、「信じる、信じない」と同義です。

【新改訳2017】ヨハネの福音書3章31~36節
31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
32 この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
33 その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。
34 神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。
35 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。
36 御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

●ここで34節に注目しましょう。「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである」ということばです。35節の「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった」は、34節を補強することばとなっています。

●「神が遣わした方」とは、御子イェシュアのことです。そのイェシュアが「神のことばを語られる」、つまり「神の数々のことば(「レーマ」)を口で語られる」というのは、父なる「神が御霊を(御子に)限りなくお与えになるからである」ということです。それは同様に、イェシュアがご自身の民に神のことばを供給されるだけでなく、ご自身の民に御霊を限りなく与えられるということでもあるのです。

●「御霊を限りなくお与えになる」の「限りなく」を別訳で見ると、口語訳・新共同訳・聖書協会共同訳・回復訳では「限りなく」と訳され、個人訳の田川訳では「升を用いずに(=出し惜しみせず)」があります。私的には「無尽蔵に、無制限に」と訳します。原文ではどうなっているのかと言えば、

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●このように、イェシュアが神の数々のことばを語るのは、御父が出し惜しみせず、限りなく、無尽蔵に御霊をお与えになるからです。とすれば、御子を信じる者に対しても、イェシュアは同様に、御霊を出し惜しみせず、限りなく、無尽蔵にお与えになるのです。その根拠となっていることを最後に述べたいと思います。

4. 無尽蔵に与えられる聖霊は「注ぎの油」

●「内なる霊」と「外なる霊」は、新約では「注ぎの油」(「クリスマ」χρῖσμα、Anointing)として括られます。ヘブル語表記は冠詞付きの「ハッミシュハー」(הַמִּשְׁחָה)です。「注ぎの油」は、本来祭司の働きのために油を注がれることを意味します。動詞は「マーシャハ」(מָשַׁח)。新約には以下の二箇所(3回)だけです。

①【新改訳2017】Ⅰヨハネの手紙 2章20節
あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。
②【新改訳2017】Ⅰヨハネの手紙 2章27節
しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。

●「あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます」と聞いて、どんな思いを抱くでしょうか。おそらく傲慢になるか、もしくは不安に駆られるのではないでしょうか。ここでヨハネは何を言わんとしているのでしょうか。「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油がある」の「ある」は、すでに「持っている、所有している」という現在形です。しかも「みな真理を知っています」の「みな」は「あなたがたすべて」という意味です。

●また、「あなたがたのうちには、御子から受けた油注ぎがとどまっている」の「あなたがたのうちには」とは霊の中の領域であり、「とどまっている」とは御子の霊と人の霊がミングリングしていることを表しています。それらの霊を信仰によって働かせることで、注ぎの油の力が実体化し、目に現されるのです。私たちは、祭司に対する「注ぎの油」のからくりについて、果たして正しく理解しているのかを考えてみなければなりません。なぜなら、私たちは主の「祭司」、権威を与えられた「王なる祭司」だからです。

【新改訳2017】出エジプト記30章22~31節
22 主はモーセにこう告げられた。
23 「あなたは最上の香料を取れ。液体の没薬を五百シェケル、
香りの良いシナモンをその半分の二百五十シェケル、香りの良い菖蒲を二百五十シェケル、
24 桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油を一ヒン。
25 あなたは調香の技法を凝らしてこれらを調合し、聖なる注ぎの油を作る。これが聖なる注ぎの油となる。
26 そして、次のものに油注ぎを行う。会見の天幕、あかしの箱、 27 机とそのすべての備品、 燭台とそのすべての器具、香の祭壇、 28 全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、洗盤とその台。
29 こうして、これらを聖別するなら、それは最も聖なるものとなる。これらに触れるものはすべて、聖なるものとなる。
30 あなたはアロンとその子らに油注ぎを行い、彼らを聖別して、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。
31 あなたはイスラエルの子らに告げよ。これは、あなたがたの代々にわたり、わたしにとって聖なる注ぎの油となる。

●ここには「四つの香料」と「オリーブ油」を「技法を凝らして調合」することが語られています。
①「液体の没薬」と②「シナモン」はキリストの死を象徴します。③「菖蒲」は「葦」の一種でまっすぐに立つように生え、④「桂枝」は虫や蛇を追い払う駆逐剤として用いられることから、③と④はキリストの復活を象徴しています。いずれも、それらは神にとって実に甘い香りなのです。これらの四つの香料にオリーブ油が加えられます。「オリーブ油」は「神の霊」を象徴します。これらをミングリングして「聖なる注ぎの油」を作り、幕屋のすべての器具と祭司たちに油注ぎをすることで、それらはすべて「聖」とされるのです。

●ミングリングされた「聖なる注ぎの油」は、以下の出来事の写しと影です。
(1)息を吹きかけて、いのちを与える霊を与えた(復活後) / プレーロー
●これによって弟子たちの内にある霊の機能が回復し、イェシュアの語った御国の福音を正しく理解することが出来ました。キリストの花嫁はこの「祭司としての油注ぎ」を内に与えられているのです。
(2)権威としての聖霊を与えた(五旬節の時) /ピンプレーミ
●これは「王としての油注ぎ」です。つまり「力としての聖霊」を意味します。これが上から(=神の右の座から)臨むことで、キリストの証人となる権威の力が賦与されたのです。罪を赦す(=病を癒す)ためにも権威が不可欠です。「証人」と訳されたギリシア語の「マルテュス」(μάρτυς)は「殉教者」という意味があります。まさに外の力です。

●Ⅰヨハネの手紙にある「聖なる方からの注ぎの油」(2:20)、「御子から受けた注ぎの油」(2:27)とは、この「聖なる注ぎの油」のことを指して言っているのです。神はこれらを何ら出し惜しみすることなく、無制限に与えてくださるのです。そのことに信仰を働かせるなら、内と外に表れる力が実体化されるのです。

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2024.3.24
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