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生きるか死ぬか、究極の選択を迫るエレミヤ

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41. 生きるか死ぬか、究極の選択を迫るエレミヤ

【聖書箇所】 37章1節~38章28節

ベレーシート 

  • 37章1~2節は、37~44章までの結論的フレーズです。ユダの最後の王となったゼデキヤ、およびその家来たち、そして一般の民衆も、預言者エレミヤに語られた主のことばに聞き従わなかったということです。それゆえ、エルサレムは陥落し、多くの者たちが剣とききんと疫病で死ぬことになったのです。
  • ユダの民が、生きる道を選ぶか、死への道を選ぶか。37章、38章はその究極の選択を迫られるヒゼキヤ王の優柔不断な姿を浮き彫りにします。エレミヤのことばは終始一貫して変わることなく、しかもその内容はきわめてシンプルであり、明確な信仰の決断を迫るものでした。

1. エレミヤの逮捕と監禁、そして穴の中の泥牢 

  • パロの援軍が進撃したことで、バビロン軍は一時撤退します。ユダの人々は、エルサレムはやはり主に守られている、決して滅びることはないという思いが強く湧き上がったに違いありません。エレミヤもこの機会に故郷アナトテにある所有地の相続のことでエルサレムを出たとき、人々は彼がバビロンに投降する者とみなされて捕えられます。役人に打ちたたかれた後に、書記官ヨナタンの家の丸天井の地下牢に長い間、監禁されます。
  • そのあと、突然、ゼデキヤ王によってそこから監視の庭に移され、毎日パン一個与えられてました。しかしエレミヤはそこでも「この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬが、カルデヤ人のところへ出て行く者は生きる」、「この町は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡され、攻め取られる」という主のことばを語り続けたために(38:2~3)、首長たちは王にエレミヤを殺害することを進言します。なぜなら、エレミヤは戦士たちや民全体の士気をくじていているとみなされたからでした。ゼテキヤはこの進言に対してなんら反論することができませんてした。その結果、彼らはエレミヤを監視の庭にある水溜の穴に投げ込みました。エレミヤは泥土の中に沈み、飢え死にするのを待つばかりでした。ところが、そのことを聞いたゼデキヤ王はエレミヤをその穴から救い出し、再び、監視の庭に置きました。このようにゼデキヤは一見エレミヤの味方のようでありながら、かといって彼のことばを素直に聞き従おうとはしない。しかしエレミヤの語ることばが気になっているという、いわばアンビバレントな、優柔不断な心を持ったゼデキヤでした。それが次のエレミヤとの密談につながります。

2. ゼデキヤとエレミヤとの最後の会見 

  • 38章14節以降には、人目を避けてエレミヤと密談したことが記されています。おそらく、エレミヤの語ることばの内容は終始過酷なものですが、エレミヤのうちに真実味のある何かをゼデキヤは感じていたのかもしれません。二人の間に心のふれあいを感じさせます。二人ともそれぞれに万感の思いを込めて、短い密談の時を過ごしたようです。「私はあなたに一言尋ねる。私に何事も隠してはならない」(38:14)ということばがそのことを示していますし、さらに、ゼデキヤが別れ際にエレミヤに向かって自分と密談したことについてだれにも話してはならないと忠告したことの中にも思いがけない温かなやりとりがあったことを感じさせます。話せば殺されるかもしれないとゼデキヤはエレミヤのことを心配したのです。そして実際に、ゼデキヤの忠告に従ったエレミヤのいのちは助かったのです。
  • まずゼデキヤの方から、エレミヤに対して自分の決意(気持ち)を伝えます。「私は決してあなたを殺さない。また、あなたのいのちをねらう人々の手に、あなたを渡すことは絶対にしない。」(38:16)と。すると、エレミヤもゼデキヤに対して次のように語ります。「もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この町はカルデヤ人の手に渡され、彼らはこれを火で焼き、あなたも彼らの手からのがれることができない。」(38:17~19)と。
  • するとゼデキヤは、自分の心にあった不安と恐れを口にします。それは「もし自分が投降した場合、カルデヤ人が自分をユダヤ人の手に渡し、彼らが自分をなぶりものにするかもしれない」という不安でした。しかしエレミヤは王の不安に対して「彼らはあなたを渡しません。」と断言しました。そして再度、「あなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたはしあわせなり、あなたのいのちは助かるのです」と念を押しました(38:19~29)。
  • 主の約束はいつも単純です。「~しなさい。そうすれば、~なります。」この定式は私たちに信仰を求める神の呼びかけです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)。「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもの(必要なもの)はすべて与えられます。」(マタイ6:33)。神の命令とその約束には「必ずそうなる」という確約性があります。

最後に

  • ゼデキヤはエレミヤと最後の会見をしたとしても、おそらく自分では絶対にエレミヤの言うことを実行できないことを知っていました。それは、ユダの歴史、イスラエルの歴史そのものがずっとひきずってきた問題だったのです。「降伏すれば、生きる」というメッセージは簡単なようで、とても重い、とても不可能なことなのです。これはヒゼキヤ王個人の問題ではなく、ユダがバビロンに「降伏する」前に、イスラエルの歴史が引きずってきた問題を正しく理解して、神への信仰の扉を開く必要があったのです。「降伏する」前に、王も首長たちも、そしてユダの民たちも、神の歴史を正しく理解し、神への信仰を根本から問い直すことが求められたのです。バビロンに捕囚となった人々は、この神からの課題に対して、二代・三代かけて真っ向から取り組んだことによって神の民としてリセットされ、神の民としてのアイデンティティを確立することができたのです。


2013.3.30


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