****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

幕屋の上に掛ける四枚の幕とその意味(改)


5. 幕屋の上に掛ける四枚の幕とその意味

【聖書箇所】出エジプト26章1~14節、36章8~19節

ベレーシート

●以下の図にみられるように、幕屋に掛ける幕を造る指示(出26:1~14)と、それを造ったことの記述(出36:19)から、幕屋に掛ける四枚の幕とその意味について取り上げます。

●聖書は必ず内側から外へ、神に近い所から遠くへの順で語られますが、私たちがそれに近づくためには、外から内へ、遠くから近くへの順になります。それゆえ、今回の「幕屋に掛けられる幕」ついて、外側の幕から見て行きたいと思います。なぜ幕が四枚なのでしょうか。またそれらの幕が幕屋の全体を完全におおっているのはなぜなのでしょうか。そうした問いの答えも見出したいと思います。

1. じゅごんの皮のおおい/「ミフセ・ミンマアル」(מִכְסֶה מִמַּעַל)

 幕屋4.JPG

【新改訳改訂第3版】
出エジプト記 26章14節
天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。

●「じゅごん」と訳されている原語は、「タハシュ」(תַּחַשׁ)の複数形の「テハーシーム」(תְּחָשִׁים)です。「じゅごんの皮」で「オーロート・テハーシーム」
(עֹרֹת תְּחָשִׁים)と表記されています。幕屋をおおっている一番外側の幕の皮が「たぬき」「アナグマ」であるという説もありますが、これらの動物は中東には生息しておらず、また「汚れた動物」でもあるので、神の「聖なる御住まい」に用いるにはふさわしくありません。むしろ「アザラシ」の方が有力候補です。ちなみに、七十人訳聖書は「オーロート・テハシーム」を「くすぶった青の皮」と訳しています。

●「じゅごん」にしても、「アザラシ」にしても、その「皮」(「オール」עוֹר)は風雨にさらされても丈夫な皮です。しかし、とりわけ人の目を引くような魅力のあるものではなかったと思われます。聖書がそれについて何の説明もしていないのはそうした理由があるのかもしれません。

●幕屋に関するすべては、メシアなるイェシュアと関係があります。「オーロート・テハーシーム」(עֹרֹת תְּחָשִׁים)がどんな動物の皮なのかが明確でないところに意味があるのかもしれません。つまり、人間の目には魅力のない皮だったということです。イザヤ書のメシア預言によれば、次のように記されています。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書53章2~3節
2・・・彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

●このように、「オーロート・テハーシーム」はメシアの謙遜と屈辱の生涯を象徴しています。

【新改訳改訂第3版】ピリピ人への手紙2章6~8節
6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

●当時の人々は、イェシュアのことを「この人は大工の息子ではないか」と言ってイェシュアにつまずきました(マタイ13:55, 57)。私たちもイェシュアを、目に見えるうわべだけで判断し評価してはなりません。なぜなら彼の内側には、神の本質と栄光の輝きが隠されているからです。

●使徒パウロも次のように語っています。

【新改訳改訂第3版】Ⅱコリント5章16節
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

●ここでいう「人間的な標準」というのは「この世の価値観」という意味で、そのような基準(ものさし)で物事を判断し、理解しようとはしないという意味です。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)とあるように、パウロもある時からそのような見方で人となって来られたイェシュアを知ろうと決心したのです。そしてパウロは、神の御子イェシュアの内側に隠されていた神の驚くべきご計画(奥義)とその栄光を知ったのでした。私たちもそのような見方をする必要があります。

2. 赤くなめした雄羊の皮で作った天幕のおおい/「ミフセ」(מִכְסֶה)

幕屋3.JPG

【新改訳改訂第3版】
出エジプト記 26章14節
天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。

●「赤くなめした雄羊の皮のおおい」(新共同訳は「赤く染めた雄羊の毛皮の覆い」)は、やぎの毛でできた黒い「天幕」(「オーヘル」אֹהֶל)をおおうためです。なぜ「赤くなめした(染めた)雄羊の皮」なのでしょうか。それは、雄羊(「アイル」אַיִל)は身代わりの象徴だからです。「赤くなめした(染めた)」と訳されたヘブル語は「赤く染める」を意味する動詞「アーデーム」(אָדֵם)の分詞男性複数形「メオダーミーム」(מְאָדָּמִים)です。

●イサクの身代わりとして、「全焼のいけにえ」のための雄羊が備えられたことで、イサクは死なずに生かされました(創世記22:13~14)。この出来事はやがてイェシュアがゴルゴタで身代わりとなって十字架にかかって死ぬことの「型」です。やぎの毛でできた黒い「天幕」(「オーヘル」אֹהֶל)は、すべての罪の象徴です。それをおおっているのが「赤くなめした雄羊の皮」です。ですから「赤い幕」でなければならないのです。

●ּレビ記8章22~24節によれば、大祭司アロンとその子らの任職のために一頭の「雄羊」がほふられ、その血を彼らの「右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗」ることによって「聖別」しました。「右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指」は耳と手と足全体を表わし、主の言葉に聞き、主の御旨を行い、主のみこころに従うために聖別することを意味しました。したがって、「赤くなめした雄羊の皮」は任職に対する献身と従順を象徴しています。神の御子イェシュアの献身は、「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われ」(ピリピ2:8)たことに、また「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)というゲッセマネの祈りにも表されています。

●このように、「雄羊」とその血は神への献身(聖別)と身代わりとなるイェシュアの象徴です。雄羊の皮は美しいものですが、外からも内からも見ることのできない位置にあります。ただ、御父だけが御子の完全な献身と従順を見ることができるのです。

画像の説明

●「雄羊」のヘブル語の「アイル」(אַיִל)は「力」を意味します。イェシュアには御父のみこころに敢然と従う力が与えられていました。ヨハネの黙示録ではイェシュアのことを「アルニオン」(ἀρνίον)と表していますが、それは「勝利の小羊」を意味しています。やがてイェシュアは白い馬に乗り、「血に染まった衣を着て」(19:13)地上再臨されます。イェシュアと共に来る天の軍勢は真っ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗っていますから、イェシュアの「血に染まった衣」は最も目立つことになります。


3. やぎの毛で作った外部の幕(天幕)/「オーヘル」(אֹהֶל)

幕2.JPG

【新改訳改訂第3版】出エジプト記26章7~13節
7 また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作る。その幕を十一枚作らなければならない。
8 その一枚の幕の長さは三十キュビト。その一枚の幕の幅は四キュビト。その十一枚の幕は同じ寸法とする。
9 その五枚の幕を一つにつなぎ合わせ、また、ほかの六枚の幕を一つにつなぎ合わせ、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねる。
10 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の縁にも輪五十個をつける。
11 青銅の留め金五十個を作り、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとする。
12 天幕の幕の残って垂れる部分、すなわち、その残りの半幕は幕屋のうしろに垂らさなければならない。
13 そして、天幕の幕の長さで余る部分、すなわち、一方の一キュビトと他の一キュビトは幕屋をおおうように、その天幕の両側、こちら側とあちら側に、垂らしておかなければならない。

●一番外側の「じゅごんの皮のおおい」と、その下にある「赤くなめした雄羊の皮のおおい」の説明はほとんどありませんでしたが、次の「やぎの毛で作った幕のおおい」(「オーヘル」(אֹהֶל)」)についてはかなり多くの説明がなされています。

●「やぎの毛」と訳されていますが、原文には「毛」を意味する語彙はなく、「雄やぎ」を意味するヘブル語の「エーズ」(עֵז)が使われてます。「エーズ」という一つの語彙で、省略的に「やぎの毛」として使われています。つまり、「雄やぎの皮」ではないということです。聖書においては、「雄やぎ」は「黒い色」と同様に罪を象徴しています。

●幕屋をおおう内側の二枚の幕はワンセットです。次に説明する内側の聖なる幕である「ミシュカーン」(מִשְׁכָּן)は御子イェシュアの義を表していますが、その上をおおっているやぎの黒い毛で作った天幕「オーヘル」(אֹהֶל)は「罪」を象徴し、罪のために犠牲となったイェシュアを表しています。

●8節に、「この幕の長さは三十キュビト。その一枚の幕の幅は四キュビト。」とあります。つまり、この幕の幅はその下の幕(聖なる幕)と同じですが、長さは二キュビト長いのです。それはその分を天幕の前で折り重ねるためです。

9節「その五枚の幕を一つにつなぎ合わせ、また、ほかの六枚の幕を一つにつなぎ合わせ、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねる。」

画像の説明画像の説明

●幕屋の東側の「折り重ねられたやぎの毛の幕」は、外から人々がいつも見ることのできる唯一の部分でした。それは自分たちが絶えず罪人であることを認識させるためでした。

2つの天幕のつなぐ輪.JPG

●6枚と5枚の幕をつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の縁にも輪五十個をつけなければなりません。そして青銅の留め金五十個を作り、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとするのです。「青銅の留め金」は神のさばきを象徴していますが、これによって「人のさばき」と「神の恵み」がつなぎ合わされているのです。

●この「天幕」を作るために、11枚の幕を作るように命じられています。6枚と5枚の組み合わせが意味することは、「6」は「7」の完全数に「1」足りない不完全な数で、「キリストを持たない人間」(神に敵対する人)を意味します。「5」は「人」を表す数であると同時に、その人の弱さに対する神の恵みを意味します。幕屋を構成する柱の数や「掛け幕」の幅などはすべて「5 」と「5の倍数」から成っているのはそのことを象徴しています。ここでの「50個」の数はヨベルの年の数とみなすことができます。つまり、ヨベルの年は「解放と回復の年」なのです。


4. ケルビムが織り出された内部の聖なる幕/「ミシュカーン」(מִשְׁכָּן)

●いよいよ最後の幕となりました。この幕は内側の「聖なる幕」であり、神の御住まいを表わす「ミシュカーン」(מִשְׁכָּן)と呼ばれる幕です。

幕1.JPG

【新改訳改訂第3版】
出エジプト記26章1~6節
1 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。
2 幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とする。
3 その五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。
4 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に青いひもの輪をつける。他のつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにしなければならない。
5 その一枚の幕に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の端にも輪五十個をつけ、その輪を互いに向かい合わせにしなければならない。
6 金の留め金五十個を作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にする。

ケルビムが織り出された幕.JPG

●この幕は他の幕にはない特徴があります。その特徴とは「巧みな細工」によって「ケルビム」が織り出されているのです。わざわざ「巧みな細工で」とあるのは、この「ケルビム」が幕の表にも裏にも両面に織り出されているからと思われます。この「ケルビム」は聖所と至聖所との間にある「垂れ幕」にも同じように織り出されています。したがって、聖所に入る者だけが、この「ケルビム」の模様を天井と西側の至聖所の垂れ幕に見ることができたのです。

内部の幕の50の金の輪.JPG

●内側の二枚の幕はいずれも「互いにつなぎ合わせ」て作るよう、神は指示しています。なぜ、そんな手間をかけるように指示したのでしょうか。つなぎ合わせるためには50個の金の輪を造り、それを通すための穴を開けなければなりません。これは大変な作業です。それをあえてさせたことに意味があるのです。幕と幕をつなぎ合わせて一枚にするための「金の留め金」には、右図のように、「青いひもの輪」があります。なぜ青色なのでしょうか。

●幕屋のすべての部分には神の隠された意図があります。青は天の色であり、この二つを結びつけるのはキリストと御霊によって可能であることが啓示されています。パウロが「キリストにあって」、「御霊によって」と記しているとおりです。結び合わされた二枚の幕は「ユダヤ人」と「異邦人」を意味しているのですが、これを結び合わせるのは、人間的な努力では不可能であることを「青いひもの輪」が象徴しているのです。また「金の留め金」はキリストの神性と力を象徴しています。この「金の留め金」と「青いひもの輪」によって、二つの幕を「互いに」つなぎ合わせて一つの幕(屋)にするのですが、この「互いに」と訳されているヘブル語を見てみると以下のようになっています。

画像の説明

●「イッシャー・エル・アホ―ターハ」(אִשָּׁה אֶל־אֲחֹתָהּ)の中にある「エル」(אֶל)は前置詞です。これと似た用法が創世記32章31節にあります。「パーニーム・エル・パーニーム」(פָּנִים אֶל־פָּנִים)、これで「顔と顔を合わせて」という意味になりますが、直訳は「顔・に向かい合って・顏」です。ヤコブは「私は顔と顔を合わせて神を見た」と言って、その所を「ペニエル」と名づけました。他の例としては、民数記12章8節に「彼(モーセ)とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。」とあります。ここにある「口と口とで」の部分が、「ペー・エル・ぺー」(פֶּה אֶל־פֶּה)です。「イッシャー・エル・アホ―ターハ」、「パーニーム・エル・パーニーム」、「ペー・エル・ぺー」、いずれも、互いに向かい合っている状態を表しています。

●上図にあるように、女を意味する「イッシャー」(אִשָּׁה)と姉妹を意味する「アホーターハ」(אֲחֹתָהּ)という語彙の中に、やがてキリストにあって共に組み合わされる(結び合わされる)「ユダヤ人」と「異邦人」からなる教会(「エクレシア」ἐκκλησία)が啓示されていると考えることができます。ちなみに、教会は女性形です。

●使徒パウロは「神の御住まいとなる教会」の啓示を受けましたが、その啓示とはモーセの幕屋の内側の聖なる幕に隠されていた神の秘密でした。パウロはエペソ人への手紙2章21~22節で以下のように述べています。

21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

●ユダヤ人を意味する「女」と異邦人を意味する「姉妹」が、それぞれ互いに向き合い、つなぎ合わされることによって、一つの幕屋(神の御住まい)が実現するのです。しかしそれは人間的な努力でなしえることではなく、パウロが述べているように、「キリストにあって」「御霊によって」神の御住まいとなっていくのです。このことは、今日のキリスト教会が目を留めるべき事柄です。というのは、キリスト教の歴史において、長い間、教会は反ユダヤ主義によって、ユダヤ的ルーツを断ち切ってきたからです。しかしパウロによれば、ユダヤ人と異邦人とがつなぎ合わされることで、はじめて教会は神の御住まいとなることが語られています。しかしこのことはキリスト教会の歴史を学ぶならば、いかに難しいことかを知らされるのです。ユダヤ人と異邦人との間に存在する「隔て」は、この世のすべての分裂の根の象徴です。この問題が解決されて初めて神のご計画は完成するということを念頭に入れて聖書を読まなければならないのですが、神の側ではキリストの十字架の死と復活によって、すでに包括的に解決しているのです。


2016.2.26


a:2182 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional