導かれます。
詩篇23篇の瞑想の目次
瞑想(9) 「私を導かれます」(v.3b-3)
- 「私を導く、私を先導する」と訳された「ヤヌヘーニー」(יַנְחֵנִי)の基本の動詞は「ナーハー」(נָחָה)。NIV訳ではほとんど lead, あるいは guide,で訳されています。意味合いとしては、direct ―教え導く、指導する、管理する、支配する、指揮する、instruct―~に指示する、教える、教育する、命令するといった意味が含まれます。
- 主は、ご自身の名にかけて、私を、義の道へと導かれる方です。それゆえ、私たちに必要なのは従順と謙孫です。主のくびきを負うことを受け入れれば良いのです。主は、私たちの速度に合わせて先導してくださるので、そのくびきは重荷とはなりません。
- 主が私を導かれるという経験を、自分の人生の中で果たしてどのように受け留めてきたのか、立ち止まって思い起こす必要があります。主に導かれるプロセスには自分の夢や願い、ビジョンを捨てることがあったかもしれません。主が導かれるところは、自分の思いとは異なっていたと思わせられたことが多々あったのではないでしょうか。しかし主の導きに従うなら、すべてのことが益とされることを確信しなければなりません。
- 聖書の中に登場する多くの人物たちの人生の中に、そうした主の導きのドラマ、神のストーリを見ることができます。特に、旧約ではヨセフとダビデ。新約ではパウロをあげることができます。
- 詩23篇3節では「主は、御名のために、私を義の道に導かれます」と確信的に語っています。イザヤ書58章11節に「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くします。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」とあるように、神の導きには継続性、永遠性があることを述べています。
- 神の導きには以下のような原則がみられます。
(1) 自分から神の計画を実現しようとしないこと。
(2) 神の導きはしばしば向こうからやってくるということ。
(3) そこには必然性があること。
(4) 神のみこころであるなら、心に平安が来ること。
(5) 神のみこころでなければ、なんらかの形でその道が閉ざされること。
(6) 神の導きと信じて進んでも困難が立ちはだかる。しかし、思いもよらない道が開かれてくることを経験する。
(7) 他の人が聞いても、神の導きだと判断できること。
(8) 神の導きには継続性(つながり)がある。決して突飛で、断続的ではないこと。
(9) あとになって、神の祝福のしたたりを見ることになる。
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