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全焼のいけにえ(焼き尽くす献げ物)

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レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

1. 全焼のいけにえ(焼き尽くす献げ物)

ベレーシート

  • レビ記の最初の瞑想は、1章に記されている「全焼のいけにえ」についてです。出エジプト記40章に記されている「幕屋の完成」において、「全焼のいけにえ」と「穀物のいけにえ」がささげられた記述がありますが(40:29)、これは祭司による正規の礼拝規定が主から告げられる以前に、モーセを通してなされた特別のものでした。しかし完成以後は、祭司がそのための務めに任命され、聖別された後になされることになります(レビ記8章)。
  • 旧約聖書において最初に「全焼のいけにえ」をささげたのはノアです。洪水後にノアは主のために祭壇を築いて、その上できよい家畜と鳥の中からいくつかを選び取って「全焼のいけにえ」としてささげています(創世記8:20)。このとき主は、その「なだめのかおり」(「レーアッハ・ハンニーホーアッハ」רֵיחַ הַנִּיחֹחַ)をかがれて、心の中で、洪水ですべての生き物を打ち滅ぼすことはすまいと決意されたのでした。この「なだめのかおり」は、レビ記における「火によるささげ物」においても引き継がれています(レビ1:13, 17/2:2, 9, 12/3:5, 16/4:31/6:15, 21/8:21, 28/etc.)。旧約における「なだめ」は必ず「かおり」とともに用いられています。新約の「なだめ」については脚注を参照。


1. 「全焼のいけにえ」の諸規定の概観

(1) 訳語・語彙・原義

  • 「全焼のいけにえ」という訳語は新改訳聖書の訳語です。口語訳では「燔祭」、岩波訳は「全焼の供犠」、新共同訳・フランシスコ会訳は「焼き尽くす献げ物」、創造主訳聖書は「完全に焼き尽くすいけにえ」となっています。つまり、「全焼」とは「完全に焼き尽くす」という意味です。
  • 「全焼」の原語は「オーラー」(עוֹלָה)で、その原語は「アーラー」(עָלָה)、原義は「上る・登る」です。一方の「いけにえ」(献げ物)の原語は「コルバーン」(קָרְבָּן)。その語源となる動詞は「カーラヴ」(קָרַב)で、語源は「近づく・進み出る・ささげる」です。
  • 「カーラヴ」(קָרַב)は旧約で289回使われていますが、そのうち、レビ記での使用頻度が102回と最も多く使われています。レビ記1章は「全焼のいけにえ」について言及されていますが、その2節に「もし、あなたがたが【主】にささげ物をささげるときは」とあります。原文では「もし、あなたがたのうちのだれか(「アーダーム」אָדָם)が、主へのささげ物(単数「コルバン」קָרְבָּן)を近づける(「カーラヴ」קָרַב、単男3未完了使役形「ヤクリーヴ」יַקְרִיב)ときには」となっています。つまり、「ささげる」とは「ささげ物」を主に「近づける(近づけさせる)」という自発的・主体的な行為として表現されています。8章6節では、「カーラヴ」(קָרַב)、単男3完了使役形)を、新改訳では「近づかせる」、口語訳では「連れて来る」、新共同訳では「進み出させる」と訳しています。
  • 他にも、名詞の「ケレヴ」(קֶרֶב)は「内臓」を意味し、レビ記1章9節で使われています。他に、名詞の「(神の)近くにいること」を意味する「キルヴァー」(קִרְבָה)は詩篇73篇28節に使われています。いずれにしても、「カーラヴ」(קָרַב)はレビ記における研究すべき重要な語彙の一つと言えます。

(2) 「全焼のいけにえ」となる動物(家畜)

  • 「全焼のいけにえ」となる家畜(「ベヘーマー」בְּהֵמָה)は「若い雄牛」、あいるは「雄の子羊」「雄やぎ」「」です。若い雄牛は家畜の中で最も高価なささげものでした。「鳥」(「オーフ」עוֹף)は貧しい人たちのささげもので、「山鳩」か「家鳩のひな」に限定されます。イェシュアの両親は幼子イェシュアを主にささげるためにエルサレムに行きましたが、貧しかったために家畜ではなく、これらをいけにえとしてささげています(ルカ2:24)。
  • なにゆえに「全焼のいけにえ」となる家畜は「牛」「羊」「やぎ」なのでしょうか。「牛」「羊」「やぎ」は、レビ記11章に記されているように、きよい動物であり、食べて良い動物でした。なぜなら、それらは、①「反芻する生き物」であり、②「ひづめが分かれているもの」だからです。この二つの条件を満たすものでなければなりません(レビ11:2~3)。この二つの条件を完全に満たすことのできる唯一のお方こそイェシュアです。全焼のいえにえは、神に完全にご自身をささげられたイェシュアの型なのです。
  • 反芻する」という動詞「アーラー」(עָלָה)の本来的な意味は「上る、登る」です。全焼のいけにえが完全に火で焼き尽されますが、その煙を良いかおりとして主は嗅がれるのです。それゆえ、その煙が「なだめのかおり」と言われるのす。「反芻する生き物」は、立ち上る「なだめのかおり」と結びついています。
  • ひずめ」のヘブル語は「パルサー」(פַּרְסָה)。そして、「ひずめが分かれる」という動詞は「パーラス」(פָּרַס)です。「パーラス」(פָּרַס)には、「パンを裂く」「引き裂く」という意味があります。イェシュアが十字架にかけられる前日に、弟子たちとともに晩餐の時を持ちますが、そのとき、イェシュアは「パンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」と言われました(マタイ26:26)。「これを(パンを)裂き」という動詞が「パーラス」(פָּרַס)です。
  • 家畜の場合は「傷のない」(「ターミーム」תָּמִים)完全なものでなければなりません。鳥の場合は「傷のない」という指定はありませんが、家鳩の場合は「ひな」(原語は「子たち」)でなければならないという規定の中にその要求が含まれていると考えられます。

(3) いけにえのささげ方

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①「若い雄牛」の場合
奉献者がいけにえとなる牛の頭の上に手を置き(雄牛が自分の身代わりとなることを示す行為)、自分で祭壇の前でそれをほふる。祭司はその血を祭壇の回りに注ぎかける。奉献者はその牛の皮をはぎ、いけにえを切り分ける。祭司は切り分けられた部分と頭と脂肪を祭壇の上に整え、焼き尽くしてその煙を主にささげる。

②「雄羊、雄やぎ」の場合
奉献者が祭壇の北側でほふり、内臓と足は奉献者が水で洗う。祭司はその血を祭壇の回りに注ぎかけ、切り分けられた部分と頭と脂肪を祭壇の上で焼いて煙にする。

③鳥の場合
祭司は祭壇のところで鳥の頭をひねり裂き、血は祭壇の側面に絞り出す。また翼を引き裂き、それを祭壇の上で焼いて煙にする。「引き裂く」と訳された原語は「シャーサ」(שָׁסַע)で、その名詞は「完全に割れたもの、割れ目」を意味する「シェサ」(שֶׁסַע)です。これは、「パンを裂いて分け与える」「ひづめが割れる、分かれる」ことを意味する「パーラス」(פָּרַס)の類義語と言えます。

  • 以上のように、奉献者と祭司のすべきことは異なっています。


2. 「全焼のいけにえ」の象徴的意義

(1) なぜ、いけにえは「雄」なのか

  • 全焼のいけにえとなる家畜はいずれも「雄」です。それは雄が雌や子どもを代表するからです。イスラエルにおいて単位となるのは、個人というよりはむしろ家族です。家族を代表するのは父であり、息子です。つまり男性が家族全体を代表しているのです。

(2) 「全焼のいけにえ」は「いけにえ」の中の「いけにえ」

  • イスラエルのすべてのいけにえの中で最も多く言及されているのが「全焼のいけにえ」です。旧約では「全焼のいけにえ」は280回、「和解のいけにえ」は83回です。つまり、「全焼のいけにえ」こそが「いけにえ」の中の「いけにえ」とされるものなのです。

(3) 「全焼のいけにえ」は「全き献身」「全き服従」の象徴

  • 「全焼のいけにえ」の霊的な意味は「献身」と「服従」です。しかもそれは「全き献身」「全き服従」を意味します。そのことによって、神に対して自らを聖別する(神の所有とする)と同時に、この世から聖別する(分離する)ことを意味しています。しかも、「いけにえ」に手を置くことはいけにえが自分の身代わりを意味するわけで、その「いけにえ」に傷があってはならないということは、自分の最良のもの、最も価値のあるものを神にささげることを意味します。それは自分にとって価値のない部分、余りの部分を神にささげることなど言語道断であることを意味するのです。
  • 「全焼のいけにえ」は奉献者自ら、主体的・自覚的にささげることに意味があります。つまり、本人の自由意志が重んじられます。そのことを示すことばが3節にあります。口語訳では「主の前に受け入れられるように」とあり、新改訳では「主に受け入れられるために」、新共同訳では「主に受け入れられる」と訳されています。その目的のためにいけにえを会見の天幕の入り口のところに自ら連れて行かなければなりません。「主に受け入れられる」と訳された原文は以下のとおり。

    画像の説明

  • この表現は後に、使徒パウロがローマ書12章1節で使っています。

    【新改訳改訂第3版】ローマ書 12章1節
    そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。


    ●「神に受け入れられる」…供え物という部分がそうです。「神に受け入れられる」供え物とは、「聖く、生きた供え物」を意味し、「全き献身、全き服従」を意味する「全焼のいけにえ」なのです。しかも、それこそ「あなたがたの霊的な礼拝」だとパウロは述べています。このような礼拝をいったいだれがささげることができるのでしょうか。人間の場合には決して完全ではなく、必ず、偽善がそこに入り込みます。それゆえこうしたささげものには限界があり、神は受け入れ、喜ぶことができなかったのです。それゆえ、詩篇40篇にそれを満たすことのできるメシア預言が語られているのです。


    【新改訳改訂第3版】詩篇 40篇6節
    あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、(動物による)全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

    ●「あなたは私の耳を開いてくださいました」の中の「私」とはいったい誰の事でしょうか。「耳を開いてくださった」とは、「からだが与えられて、そのからだをもって、神に対する全き献身と全き従順のいけにえをささげることを可能とならしめてくださった」ということを意味します。後でも触れますが、ここでの「私」とは完全な、真の「全焼のいけにえ」として神にご自身をささげられたイェシュアのことを指しています。


3. メシア・イェシュアを啓示する「全焼のいけにえ」

  • 詩篇40篇6節は、ヘブル人への手紙10章3~10節の中に以下のように引用され、注解されています。

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙10章3~10節

3 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
4 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」
8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言い、
9 また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。


●動物のいけにえによる献身と服従には、たとえどんな自発的なささげものであったとしても、必ずや、偽善の罪が入り込むため、完全に神に受け入れられ、神に喜ばれることができないのです。そのために「私」というメシアの存在が必要なのです。このメシアこそ神の御子イェシュアです。そしてイェシュアがからだをもって、完全な神のみこころに従ってご自身を全焼のいけにえとしてささげられたのです。それゆえイェシュアをメシアと信じる者は神によって受け入れられ、聖なるものとされる道が開かれたのです。

●イェシュアにこそ全き献身と全き服従があり、全焼のいけにえが一回限り完全にささげられたことにより、「後者が立てられるために、前者が廃止されるのです」とあるように、旧約のいけにえ制度は不要となり、廃止されることになったのです。


脚注
●「なだめのかおり」の「なだめ」と訳された原語の語源は「ヌーアッハ」(נוּחַ)です。この動詞の基本形は「休む、とどまる、(静かに)待つ」という意味ですが、使役形(ヒフィール)では「安息(休息)を与える、いこわせる、(怒りを)静める、供える」といった意味があります。つまり、「なだめのかおり」「なだめの供え物」は神の安息と深い関係があります。

●新約では「なだめの供え物」が「ヒラステーリオン」(ἱλαστήριον)というギリシア語で使われています。

以下、すべて【新改訳改訂3】より引用。
(1) ローマ 3章25節
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

(2) ヘブル 2章17節
そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

(3)Ⅰヨハネ 2章2節
この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。

(4) Ⅰヨハネ 4章10節
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。


2016.4.5


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