主は私のたましいを生き返らせ、
詩篇23篇の瞑想の目次
瞑想(6) 「主は私のたましいを生き返らせ」(v.3a)
- 「主は私のたましいを生き返らせ」(新改訳)
「魂を生き返らせてくださる。」(新共同訳)・・V.2に続くものとして訳されています。
「わが魂をかれは回復させ」(岩波訳)
「傷ついたこの身を立ち直らせて・・くださいます。」(LB訳)
He revives life in me. (Mof)
He give me new strength. (TEV)
He restores my soul (NKJV)
He gives new life to my soul. (Bas)
He gives me renewed life (Hav)
He renews life within me (NTB)
He restores my failing health (Tay)
- 「たましい」と訳された原語は、へブル語で「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)です。このことばはヘブル語の中で最も重要な言葉の一つです。この言葉のもともとの意味は「喉」です。「喉」は食べ物や飲み物、声や息をする通り道であり、人間が生きる上で重要な部分です。そこから「渇き」「渇望」を持った人間存在全体を表わします。
- たとえば、詩42篇1節「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」、同2節「私のたましいは、神を活ける神を求めて渇いています。」、詩62篇1節「私のたましいは、黙って、ただ神を待ち望む」、詩63篇5節「私のたましいが・・満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれてあなたを賛美します。」、同8節「私のたましいはあなたにすがります。」・・とあるように、いずれも「ネフェシュ」である人間は、渇きをもって神に対峙する存在という意味です。神によって満たされなければ真に生きることのできない、そのような存在こそ「ネフェシュ」なのです。まさに、へブル語独特の意味を内包する言葉と言えます。このように理解するなら、聖書のメッセーシはより奥深いものとなります。
- 日本語ではおおむね「わがたましい」と訳されていますが(なかには「わが魂」と漢字で表記しているのもあります)、英語ではmy soul / my heart / my life / my glory / my honor / me (myself)などと訳されています。
- 「回復させ」、revive, restore, renew, give new strength, と訳されたへブル語は[シューヴ](שׁוּב)。本来の意味は「戻る」「帰る」で、神に立ち返る、悔い改めることを意味します。「シューヴ」(שׁוּב)は詩篇で34回使われています。その中でrestore「生き返らせ」と訳しているのは3回(23:3/71:20/85:1, 4)だけです。 restore は、元に戻ること、回復する、元気を取り戻す、生き返る、復帰する、再建する、新しい力を得る、といった意味があります。
- TEV訳のHe give me new strength.「新しい力」については聖書の他の箇所にも言及があります。たとえば、イザヤ書40章28~31節がそうです。
28
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
29
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
30
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
31
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
(※「疲れる」燃え尽き症候群、「たゆみ」霊的緊張感の喪失)
- 同、イザヤ書41章1節
「1 島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。」とあるように、「主の前に静まる」ことと、「新しい力を得る」こととは同義です。
- 同、イザヤ書30章15節
「15 神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたは、これを望まなかった。」
- 「主の前に静まる」という祈りの生活のために、ライフスタイルを一新することなしに、豊かないのちに生き返ることはできないことを心に留めたい。
- オランダの改革派教会が生んだ霊性の大家、アンドリュー・マーレーは「霊的に衰退する原因は静思の時をなおざりにするからである。」と述べています。使徒ペテロは救いにあずかった者に対して次のようにのべています。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」母乳は完全な栄養食で、生後4ケ月はこれだけでOKです。詩22篇の作者は「あなたは私を母の胎から取り出された方、母の乳房に拠り頼ませた方(岩波訳―母の乳房で育てた方)」と告白しています。母と乳飲み子は神と私とのかかわりアナロジーであり、そこにいのちのかかわりの原初的な姿があります。私たちはそこに戻らなければなりません。乳飲み子は母乳によって満たされ、安心、成長が保証されます。また、母の優しいまなざしは麗しい信頼の絆を体感させます。
- 主の前に静まるとは、そうした満足、安心、成長、信頼のはじめに戻ることを意味します。そこから魂はリニューアルされ、リバイバルされ、リストアーされ、リフレッシュされて、新しい力を得ることができるのです。
- キリスト教の歴史において、「黙想の価値を高めたライフスタイル」を築こうしたベネディクト、「共に生きる」ことを実践したボンヘッファーなどから多くのことを学ぶことができるに違いありません。
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