ヨブ記のエピローグ(2) 回復された祝福
29. ヨブ記のエピローグ(2) 回復されたヨブの祝福
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【聖書箇所】42章7~17節
ベレーシート
- 42章7節から文体が詩文から散文に変わります。多くの学者が、散文で書かれたテキストと詩文で書かれたテキストは本来別のものであることを指摘しています。もともと散文で書かれたテキストがあり、そこに詩文で書かれたテキストが挿入されたとしています。
- ヨブが実在した人物かどうかという点については、実在した人物で間違いありません(エゼキエル14:14, 20)。ヨブの年齢について記されている唯一の箇所としてヨブ記42章16節があります。それによれば、ヨブの苦難の経験を境として、その前半の人生と後半の人生があり、後半の人生が140年で、長寿を全うして死んだとあります。単純に計算すれば、ヨブは280年の生涯であったと言えます。
- ノアの洪水の前に主は人の齢を120年にしようと言われましたが、ノアは大洪水の後、350年生きて950歳まで生きています。そのあと人の齢は徐々に減り始め、アブラハムの父テラは205歳、そしてアブラハムは175歳、イスラエルの指導者モーセは120歳となります。そこからヨブが生きた年齢を考えると、セムからアブラハムに至るまでの時代に生きた人ということになります。しかもその時代の聖書の舞台は、まだカナンの地ではありません。「ウツ」と呼ばれる地にヨブは住んでいたのです。多くの謎に満ちたヨブ記ですが、ヨブが元の繁栄を回復された42章7節以降に目を留めてみたいと思います。
1. なぜ、神はヨブの友人たちを叱責されたのか
【新改訳改訂第3版】ヨブ記42章7~8節
7 さて、【主】がこれらのことばをヨブに語られて後、【主】はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。
8 今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、あなたがたのために全焼のいけにえをささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。あなたがたはわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったが。」
叱責の理由(1) ・・「わたしについて真実を語らなかった」
- 主がヨブの3人の友人の代表格であるエリファズに対して叱責しています。その叱責には主の怒りが含まれています。その理由は、「あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったから」だと、二度も繰り返されています。「わたしについて真実を語らず」とはどういう意味でしょうか。「真実」という部分を、口語訳は「正しいこと」と訳し、新共同訳は「正しく」と訳しています。原語は「堅く立てられた」「据えられた」という意味の「クーン」(כּוּן)のニファル態(受動態)の分詞が使われています。
- この箇所は友人たちが神について正しく語らなかったことに対する叱責がなされていると考えられます。つまり、彼らが、伝統的な教理、経験的な知恵の枠の中で神のミシュパート(支配・統治)を理解し、それをヨブの苦難の理由として、神に代わってヨブを説得しようとしたことです。つまり、彼らはヨブが何かの罪を犯したがゆえに、このような苦しみを受けているのだと主張し、それをヨブに認めさせようとしたのです。この友人たちの誤解にヨブはどれほど傷つけられたか計り知れません。同時に、彼らの態度は神の御名を侮辱し、恥辱を与えたとも言えます。
- 神に対して謙遜であること、神の真理に対しては常にオープンマインドであることよりも、伝統主義的な理解の型紙を神の真実と思い込み、その枠の中でヨブを非難し、苦しみを増し加えていたことに対する神の叱責のことば、それが7節なのです。
(2) 叱責の理由(2) ・・「わたしのしもべヨブのようではなかった」
- 「わたしのしもべヨブのようではなかった」とはどういう意味でしょう。自分の潔白を主張し、不条理な苦痛に対してどこまでも答えを神に尋ね求めたヨブのようではなかったということです。つまり、「なぜ」「どうして」と納得がいくまで神に問いかけることのない姿勢がなかったことに対する叱責です。
- 詩篇の中にも、「ゆえもなく」ふりかかった苦しみに対して、詩篇の作者たちは神に問いかけています。神のしもべとは、単に「イエスマン」のような者のことではなく、納得いかないことに対してどこまでも神に問いかける存在でもあります。神のしもべと言われたモーセにしても然り、ダビデにしても然りです。そして、神のしもべとしての究極的存在であるイェシュアも、十字架の上で「わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、その叫びは神への疑いではなく、問いかけなのです。その問いかけは必ずしも不信仰ではなく、強い信頼によって裏付けられた問いかけです。
- ヨブの神への訴え「リーヴ」(רִיב)は、「もし神がおられるなら、なぜこのようなことが起こるのか。なぜ、このことを神は許されるのか」といったレベルとは異なります。「とても信じられない。こんな神を許せない。」と神を疑い、不信を突き付ける時に私たちは罪を犯すのです。疑問があったとしても、神が良い(トーヴ、טוּב)方であることを信じ貫くことができるかどうか。神のしもべであるイェシュアは十字架上で最終的に「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取られました。
2. ヨブのとりなしによる赦しと祝福の回復
- 三人の友人がヨブに犯した罪は、ヨブのとりなしの祈りによって赦されます。そのことを神が保証します。そしてそれは同時に、ヨブが元の祝福を取り戻すことと密接に関連づけられています。
- 「雄牛七頭、雄羊七頭」という数も律法に定められていない数であることから、この話はモーセの時代よりも前の時代だと推測されます。彼らが主の命じられたようにすると、「主はヨブの祈りを受け入れられた」(9節)とあります。直訳すると「主はヨブの顔を上げられた(持ち上げられた)」となりますが、実にヘブル的な表現です。
- 10節の「ヨブがその友人たちのために祈った」という「祈った」という動詞は「パーラル」(פָּלַל)の強意形ヒットパエル態(再帰態)が使われています。この「パーラル」は基本形で使われることはなく、常に、強意形のピエル態か、ヒットパエル態で用いられます。前者のピエル態で使われる場合は、仲立ちの働きをするという意味になり、ヒットパエル態で使われる時は、とりなしをする者の主体性、自主性が強調されます。ですから、10節での「ヨブがその友人たちのために祈った」という祈りは、強いられた祈りではなく、あくまでもヨブ自身の主体的な祈りであったことを意味しています。それが彼の祝福につながっていくのです。
- 「パーラル」の親語根は“פל”です。この親語根にいくつかの子語根を付け加えてみることで、そこには神の前にひれ伏すことで、「あり得ないこと」「不思議なできごと」「異常なこと」が起こるというイメージが見出されるはずです。それが「パーラル」(פָּלַל)の意味です。
3. 回復された祝福の内容
- 10節には後半があります。それは、ヨブがその友人たちのために祈ったとき、「【主】はヨブの繁栄を元どおりにされた。」ということです。ヨブが元どおりの祝福(繁栄)を回復されたその内容とは以下の通りです。
(1) 二倍の所有物
(2) 苦難のゆえに疎遠になっていた人々との交わりの回復
(3) 七人の息子たちと三人の娘たち【新改訳改訂第3版】ヨブ42:13~15
13 また、息子七人、娘三人を持った。14 彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。15 ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。(4) 長寿
2014.7.16
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