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ヨブのプロフィールと「ヨブ記」の問題提起

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1. ヨブのプロフィールと「ヨブ記」の問題提起

【聖書箇所】1章1~12節

ベレーシート

  • キリスト教における旧約聖書には四つの区分があります。「トーラー」(モーセ五書)「歴史書」「諸書」、そして「預言書」です。ヨブ記は「諸書」の中にあり、文学的には「知恵文学」という範疇にはいります。それは、人間から神に問いかける書という特質を持っています。「知恵文学」の中で重要な位置を占めているのがこの「ヨブ記」です。
  • 「知恵」をヘブル語では「ホフマー」(חָכְמָה)と言い、それは「ものを確かめる」「はっきり握る」という意味です。最初は、職工の技術的な巧みさ、上手さに用いられましたが、それが人生の技術としてしだいに高められて、世渡り上手、そして、次第に人生の本質をはっきりと見定めて握るという「知恵」として発展して来たようです。そうした知恵の視点から、神に(あるいは自分に)問いかけるものとして記録され、残されたのが知恵文学と言われるものです。
  • 神からの一方的な語りかけではなく、人間から神へ問いかける。あるいは、人への問いかけ(自分も含めて)がなされます。「なぜ」「どうして」「いつまで」といった「問いかけ」は、真理を求めようとする者にとってきわめて必須な精神です。この精神を通して、それまでの常識的な概念の殻が打ち破られ、より深い本質的なものに迫ろうとする。これこそ知恵文学の特徴と言えます。「ヨブ記」は「真理への探求心を研ぎ澄ます最高のテキスト」なのだと言えます。

1. 「ヨブという人」のプロフィール

(1) 名前とその意味

  • 「ヨブ」という名前のヘブル語表記は「イッヨーヴ」(אִיּוֹב)です。ヘブル語の人の名前は、その人の「人となり」を表わす場合もあれば、その人物とその背景を通して語られている神のメッセージを表わしている場合もあります。「ヨブ」はおそらく後者と思われます。
  • 「イッヨーヴ」の動詞は「アーヤヴ」(אָיַב)です。それは「敵対する」「敵となる」という意味を持ちます。それは、一見、ヨブのプロフィール的イメージからすると真逆の意味になるのですが、(神に問いかける)「敵対、対立、懐疑」的存在、あるいは立場、視点といった意味で捕らえることができます。ヨブ記13章24節に「なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵(אָיַבの分詞)と見なされるのですか。」とあります。神に「なぜ」と問いかける者が、神の「敵」という位置に置かれているのです。真実を知ろうとする者が、ときには「(神に)敵対して訴えている者」のように見えるのです。また、天上において神の言われることに対して「果たしてそうだろうか」と問いかけるサタンの問題提起が、「ヨブ」という名前に大きく関係しているかもしれません。
  • 主は「ヨブ」のことを「わたしのしもべヨブ」と呼んでいます(1:8/2:3/42:7, 8)。「神のしもべ〇〇」という言い方もありますが、いずれにしても、この称号は旧約においては、神が人に与えた「最高の称号」です。どんな人がそのように呼ばれたかといえば、最も多いのがダビデです。次にモーセ、アブラハム、カレブ、預言者のイザヤ、イスラエルの民(ヤコブ)、そしてヨブです。しかも、神から油注がれたメシアなるイェシュアも「わたしのしもべ」なのです。

(2) 資質

  • 主はこのヨブのことを「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」と言っています(1節)。ここにはヘブル語特有の同義的平行法が見られます。

    画像の説明

  • つまり、「潔白で正しく」というフレーズが、「神を恐れ、悪から遠ざかっていた」と同義だということです。「潔白で」はヘブル語の形容詞の「ターム」(תָּם)が使われており、「ハフー、ターム」で「彼は潔白(完全)な人」という意味になります。「潔白」とは道徳的な意味ではなく、神に対する全き信頼の「完全さ」を意味します。それを「神を恐れる者」ということばで置き換えられています。
  • ここでは「恐れる」(「ヤーレー」יָרֵא)という動詞の分詞が使われています。旧約聖書で神を「恐れる」とは神を「信じる」こと、「信頼する」ことと同義です。一方の「正しい」と訳された形容詞の「ヤーシャール」(יָשָׁר)は、ここでは「悪から遠ざかる」と言い換えられています。「悪には見向きもしない」のです。「わたしのしもべヨブ」とはそのような人物であったのです。
  • 余談ですが、同義的並行法(パラレリズム)という修辞法によって言葉の意味がつながってくるのです。聖書が聖書のことばを説明しているのです。それぞれ別の表現でありながら、その意味するところが同義だというパラレリズムの言葉を地道に集めていくことで、聖書の類語辞典を作って行くことができるのです。そうすることによって、聖書の言葉の概念を正しく理解することができるようになるのです。
  • ヨブは「神を信じることにおいて完全な者であり」、また「神と人に対しても悪から遠ざかり、見向きもしなかった正しい人であった」ということです。このことにおいて、神は太鼓判を押しています(8節)。

(3) 家族と財産(所有物)

  • ヨブには妻がおり、七人の息子と三人の娘が与えられていました。子どもたちは互いに行き来し合うほどにとても仲が良く、それぞれの誕生日には自分の家に招いて祝宴を開き、一緒に食べたり飲んだりするのを常としていたのです。まさに、だれもが羨むような家族でした。
  • ヨブは息子たちが「もしや罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思い、七人の息子たちの祝宴(おそらく、誕生日のこと)が一巡したところで(つまり毎年一回)、彼らを呼び寄せて、彼らを聖別するために、ひとりひとりのために全焼のいけにえをささげました。このことの中に、ヨブが族長として家族のために祭司的役割を果たしていたことが分かります。
  • ここで「のろう」と訳されたヘブル語はなんと「祝福する」という意味の「バーラフ」(בָּרַךְ)の強意形(ピエル態)が使われています。名尾耕作氏によれば、これは「のろう」ということばを用いず、「祝福する」ということばを用いた婉曲語法で、神を「のろう」意味だと説明しています。
  • ヨブは東の人々の中で「一番の富豪であった」とあり、その財産目録が記されています。羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の家畜、それに非常に多くのしもべです。
  • 興味深いことに、ヨブには「七人の息子と三人の娘」の総計が10人。家畜の「羊とらくだ」の総計が1万頭、「牛と雌ろば」の総計が1千頭です。その「数」に注目です。量的には異なりますが、すべて「1」という数値で共通しています。「1」という数値はヘブル語の「アーレフ」(א)です。ちなみに、ヨブ記の42章では、すべてを失ったヨブが再び主に祝福されて、子どもたちの数は以前と同様、「息子七人娘三人」と変わりませんが、所有物は羊が一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭というように、その数がすべて二倍に増えています。つまり、数値としては、人は「1」(א)、家畜は「2」(ב)に変化しています。整然とした数値に、何か隠された秘密(メッセージ)があるように思います。

(4) 舞台

  • ヨブの住んでいた場所は「ウツ(עוּץ)の地」です。口語訳は「ウズ」と訳していますが、原語を見れば「ウズ」とは表記できないはずです。「ウツ」という地名は、ヨブ記1章1節を除いて聖書に7回あります。そのうち5回は人の名前として、後の2回はエレミヤ書25章20節と哀歌4章21節にあります。そして、哀歌では「ウツの地に住むエドムの娘よ」とあることから、「ウツ」は「エドムの地」であることが判ります。しかも、そこと、ヨブ記1章3節の「東の人々」が符合します。つまり、ヨブは神の民イスラエルの民ではないということになります。
  • ヨブ記が書かれた時代については、大きく二つの見解があります。

    (1) 族長時代という見解
    ①ヨブが族長として家族のために神と人との仲介役としての祭司の務めを果たしていること。
    ②ささげものがモーセの律法の規定とは全く異なる事。たとえば、罪の贖いのための全焼のいけえにえはモーセの律法の規定にはないこと。

    それゆえ、律法授与以前の時代であり、イスラエルの民の誕生よりも前の古い時代だとする見解。


    (2) 捕囚以降のユダヤ教の時代という見解
    ヨブ記の「人が神に問いかける」という崇高な洞察力の中にみられる「知恵」は、新約時代にきわめて近い頃のユダヤ教に起こった教育運動であり、その遺産が「知恵文学」として展開されているという見解。「知恵文学」には、箴言、ヨブ記、伝道者の書などが含まれます。


  • (1)の見解も、(2)の見解も、いずれもそれぞれ説得力があるように思います。ヨブ記には「時を表わす」語彙がないことから、書かれた時代が明白ではありません。しかし時代が明白でないことが、むしろ逆に、ヨブ記で扱われている人間の根元的問題が、いつの時代にも変わることのない普遍性をもっていることをある意味で示唆しているとも言えます。

2. 「ヨブ記」の問題提起

  • 「ヨブ記」は「なぜ義人が苦しむのか」という事がテーマだとされています。確かにそう思いますが、ヨブという人物はある問題提起の象徴的存在とも言えます。真の問題提起は主に対するサタンの訴えにあります。つまり、主がヨブのことを「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」という断言に対して、サタンは「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」と反発します。必ずそこには打算的な理由があるというのが、サタンの言い分です。
  • 「いたずらに」と訳されたヘブル語は「ヒンナーム」(הִנָּם)です。「ゆえもなく」「理由もなく」「益もないのに」という意味です。「必ず、そこには隠された自己満足的な打算があるのだ」というのがサタンの主張です。果たしてどうなのでしょうか。神を信じている者ひとりひとりに対して、あなたはなにゆえに神を信じているのか」とサタンから問いかけられているのです。必ずエゴ的な動機があるはずだとサタンは主張しているのです。主とサタンとの駆け引きが、たまたま「ヨブの苦難」を通してなされているように思われるのです。
  • 「義人がなぜ苦しむのか」という問題提起と共に、「人間は目に見える利益なしに、果たして、純粋に神を信じることができるのか」という問題提起があるように思います。「目に見える利益を奪われるだけでなく、継続的な苦しみを与えられたならば、人は必ず神を呪うに違いない。いたずらに(ゆえもなく)神を恐れる(信じる)ことなどないのだ」というのがサタンの主張です。果たしてサタンの主張が正しいのかどうか、真理なのかどうか。そうした視点も含みながら、ヨブ記を味わう必要があるように思います。

2014.4.30


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