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メシア預言ー「メシアの資質」


1. メシア預言ー「メシアの資質」

【聖書箇所】イザヤ書11章1~2節

【新改訳2017】イザヤ書11章1~2節
1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
2 その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、【主】を恐れる、知識の霊である。


ベレーシート 

●今年(2019年)のセレブレイト・スッコートの最初の礼拝では、イェシュアの誕生に先立って、旧約聖書に記された「メシア預言」について取り上げたいと思います。イザヤ書にはいくつかのメシア預言があります。たとえば7章の「インマヌエル預言」、9章6~7節「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。・・その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」は良く知られているところです。しかし、11章1節の「エッサイの根株から生えた新芽、その根から出た若枝が出て実を結ぶ」は比較的取り上げられることは少ないように思います。そこで、今回はイザヤ書11章1~2節のメシア預言に注目し、そのテーマである「メシアの資質」について思いを巡らしたいと思います。

1. エッサイの根株から生えた新芽、その根から出た若枝

●1節の「エッサイの根株」とは、エッサイから出る子孫を意味します。この預言はエッサイの息子であるダビデのことを指しているのではありません。なぜなら、イザヤの時代はダビデの時代よりずっと後だからです。「エッサイ」は「ベツレヘム」の人であり、ボアズとルツの子孫です。エッサイの系列をここでは「新芽」(「ホーテル」חֹטֶר)」と「若枝」(「ネーツェル」נֵצֶר)で言い表しています。「新芽」(「ホーテル」חֹטֶר)も「若枝」(「ネーツェル」נֵצֶר)も、いずれも単数名詞であり、パラレリズムで同義です。「新芽」がダビデとすれば、「若枝」はイェシュアとなります。

●前者の「新芽」と訳された「ホーテル」(חֹטֶר)は、イザヤ書11章1節と箴言14章3節の2箇所にしか使われていませんが、新約のヤコブの手紙3章2~7節がこのことばの注解をしているように思われます。どういうことかと言えば、人間の器官である「舌」を例に挙げて、その小さな器官が良くも悪くも、からだ全体に影響を与えるものとなるように、「新芽」もそのような大きな影響を与える存在となるという意味です。

●後者の「若枝」と訳された「ネーツェル」(נֵצֶר)ですが、イザヤ書では3回(11:1、14:19、60:21)、ダニエル書1回(11:7)の計4回だけです。小さな枝であるゆえに(LXX訳聖書では14:19は「屍」と読み替えられいます)投げ捨てられるか、神の植えた枝であるゆえに、それがやがて神の栄光を表わすものとなるという意味があります。動詞の「ナーツァル」(נָצַר)は使用頻度が64回もあり、その主な意味は、神の恵みが千代にまで「保たれる、守られる」という意味と、人も神の仰せにどこまでも従って守っていくという意味もある語彙で、それがやがて「実を結ぶ」ものになるというのが、「若枝」に込められた意味です。

●したがって、「新芽」(ホーテル)も「若枝」(ネーツェル)も、メシアの称号として実にふさわしいのです。しかも、「ネーツェル」は、御子イェシュアが公生涯に入る30歳まで育った「ナザレ」の町を意味するようになるのです。ですから、「これは預言者たちを通して『この方はナザレ人と呼ばれる』と言われたことが成就するためであった」(マタイ2:23)と言われているのです。

若枝.PNG

●この預言が描いているイメージは、切り株を残して、伐採された木です。ところが、伐採され、無価値とされた切り株からひとつの新芽が生え出てきて、木の生命力が回復され、それが生い育って悪を排除し、時を経てもとの栄光を取り戻し、全世界に祝福をもたらすという預言なのです。

●北イスラエル王国はアッシリアによってすでに根株ごと引き抜かれてしまいましたが、神殿のあった南ユダ王国の崩壊と捕囚は、木が切られてしまいましたが、根株は残されたままでした。それ以来、エルサレムは異邦人に支配され続けることになったのですが、この預言は「エッサイの根株から」「エッサイの根から」とあるように、それはダビデの子孫からメシアが新芽として生え、若枝として出てくることが預言されているのです。

●ちなみに、「エッサイの根株から生えた新芽、その根から若枝が出て実を結ぶ」の「根株」は「ゲーザ」(גֵּזַע)で、木の幹の根を表します。つまり、イェシュアに継がれる家系の象徴です。「根」は「ショーレシュ」(שֹׁרֶשׁ)で、子孫のルーツを意味します。

2. メシアの三つの資質 

●「新芽」も「若枝」もメシアを表す象徴です。そこで今回は、このメシアの資質について、イザヤ書11章2節から「主の霊を宿したメシア」の資質について、三つの面から学びたいと思います。

【新改訳2017】イザヤ書 11章2 節
その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、【主】を恐れる、知識の霊である。

●ところで、メシアに注がれる「主の霊」(「ルーアッハ・アドナイ」רוּחַ יהוה)は、どのような特質を与えるのかを見てみましょう。以下の三つのグループに分けられますが、それらはいずれも王に求められる資質なのです。
第一はメシアの知的資質としての「知恵と悟りの霊
第二はメシアの統治的資質としての「思慮と力の霊
第三はメシアの霊的資質としての「主を恐れる、知識の霊

●その前提として、これら三つのメシアの資質は、すべてはメシアの上に「主の霊がとどまる」ことから言えることなのです。

(1) 主の霊がとどまるメシア

●「とどまる」と訳されたヘブル語は「ナーハー」(נָחָה)で、その初出箇所は創世記24章27節です。

【新改訳2017】創世記24章27節
こう言った。「私の主人アブラハムの神、【主】がほめたたえられますように。主は、私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。【主】は道中、この私を導いてくださいました。主人の兄弟の家にまで。」

●ここでの「置かれた」の「ナーハー」(נָחָה)は、主の霊がメシアを「導かれる」ことを意味します。このことは、イェシュアの公生涯において、御霊に導かれたことで成就します。

【新改訳2017】マタイの福音書 4章1節
それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

●ここでのイェシュアの試みは、イスラエルの失敗を踏み直すための試みでした。イェシュアは荒野で四十日四十夜、断食をしたのは、単に食べ物を口にしないということではなく、むしろ「神のことばを食べる」ための断食です。それは申命記8章3節にあるように、「人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きるということ」を示すためです。まさに、イェシュアは詩篇1篇の「幸いなのは、その人」なのです。そのように語っているのは、ここでは「人称なき存在」である「御霊」です。その御霊がイェシュアにとどまることで、「【主】のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人」として導かれるのです。


(2) メシアの知的資質としての「知恵と悟りの霊」

●「知恵と悟りの霊」は、ヘブル語で「ルーアッハ・ホフマー・ウーヴィーナー」(רוּחַ חָכְמָה וּבִינָה)です。王が、その統治者として国を治めていくときに備えておくべき資質なのです。

●ダビデの後継者であった王ソロモンに、主は現われて言いました。

【新改訳2017】Ⅰ列王記3章5~13節
5 ギブオンで【主】は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
6 ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のうに、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。
7 わが神、【主】よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。
8 そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。
9 善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
10 これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、
12 見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。
13 そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。

●ここには、ソロモンに与えられた「知恵の心と判断する心」があります。12節にある「知恵と判断の心」こそが、メシアに約束された「ホフマー」(חָכְמָה)と「ビーナー」(בִּינָה)なのです。ソロモンが示した知恵がどのようなものであったか、Ⅰ列王記3章14節以降にそれを示す例があります。王のところに「遊女」が裁きを求めてやって来たことで、王は二人の争い事を聞き、さばきを行ったのです。その結果は?

●しかし、ソロモンよりも勝る方がおられます。その方こそ「神の御子イェシュア」です。パウロは、「神の知恵」とは「十字架にかかられたキリスト」だと言いました。「十字架のことば」は神の力だと伝えました。これはどういう意味でしょう。パウロはコリントに宛てた手紙の中でこのテーマについて記しています。

【新改訳2017】Ⅰコリント書1章18~25節
18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
19 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
20 知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21 神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
24 ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

●十字架のことば(Ὁ λόγος ὁ τοῦ σταυροῦ)は、ユダヤ人にとってはつまずきとなる。これはどういうことでしょうか。ユダヤ人が求めるメシア像とは、自分たちを異邦人であるローマ帝国への従属から解放する力を持ったメシアでした。これがユダヤ人の求めるメシアの「しるし」だったのです。イェシュアはこのような「しるし」に対して、「ヨナのしるし」以外にはないと答えました(マタイ12:39)。「ヨナのしるし」とは、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように「人の子」メシアも三日三晩墓の中に横たわるということです。すなわち、死んで葬られるということです。死による自己犠牲以外には、メシアとしてのしるしはないというのがイェシュアの答えでした。力と栄光とをメシアのしるしと考えていたユダヤ人にとって、メシアが苦難を受けるということは「つまずき」を意味したのです (1:23)。

●十字架のことばは、ギリシア人にとって愚かである。これはどういうことでしょぅか。ギリシア人にとって、愛とは必ず価値ある相手に向けられるものです。これがギリシア人の知恵なのです。人よりも優れた者を称賛するということにおいてそれは現わされます。オリンピックがなぜギリシアから始まったのかはそうした理由からです。ところで、神という存在は最高に価値ある存在です。ですから、神を愛するということは知恵にかなっていますが、神が他のものを愛することがすでに愚かであるのに、これに加えて、神が価値のないものを愛するということは、愚かさの極みなのです。

●しかし、福音は「神が価値のない罪人を愛する」というメッセージなのです。十字架のことば、すなわち神がキリストにおいて罪人である私たちを愛されたという贖いの死(身代わりの死)は、ユダヤ人やギリシア人にとっては、愚かさと弱さ以外のなにものでもないのです。その神の愚かさと弱さとは人間の知恵よりも賢く、また強いのであるということを、パウロは主張したのです(1:25)。教会はこのような十字架の福音をゆだねられているのです。

(2) メシアの統治的資質としての「思慮と力の霊」

●「思慮と力の霊」は、ヘブル語で「ルーアッハ・エーツァー・ウーゲヴーラー」רוּחַ עֵצָה וּגְבוּרָה)です。これも、王が一国の統治者として国を治めていくときに備えておくべき統治的資質です。「思慮」と訳されたへブル語は「エーツァー」(עֵצָה)で、それは「はかりごと、計画」を意味する語彙です。イェシュアが宣教を開始したときに言われたことばは、「天の御国が近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」でした。イェシュアは天の御国という神のご計画を伝え、教えるために来たのです。

●また、「力」と訳されたヘブル語の「ゲヴーラー」(גְּבוּרָה)は、神のご計画である「御国」がいかなるものであるかを示すための教える力や奇蹟をなす力です。山上の説教をはじめとするさまざまな御国に関する教え、そして、いやしをはじめとする奇蹟などです。立派な計画を立てても、それを実行できなければ、計画倒れになってしまいます。ナザレの人々の驚きは、イェシュアがその力をどこから得たのか分からずに、イェシュアにつまずきました。この「神のご計画、神のはかりごとを実行に移す力、力あるわざ」こそ、「ゲヴーラー」(גְּבוּרָה)なのです。

●イェシュアは神のご計画を実現するために、パリサイ人や律法学者たちとも論争し、人を恐れることなく、勇気をもって、敢然と立ち向かい、神のご計画を実現・達成されたのです。

(3) メシアの霊的資質としての「【主】を恐れる、知識の霊」

●最後に、「【主】を恐れる、知識の霊」は、ヘブル語で「ルーアッハ・ダアット・ヴェイルアット・アドナイ」(רוּחַ דַּעַת וְיִרְאַת יהוה)です。これもメシアが身に着けるべき最も大切な霊的資質です。「恐れ」と「知識」は、いずれも神に対する信頼と神に対する恐れ(畏れ)を意味します。主を知らないことは重大な罪です。なぜなら、メシアが打ち建てる御国においては、「【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちる」のです(イザヤ11:9)。これは神と人とがともに住む御国では最も重要なことです。「知る」は、神のみこころとひとつになることだからです。

●イェシュア・メシアは、だれよりも神を知っておられました。イェシュアは自分と御父との関係を次のように言われました。特に、ヨハネの福音書ではこのことが顕著です。

①「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(1:18)
②「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」(5:19)
③「わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。」(5:30)
④「わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(6:38~40)
⑤「わたしと父とは一つです。」(10:30)

●「主を知ること」は、神と人とのかかわりにおいて、究極的な事柄なのです。

【新改訳2017】イザヤ書 11章9 節
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。
【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。

【新改訳2017】ホセア書 6章3 節
私たちは知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。
主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。

●神を知り、神のみこころをおこなうということほど、高い霊的知識はほかにありません。イェシュアは神のみこころを完全にわきまえ知った方でした。この方と御霊によって、私たちは神を知ることができるのです。預言者エレミヤは言っています(31章)。

「31見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。・・・33わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──」


ベアハリート

●やがて、御国においては、神の民が「みな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになる」ということは、何という希望でしょうか。それは御国が御霊によって支配されているからにほかなりません。「見よ、その時代が来る」のです。大いなる期待をもって、それを待ち望む者となりましょう。また、「待ち望む」のは私たちだけではありません。被造物全体なのです。なぜかといえば、全被造物が滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入ることができるからです。

●いつの時代にも、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」と言う人たちが存在します。ノアの時代の人々も同様でした。主の約束は必ず実現します。ですから、そうした不信仰の声に惑わされてはいけません。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる(アペクデコマイ=「熱心を待ち望む」の意味)人々の救いのために現れてくださいます」(へブル9:28)。キリストの再臨、神のご計画の完成、メシアなる王としての支配、そこに確かな希望を持つことによって、人は今の時を意味あるものとして生きることができると信じます。

2019.10.19


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