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ビルダデのヨブに対する反論(3)

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19. ビルダデのヨブに対する反論(3)とそれに対するヨブの応答

【聖書箇所】25章1節~26章14節

ベレーシート

  • 聖書の中になぜ「ヨブ記」なるものが置かれているのか。その存在価値とは一体何なのか。そのことを今回、25章のビルダデの言葉と、26章のそれに対するヨブの言葉から考えてみたいと思います。
  • ヨブ記25章は最も少ない6節分の章です。ビルダデがヨブに語った辛辣な真理です。しかし、そこには三人の友人たちの結論がまとめられていると見なすことができます。

1. 神の義の普遍的概念と個別化の問題

  • まずビルダデは天における神の主権的支配を語りながら、次のように反問します。

    【新改訳改訂第3版】ヨブ記25章4~6節
    4 人はどうして神の前に正しくありえようか。
    女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか。
    5 ああ、神の目には月さえも輝きがなく、星もきよくない。
    6 ましてうじである人間、虫けらの人の子はなおさらである。

  • ヘブル詩特有のパラレリズムという修辞法による反語的表現が記されています。たとえば、4節は、「人」と「女から生まれた者」とが同義であり、神の前には「正しくあり得ない」「きよくありえない」という意味で語られています。また、4節の「人」と「女から生まれた者」は、6節で、「うじである人間」、および「虫けらの人の子」と言い換えられて、神の目には輝きもきよさもないことがより強調されています。
  • 特に、ビルダデの語った「人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか。」ということばはエリファズも使っています(ヨブ記4:17~19、15:14~16を参照)。
  • 使徒パウロのことばによれば、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(同、3:23)ということばと同義であり、しかも真理です。
  • 25章のビルダデの語ったことばは真理です。しかし、その真理をもってヨブの弁論を封じ込めようとしているのです。この点が実は問題なのです。「正しい」という「義」の概念は、神とイスラエルとが合意の上で結んだ契約に従順であることです。もし、民たちが神との契約に不従順であったとするならば、神ののろいとさばきを招くという内容です。神に従順である限りにおいて、民は神からの祝福を受けることができるという契約です。イスラエルの歴史はそうした歴史観によって記されています。神の義という概念はあくまでも、神とイスラエルの民との間のかかわりの概念です。両者のかかわりの経験の積み重ねを通して、神の義という概念が理解されています。ビルダデの反語的表現「人はどうして神の前に正しくありえようか。」という発言は、人は神の前に義であり得ることはできないという、イスラエルの歴史を通して得られた一つの知恵であり、かつ真理でもあるのです。ですから、その概念から(視点から)、苦しみの問題の所在を理解しているのです。ところが、それがヨブという個人が抱えている状況には通じないのです。

画像の説明

  • すなわち、民族的・全体的・包括的真理が、必ずしも、個人的・個別的真理と同一であるとは言えない、という現実をヨブ記は問題提起しているのだと言えます。
  • ですから、ヨブはビルダデに対して「あなたはだれに対してことばを告げているのか。だれの息があなたから出たのか。」(26:4)と反論しています。つまり、「あなたは自分の言うことを神の真理として語っていると考えているつもりかもしれないが、果たしてそうだろうか」と問い直すように求めているのです。

2. ヨブ記が今日の教会に提起している問題

  • ヨブ記の三人の友人が主張している苦難の見解の問題点は、それが民族的・全体的・包括的には真理であったとしても、個人的・個別的領域においては必ずしも真理ではないことを理解しようとしない点にあります。
  • こうした問題点は、今日のキリスト教会にも考えられることです。全体的には真理であったとしても、それが個別においてもすべて真理であるとは限らないからです。たとえば、人が人生のある時点にいて、イエス・キリストを自分の救い主として信じて洗礼を受けたならば、その人は救われた人とみなす見解です。決して、間違いではありません。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白してあなたは救われるのです。」(ローマ10:9~10)とあるからです。これは全体的・一般的レベルにおいての真理ですが、個別のレベルにおいては、現実的に必ずしも真理とはいえないということです。人が確実に救われているかどうかの最終決定は、だれも分からないというのが真実かもしれません。自分はイエスを信じて、洗礼を受けて、教会の礼拝に参加し、奉仕もしているからといって、必ずしも、その人が客観的に救われているとはいえないのです。神にしか分かりません。また逆に、教会に通いながらも信仰告白をせず、洗礼も受けていなかった人が突然亡くなった場合、その人が救われていなかったと結論づけることもできません。
  • 一般的真理をそのまま自動的に個別に当てはめることの危険性を、私自身、これまでの牧会経験を通して感じさせられています。教会を建て上げる働きは神の主導のもとになされなければなりませんが、ヨブ記に登場する三人の友人のような「物差し」「理解の型紙」によってなすことは容易なのです。真理の個別化は事柄が複雑になり、単純でなくなるために、線を引いたような理解を植え付ける事ができなくなります。神の世界はこうした問題を常にはらんでいるという認識を持つことが重要なことだと考えます。その意味で、ヨブ記を理解することと神を恐れることとは、同義なのかもしれません。



【付記】
●使われている語彙の豊かさは、ヨブ記のもつ文学的価値のひとつです。たとえば、「恐れ」に関する多様な語彙はその一例です。ヨブ記においては、少なくとも、10個の「恐れ」に関する語彙が使われています。
ヨブ記における「恐れ」に関する語彙のチャート

2014. 6.25


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