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ビルダデに対するヨブの反論(2)

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14. ビルダデに対するヨブの反論(2)

【聖書箇所】19章1節~29節

ベレーシート

  • 「神の痛みの神学」という本を書いた北森嘉蔵師は、ヨブ記16~19章がヨブ記の頂点(クライマックス)だと解釈しています。そのクライマックスの中でも16章をドミナントとして扱っています。それとは別に、19章25節の「私は知っている。私を贖う方は生きており、後の日に、ちりの上に立たれることを。」の箇所が、旧約聖書におけるキリスト復活証言と解釈されてきたからです。果たして、その解釈が成り立つのか。また、その箇所が16章19節にある「私の証人」と「私を保証してくださる方」という箇所と、無理なく連動して、統一的なものとして理解できるかどうかです。その鍵は、19章25節の「後の日に、ちりの上に立たれる」と訳されている箇所をどのように解釈するかにかかっているようです。
  • ところで、19章はビルダデに対する反論としてヨブが語っている章です。ヨブは自分に罪がないことを確信しているので、神の方が自分に非道なふるまいをして、自分の周囲に苦難の砦を張り巡らしているのだと訴えています。「それは不法だ」と神に叫んでも答えはなく、救いを求めても正しくさばいてもらえず、理由もなく、神がヨブに対して怒りを燃やし、敵となっているとヨブは感じているのです。

1. ヨブの天幕の回りに陣を敷かれた神

  • ヨブは神が自分の天幕の周囲に陣を敷いておられるのを、自分の近親者たちの態度によって感じています。19章の13~19節はその精神的な苦痛を描写しています。つまり、ヨブの近親者たちのすべて(兄弟たち、知人、親族、親しい友、家に寄留している者、しもべ、妻や身内の者、幼子、親しい仲間、愛していた人々)は、ヨブを「遠ざけ」「離れ行き」「忘れ」「いやがり」「嫌い」「さげすみ」「言い逆らい」「そむく」という仕打ちを与えました。ヨブは近親者のすべてからきらわれ、そむき去られてしまったのです。
  • 特に、20節は不思議な表現です。前半の「私の骨は皮と肉とにくっついてしまい」は理解できたとしても、後半の「私はただ歯の皮だけで逃れた」は難解です。歯には皮がないため、この皮を歯ぐきと考えて、歯ぐきから歯が抜けたと解釈する注解もあります(フランシスコ会訳)。しかし、この節が同義的パラレリズムだと考えるなら、前半の「私の骨は皮と肉とにくっつく」とはすべてのものがはぎとられたという精神的苦痛を意味し(詩篇102:5と同様)、後半の「ただ歯の皮だけで逃れた」もヨブの栄光のすべてがはぎ取られたことを表すと考えられます。事実、友人たちは離れ去り、すべての者に嫌われ、そむき去られてしまったからです。

2. 「私は知っている」(ヤーダティ、יָדַעְתִּי)というフレーズ

  • 満身創痍のヨブ、四面楚歌的状況に立たされているヨブ。本来ならば、かかわりの中にしか生きられないように造られた人間が、完全にそのかかわりを失ってしまったとすれば、それはある意味で「死」です。ヨブはまさにその「死」の中にいると言えます。ところが、そのような状況の中にあっても、ヨブの口から不思議なことばが出て来るのです。

    【新改訳改訂第3版】ヨブ記19章23~24節

    23 ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ、書き物に刻まれればよいのに。
    24 鉄の筆と鉛とによって、いつまでも岩に刻みつけられたい。

  • すでにヨブの最も親しくしていた者たちが背き去って行ったことを強く意識していたヨブは、自分の言葉が書き留められ、碑文として永久に岩に刻み付けられることを願っています。その内容が25~27節に記されていることばです。「私は知っている」(「ヤーダティー」יָדַעְתִּי)というフレーズで始まる有名なことばですが、実は解釈の難解な箇所でもあります。

    【新改訳改訂第3版】ヨブ記19章25~27節

    25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。
    26 私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。
    27 この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。

(1) 「私は知っている」というフレーズ

このフレーズはこれまでに3回あります。その流れを綴ってみましょう。
①9章28節
私は知っています。あなたは、私を罪のない者とはしてくださいません。」・・ヨブの独白的部分において、神が自分を無実とは考えておられないのだという一種の諦観的なことばです。
②13章18節
「今、私は訴えを並べたてる。私が義とされることを私は知っている。」
・・ところが一転して、自分が無実であることを証明されることを確信しています。
③19章25節
私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」・・現実的状況とは逆に、神は決して自分の敵ではなく、「私を贖う方」であるという確信に至ったことばです。

  • 「贖う方」と訳された原語(名詞)は「ゴーエール」(גֹּאֵל)で、動詞「ガーアル」(גָּאַל)の分詞形です。動詞も名詞も、本来、神のトーラーにおける「家族法」(家族福祉法)の領域に属する概念です。経済的に貧しくなり、なんらかの理由で財産を失った者をその近縁者が助けなければならないとする主の定めです。「近縁者」となって、負債を負った者、財産を失った者、病気の者などを、あらゆる困難から救済し、また親族が殺された場合にその者に代わって血の復讐をする者(血讐義務を負う者)を指して「ゴーエール」と言います。近親者的要素の強い語彙と言えます。19章13~19節にヨブが見捨てられた近親者を記しているのは、この「ゴーエール」という意味合いをより強く引き立たせています。
  • ヨブがここで「私を贖う方」が生きていることを告白し、その方に期待しているのは、罪の赦しをもたらす身代わりとしての「ゴーエール(贖い主)」ではありません。自分の無実を弁護し、証明してくれるような「ゴーエール」なのです。この視点は重要です。もし新約で言われるような罪の身代わりとして死なれ、私たちを罪と死から救済してくれるような「ゴーエール」と考えるならば、ヨブ記ではなくなってしまいます。したがって新約での「贖い」の概念は退けられなければなりません。ヨブ記の「私を贖う方」とは、ヨブの無罪を弁護し、ヨブの正しさを証明してくれるような救済的存在なのです。

    וַאֲנִי יָדַעְתִּי גֹּאֲלִי חָי

  • 「私を贖う方は生きておられる」⇒「ゴーアリー・ハーイ」(גֹּאֲלִי חָי)。「生きておられる」(「ハイ」הַי)、つまり、その方は必ず存在するというヨブの確信です。
  • では、その「生きておられる方」とはいったい誰なのでしょうか。ちなみに、16章19節に「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。」という告白があります。19節の方は、同義的パラレリズムによって「私の証人」と「私を保証してくださる方」とは同義であることが分かります。それと連動して、19章25節の「私を贖う方」、これらの三つはすべて同義だと考える事ができます。また、9章33節では神とヨブの間に立つ「仲裁者」がいないとされていますが、19章25節の「私を贖う方」とは、まさに神とヨブの間に立つ「仲裁者」だとも考えられます。しかしその方はヨブ記の中では登場しません。いわばヨブ自身の希求的存在です。それゆえ、この希求的存在をメシア(キリスト)と解することに躊躇する注解者もいます。
  • しかし私の見解は、聖書は常に預言的・啓示的であることから、ヨブ記の作者が聖霊の導きの中でメシア的存在の到来を預言したとも言えます。もしそのように解するならば、次に取り上げる25節後半の解釈にも当然影響してきます。

(2) 「後の日に、ちりの上に立たれる」とはどういう意味か

  • 先ずは、この箇所をいろいろな聖書の訳で見てみることにします。

    וְאַחֲרֹון עַל־עָפָר יָקוּם

    【新改訳】
    後の日に、ちりの上に立たれる。
    【口語訳】
    後の日に彼は必ず地の上に立たされる。
    【新共同訳】
    ついには塵の上に立たれるであろう。
    【中澤訳】
    最後にわたしは塵の上に起き上る。
    【関根訳】
    最後に彼は塵の上に立たれるであろう。
    【バルバロ訳】
    仇打つものはちりの上に立ち上がるのだ・・
    【尾山訳】
    終りの日に、この地上に立たれるということを。

上記の箇所を観察してみると、以下のようになります。

①「後の日」が、「ついには」「最後に」「終わりの日」とも訳されています。原語は「アハローン」(אַחֲרוֹן)で形容詞ですが、この節の主語(「私を贖う方」)にかかる形容詞句と考えるならば、「後に来る者は、最後の者は」という意味にもなり得ます。

②その者が「の上に立つ」とはどういうことでしょう。「塵」(ちり)と訳された「アーファール」(עָפָר)は「地」とも訳されます。しかし、ヨブが語ったことばの中に次のようなことばがあります。「どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか。それはことごとく陰府に落ちた。すべては塵(「アーファール」(עָפָר)の上に横たわっている。」(新共同訳、17章15~16節)。ちなみに、14章13節でヨブは、「どうか、わたしを陰府に隠してください。あなたの怒りがやむときまでわたしを覆い隠してください。しかし、時を定めてください。わたしを思い起こす時を」(新共同訳)という希望を述べています。しかし「陰府」はすべての希望が絶たれるところです。それゆえ、同義的並行法によって(17:15~16)「陰府」を「塵」と考えるならば、「塵の上に立つ」とは、神以外には考えられない常識を超えた行動と言えます。

③「立たれる、立ち上る、起き上がる」と訳されたヘブル動詞は、単に「立つ」という意味の「アーマド」(עָמַד)ではなく、「クーム」(קוּם)という動詞が使われています。「クーム」はギリシア語の「アニステーミ」(ανιστημι)として訳される動詞であり、十分に死からのよみがえりを予感させる動詞だと言えます。


3. ヨブの絶え入るばかりの思い

  • 19章26~27節に目を移したいと思います。

    【新改訳改訂第3版】
    26 私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。
    27 この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。
    【新共同訳】
    26 この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。
    27 このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る
    【口語訳】
    26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、/わたしは肉を離れて神を見るであろう。
    27 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。
    【バルバロ訳】
    26 皮膚がこのようにきれぎれになっても、私はこの肉でながめるだろう。
    27 ああ、幸せな私よ、この私自身が、他人ではなく私自身の目で見るだろう。腎は絶えなんばかりにあこがれる。
    【尾山訳】
    26 死んだあとだけでなく、この苦しみの中で神とお会いする。
    27 私自身この目で神とお会いする。私のうちにある思いは、私のうちでこれを慕い求めてやまない。

  • この箇所を観察すると、そこには絶え入るばかりのヨブの内なる思い、つまり、ヨブが心から慕い求めてやまない事柄が記されていることが分かります。その内容は、ヨブが自分自身の目で「私を贖う方」、すなわち「神」を見ることです。
  • 神を「見る」ということばが二度も記されています。いずれも「ハーザー」(חָזָה)という動詞です。「ハーザー」は「見る、目を注ぐ、注視する、預言する、仰ぎ見る」と訳され、霊的な目で実際に見ることを意味します。それは多くの人たちには隠されています。特別に霊の目が開かれた人だけが、あるいは、特別に神に引き上げられた人だけがそれを見ることができるのです。ですからヨブは「自分自身の目で神を見る」ことを、ことのほか幸いだと思っているのです。ちなみに、バルバロ訳は27節で「ああ、幸せな私よ」と訳しています。
  • 「神を見る」その時の状況は訳によってさまざまです。それは「アハル」(אַחַר)というヘブル語が「うしろに」「あとに」と訳される場合もあれば、その元になっている動詞の「アーハル」には「とどまる、ためらう」という意味があるためです。大きく、「後派」と「継続・保持派」の解釈に分かれます。新改訳は「私の皮が、このようにはぎ取られた、・・神を見る。」とあるようにヨブが死んだ後にというニュアンスです。しかし新共同訳は「この皮膚が損なわれようとも・・わたしは神を仰ぎ見るであろう」とあり、今の苦しみの状態の中にあってもというニュアンスです。尾山訳は、その両方の解釈を含んだ訳となっています。
  • このことは同時に、26節後半の「肉」(「バーサール」בָּשָר)とのかかわりにも影響してきます。つまり、神を見るのは、「肉を離れて」なのか、あるいは「肉のままで」(=肉から)なのかという具合にです。しかしながら、原語の前置詞「ミン」(מִן)は、どちらにも解釈が可能なのです。

最後に

  • さて、ヨブの「私は知っている」(19章25節)というフレーズは、きわめて重要だと考えます。というのは、この「知る」というのは、伝統的な、智恵文学的な範疇の「知」ではないからです。むしろ、それを越えた神の知恵としての「知」だと考えられます。とすれば、19章25節は、やがて来られて地の上によみがえられるメシアを預言していると結論付けることが可能です。この方こそ、真に、ヨブの問題を解決することのできる唯一の希望です。神の御座において、天の法廷において、サタンの執拗な訴えがなされたとしても、キリストとその血潮を信じるすべての者にとって、「罪なき者」として神の法廷で弁護してくださる永遠の「贖い主」です。もし、ヨブ記のクライマックスと言われるこの部分でイェシュアのことがあかしされていないという立場を取るならば、その解釈は正しい解釈とは言えません。なぜなら聖書は、イェシュアがメシアであることを証言している書だからです。ヨブ記とて決して例外ではないのです。



    2014.6.14


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