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ツォファルに対するヨブの反論(2)

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16. ツォファルに対するヨブの反論(2)

【聖書箇所】21章1節~34節

ベレーシート

  • ヨブ記(全42章)の丁度半分の所に来ました。ヨブ記が難解なのは、そこに記されている詩文の表現の慣れない多さに圧倒されて、惑わされてしまうからだと思います。しかし、語られている内容のポイントがひとたび分かると、ヨブ記は楽しくなっていきます。
  • ツォファルに対する反論を始める前に、ヨブは友人たちに、自分の苦悩を理解してくれることを求めています。つまり、ヨブにとっての慰めは「傾聴」なのです。黙ってヨブの苦悩を聞いて、受け留めてくれることで十分だったのです。ところが、友人たちはヨブを一貫して「悪者」として決めつけ、因果応報論によってヨブを断罪したのです。その因果応報論に対してヨブは口を開きます。結論を先に言うならば、34節の「どうしてあなたがたは、私を慰めようとするのか。むだなことだ。」と。それを証拠立てるために語った内容が21章です。「むだなこと」、つまり「ヘヴェル」(הֶבֶל)だということです。「ヘヴェル」(הֶבֶל)は「空々しい」「むなしい」「空虚」「いたずらに」という意味で、ヨブ記では5回使われています(7:16/9:26/21:34/27:12/35:16)。うち4回はヨブの発言の中で使われていますが、最後の箇所(35:16)ではエリフがヨブに対して、ヨブこそ空しく口数を増していたずらに自分の言い分を述べ立てていると非難しています。不毛な議論の応酬かもしれませんが、そのやり取りの中に実は大切な事が示唆されているのかもしれません。

1. 悪者が繁栄している現実をどう受けとめるのか

  • 20章5節でツォファルが述べた「悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみはつかのまだ」とする見解に対して、ヨブは、では「なぜ悪者どもが生きながらえ、年をとっても、なお力を増すのか」と悪者が繁栄している現実を例にあげて反論します(21:7~15)。現実の世界を客観的に見るならば、不幸やわざわいを味わわない悪人は数多くいるということ。そして、必ずしも悪人が正当に罰せられているとは限らないということを訴えています。生涯を楽しんで死ぬ者がいる一方で、生涯を苦悩を背負って過ごす者もいる。そこには必ずしも正当な報酬を受けているとは考えられないとヨブは主張します。ヨブはこのことを、身を震わせながら語っているのです(21:6)。なぜなら、ヨブの友人たちは結束して「因果応報論」(悪因悪果論)でヨブを悪者に仕立て上げようとしているからです。

2. いくつかの難解な箇所

  • 21章には聖書によっては全く逆に訳されている箇所があります。どうしてそのような訳になるのか不思議です。16節、および17節の真意が何かを考えてみたいと思います。

    (1) 16節
    【新改訳改訂第3版】
    見よ。彼らの繁栄はその手の中にない。悪者のはかりごとは、私と何の関係もない。
    【口語訳】
    見よ、彼らの繁栄は彼らの手にあるではないか。悪人の計りごとは、わたしの遠く及ぶ所でない。
    【新共同訳】
    だが、彼らは財産を手にしているではないか。神に逆らう者の考えはわたしから遠い。

    「繁栄」「財産」と訳されている原語は「トーヴ」(טוֹב)で、「幸い」とも訳される語彙です。新改訳は、原文に忠実に「彼らの繁栄はその手の中にない。」と訳しています。ところが、口語訳は「彼らの繁栄は彼らの手の中にあるではないか。」と訳されています。新共同訳は口語訳、および、関根訳、中澤訳とも同様な訳になっています。この矛盾をどう理解すべきでしょうか。
    後半の「悪者のはかりごと」(新改訳)「悪人の計りごと」(口語訳)「神に逆らう者の考え」(新共同訳)とは何でしょう。それは、14~15節でも分かるように、神とは全く異なる価値観に生きている者の考え方です。それは、申命記8章17節に記されているように、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」とする考え方です。そうした考え方は、ヨブとは全く何の関係もないという意味でみな一様に訳しています。
    では前の部分に戻って、なぜ逆の意味に訳されているのかについて考えると、一見矛盾と思えるのは、「繁栄」に対する視点の違いにあると考えられます。口語訳、新共同訳の場合には「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」とする考え方が彼らの中にあるという視点で訳されているように思います。その意味では「彼らの繁栄は彼らの手にある」と言えるのです。しかし、新改訳の場合には、繁栄は自分たちの力で来たらせたり、去らせたりすることができない神の主権の中にあるという視点で訳されており、その意味では「彼らの繁栄は彼らの手の中にない」とも言えるのです。こうした視点の違いが、真逆の訳となっているのだと考えられます。


    (2) 17節
    【新改訳改訂第3版】
    幾たび、悪者のともしびが消え、わざわいが彼らの上に下り、神が怒って彼らに滅びを分け与えることか。
    【口語訳】
    悪人のともしびの消されること、/幾たびあるか。その災の彼らの上に臨むこと、/神がその怒りをもって苦しみを与えられること、/幾たびあるか
    【新共同訳】
    神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い/神が怒って破滅を下したことが何度あろうか

    17節で注目したいことは、「幾たび」「何度」(「カンマー」כַּמָּה)ということばのニュアンスです。いずれも反語的強調として使われていることは明らかですが、口語訳はそれをより明確に「幾たびあるか」ということばを二度も重ねることで、それは幾たびもあることではないことを強調しています。その点、新改訳はいささか不明瞭な感じがします。ちなみに、原文では1回です。
    17節で、ヨブは三人の因果応報論を一応は認めているものの、それは何度も起こる事ではないとして、あたかもそれが真理(定理)であるかのように扱うのは間違っていると主張しているのです。


2014.6.18


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