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イザヤ書における信頼用語

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補完No.6. イザヤ書における信頼用語

【聖書箇所】10章20節

ベレーシート

  • イザヤ書ではじめて出会った信頼用語―「シャーアン」(שָׁעַן)に注目した瞑想をしたいと思います。

【新改訳2017】イザヤ書 10章20節
その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、【主】に真実をもって頼る


1. 信頼用語としての「シャーアン」(שָׁעַן)

  • 「頼る」と訳された動詞は信頼用語の「シャーアン」(שָׁעַן)です。この動詞は詩篇では一度も使われていないために、私がイザヤ書を瞑想するまでこの動詞を知りませんでした。しかし今回、初めて「シャーアン」(שָׁעַן)という動詞に出会いました。旧約で22回使われていますが、イザヤ書では5回(10:20, 20/30:12/31:1/50:10)のみです。しかもイザヤ書で初めて使われている箇所が10章20節です。しかも2回。
  • ちなみに、ヘブル語で「信頼する、拠り頼む」ことを表わす重要な動詞は「バータハ」(בָּטַח)で、旧約で120回。詩篇では46回、イザヤ書でも20回使われています。「シャーアン」(שָׁעַן)に比べると、圧倒的に「バータハ」(בָּטַח)の方が多く使われています。
  • イザヤ書におけるキーワードは「神への信頼」です。イザヤ書30章12節、31章1節および50章10節には、以下のように、「バータハ」(בָּטַח)と「シャーアン」(שָׁעַן)がペアで用いられており、意味が強調(補強)されています。

(1) 【新改訳2017】イザヤ書30章12節
それゆえ、イスラエルの聖なる方はこう言われる。「あなたがたは、わたしの言うことを退けて、虐げと悪巧みに拠り頼み(בָּטַח)、これに頼った (שָׁעַן)。」


(2) 【新改訳2017】イザヤ書31章1節
ああ、助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬に頼り(שָׁעַן)、数が多いといって戦車に、非常に強いといって騎兵に拠り頼み(בָּטַח)、イスラエルの聖なる方に目を向けず、【主】を求めない。


(3) 【新改訳2017】イザヤ書50章10節
あなたがたのうちで【主】を恐れ、主のしもべの声に聞き従うのはだれか。闇の中を歩くのに光を持たない人は、【主】の御名に信頼し(「バ―タハ」בָּטַח)、自分の神に拠り頼め(「シャーアン」שָׁעַן)。


2.「シャーアン」(שָׁעַן)の初出箇所から見えてくること

  • 「シャーアン」(שָׁעַן)の初出箇所である創世記18章4節を見てみましょう。

【新改訳2017】創世記18章1~4節
1 【主】は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた。彼は、日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた。
2 彼が目を上げて見ると、なんと、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏した。
3 彼は言った。「主よ。もしもよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。
4 水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。

  • アブラハムのもとに、三人の者が訪ねてきました。そのうちの一人は主ご自身でした。アブラハムは彼らを迎え、もてなそうとします。そして4節に「水を少しばかり持って来させますから、足を洗って、この木の下でお休みください。」とあります。「お休みください」という部分に「シャーアン」(שָׁעַן)が使われています。しかし、その前にある「(足を)洗う」と訳されている「ラーハツ」(רָחַץ)も、実は信頼を含んだ用語なのです。
    画像の説明
    ヘブル語大辞典には「洗う」という意味しかありませんが、日本コンピューター聖書研究会から出されているHebrewソフトでは、「ラーハツ」(רָחַץ)が「信頼する」と表記されています。
  • 果たして、本当に「ラーハツ」(רָחַץ)には「信頼する」という意味があるのでしょうか。実は、旅人の足を洗うというヘブル的なもてなし(歓迎)の行為の中に信頼する心が示されているのです。「足を洗う」という行為自体が相手を信頼しなければできないことですし、また洗われる側も自分が信頼されていると知らされるのです。つまり、信頼がなければ、「足を洗う」という歓迎はあり得ないのです。
  • イェシュアがパリサイ人シモンの家に食事に招かれた話があります(ルカ7:36)。その食卓にひとりの罪深い女が香油のはいった石膏の壺を持って入って来ました。そして泣きながら、その涙でイェシュアの足をぬらし、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして、香油を塗りました。シモンはそれを見ながら、「イェシュアが預言者であるなら、自分にさわっている女がだれで、どんな女かを知っているはずだ。」と心で思っていたのです。そのとき、イェシュアはあるたとえ話をしたあと、「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。・・」(2017)とシモンに言われました。
    ここに対照的なもてなしがあります。シモンには自分の家に招いたイェシュアに対して真の信頼の気持ちはありませんでしたが、女はイェシュアを信頼して、最高のもてなしをしたのです。そのしるしが足を「洗う」ということでした。
  • イェシュアが十字架につけられる前の晩に、弟子たちとの最後の晩餐がなされました。そのとき、イェシュアは弟子たちの足を洗いました。そしてその意味することは今はわからないが、あとで分かるようになると言われました。そして、「わたしがあなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです。」と語られました。その洗足の真意は、互いに相手を「信頼しなさい」ということだったのではと考えられます。「洗い合う」を「愛し合う」と理解しても良いでしょう。
  • 創世記18章にみるアブラハムのもてなしの行為の中の、相手を信頼する行為として「足を洗う(רָחַץ)」こと、そして木の下で「休ませる(שָׁעַן)」こと。この二つの語彙の中に「信頼」が強調されているのです。
  • イザヤ書10章に戻って、20節を再度味わってみると、「その日になると」(イザヤの特徴的な表現)、つまり神のご計画が実現する暁には、イスラエルの「残りの者」が、真に頼るべきお方に、真実をもって「頼る」(שָׁעַןの受動態ニファル態で「寄りかかる」)ようになることが預言されているのです。しかもそれは絶対的な信頼を意味しているのです。ただし、その者たちは「残りの者」だけです。壊滅は定められているのです。

【新改訳2017】イザヤ書 10章20~23節
20その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、【主】に真実をもって頼る。
21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
22 たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。
23 すでに定められた全滅を、万軍の【神】、主は、全地のただ中で起こそうとしておられる。


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2018.2.27


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