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アリエル(エルサレム)の運命

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20. アリエル(エルサレム)の運命

【聖書箇所】29章1~24節

ベレーシート

  • 1節の冒頭に「アリエル、アリエル、ダビデが陣を敷いた都」という表現があります。「ダビデが陣を敷いた都」と言えば、エルサレムのことです。「シオン」もエルサレムの雅名です。
  • すでに何度も使われていますが、1節の「ああ」と訳された間投詞の「ホーイ」(הוֹי)は、励ます意味での「ああ」、あるいは「さあ」と訳される(イザヤ55:1「ああ、渇いている者派みな・・」)以外は、ほとんど悲嘆の声を表わします。旧約では51回。イザヤ書ではそのうちの21回と最も多く使われています。ちなみに次はエレミヤ書の11回です。神の悲しみ、悲嘆な声を「ああ」(新改訳)、「あわれ」(中澤訳)、「災いなるかな」(関根訳)、「災いだ」(新共同訳、フランシスコ会訳)と訳しています。

1. アリエルに対する神のさばきと救いの預言(1~8節)

  • 「アリエル」ーאֲרִיאֵל「アリーエール」は英雄を意味する「神の獅子(ライオン)」という意味でもあり、また「祭壇の炉」という意味もあり、年が巡るたびに神を礼拝するために人々が集まる祭りの場であります。そこにはいけにえをささげる祭壇があり、その「アリエル」がアッシリヤ軍によって包囲され、敗北の恐怖が語られています。神がそれを引き起こすのです。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書29章2~4節
2 わたしはアリエルをしいたげるので、そこにはうめきと嘆きが起こり、そこはわたしにとっては祭壇の炉のようになる。
3 わたしは、あなたの回りに陣を敷き、あなたを前哨部隊で囲み、あなたに対して塁を築く
4 あなたは倒れて、地の中から語りかけるが、あなたの言うことは、ちりで打ち消される。あなたが地の中から出す声は、死人の霊の声のようになり、あなたの言うことは、ちりの中からのささやきのようになる。

  • そこには「うめきと嘆きが起こる」とあるように、「うめき」(「タアニツヤー」תַּאֲנִיָּה)と「嘆き」(「アニッヤー」אֲנִיָּה)は同じ語彙が重ねられており、最高度の悲しみを表わす表現となっています。
  • ところが、5~8節ではエルサレムを包囲しているアッシリヤ軍が突然に敗北するという逆転劇となっています。この一連の出来事はイザヤ書36~37章では散文によって記述されています。これはB.C.701年の奇蹟的な出来事です。すでにアッシリヤの王セナケレリブは部下の三人の将軍を遣わし、ユダの町々を攻め落していましが、ただエルサレムの町だけが生き残っていたのです。アッシリヤはエルサレムの回りに「陣を敷き」「取り囲み」「塁を築いた」のです。まさに三段重ねの包囲網です。だれ一人として出ることは不可能です。毎年、祝いの祭りで集まる人々の喜びに満ちた声が、今や死人の家の住処のようになってしまいました。ところが突然、光景が一変します。敵が一瞬にして崩壊したのです。これは奇蹟中の奇蹟とも言えます。
  • これらの出来事において、エルサレムの包囲も、そして突然の意外な解放もすべて神の主権によるものであることを語っています。これはやがて終末におけるキリスト再臨の時の場景でもあります。アリエルに戦いを挑むアッシリヤとそれらに隷属する国々の民が、一瞬にして滅びたように、これは、やがてキリストの再臨によって反キリストの軍勢が滅びる型でもあるのです。

2. アリエルに災いをもたらした原因(9~16節)

(1) 霊的な麻痺、封印による盲目

  • 9~16節は、エルサレムに災いをもたらすこととなった原因が記されています。その真の原因は神への不信によって、まことの神ではなく、エジプトに助けを求めたからです。そのために霊の目が完全に塞がれてしまいました。封印されているので、書かれていることが理解できないということです。このことは今日のクリスチャンたちにも当てはまります。神への不信は神のみことばの真理を理解することができません。封印されているからです。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書29章9~10節
9 のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。
10 【主】が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。

  • 9節の「のろくなれ。驚け。」という部分を、中澤洽樹氏は「腰をぬかすほど驚け」と訳しています。霊的な目が見えなくなるとことは「腰を抜かすほどの驚き」、大変な事態に陥ったのだということを表わそうとしています。神のことばを与る預言者たちに睡魔が襲って目が塞がれること、先見者たちの頭が麻痺状態になってしまうことは、命取りになるほどの驚くべき事態なのです。神のことばに対して心を閉ざし、無視し、拒み続けた結果、「深い眠りの霊」が注がれて神のことばが封じられてしまうことは、真の救いを見失うという恐ろしい結果を招くのです。
  • イザヤが預言者としての召命を受けたとき、人々は神のことばを聞けば聞くほどいよいよ心をかたくなにし、耳と目を閉ざすであろうと言われたことが、事実その通りになりました。そのイザヤの嘆きが9~10節のことばです。

(2) 形式的な礼拝

  • 目が塞がれてみことばが封印されることは、礼拝が形式的になることにあらわされます。そのことをイェシュアもイザヤ書29章13~14節を引用して語っています。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書15章8~9節
8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

(3) 物事を逆さまに考える

  • さらに、形式的な礼拝は自分のはかりごとを主に隠すようになります。そして、「だれが私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう。」と言ってやみの中で事を行うようになるのです。具体的には、ここではエジプトに拠り頼んで政治的交渉をしようとする陰謀者たちのことを言っています。エジプトとの同盟はイザヤの忠告を無視したばかりが、その計画を秘密裏に行なおうとしました。しかもそれを神の目から隠すことができると考えていました。そんな彼らに対して主は、「ああ、あなたがたは、物を逆さに考えている」と糾弾しています。これは粘土が陶器師に向かって、「あなたは信用できない」と言っているようなものです。神の助言を拒絶して、自分の思いや考えで国の将来を導こうとしたことは、神の民としては逆さまなのです。

3. 「その日」-将来の栄光の祝福(17~24節)

  • イザヤ書で「見よ」とか、「その日」という語彙が出て来る場合は、終末的な出来事、つまりメシア王国(千年王国)において実現する神の民の回復がその内容であると理解することが大切です。その回復をまとめると、以下のようになります。

① 耳が聞こえなかった者が、書物のことばを聞くようなる。
② 盲人の目が開かれる。
③ へりくだる者は主によって喜ぶようになる。
④ 貧しい人は主によって楽しむようになる。
⑤ 横暴な者はいなくなる。

  • 主はヤコブの家の祝福について、以下のように約束しておられます。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書29章22~24節
    22・・・「今からは、ヤコブは恥を見ることがない。今からは、顔色を失うことがない。
    23 彼が自分の子らを見、自分たちの中で、わたしの手のわざを見るとき、彼らはわたしの名を聖とし、ヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れるからだ。
    24 心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶ。」


    「自分たちの子ら」とは、第一義的にはヤコブの直系の子孫(イスラエル)と考えるべきです。置換神学によってそのことが長い間打ち消されてきました。しかし今やそうした置換神学は聖書的ではないことが明白です。聖書のことばを文字通りに理解しつつ、その上で霊的な子孫である私たち異邦人がキリスト(メシア)を通して接ぎ木されたと考えるべきです。そのことは使徒パウロがローマ書9~11章で教えようとしていることです。
    ヤコブの子孫は、主がなされる御手のわざを見ることで、「わたしの名を聖とする」ようになることが預言されています。それは彼らが神を恐れるようになるからです。その「恐れ」は、神を神としてあがめることであり、畏敬の意味での「恐れ」であることは言うまでもありません。
    メシア王国においては、主のおしえを自ら進んで学び、それを受け入れるようになることが預言されています。


2014.9.3


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