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「自分の罪のゆえに、長寿を全うできなかったヤコブ」

自分の罪のゆえに、長寿を全うできなかったヤコブ


はじめに

  • ヤコブの生涯は147歳でした。なんと長生きなのかと思うかもしれません。ところが、147歳は決して長寿ではないのです。ヤコブの父イサクとその父アブラハムの年齢を見てみましょう。
    父イサクは180歳、その父、つまりヤコブから見ると祖父は何と175歳です。イサクもアブラハムもどちらも、聖書には「平安な老年を迎え、長寿を全うして生き絶えて死んだ。」と記されています。それに対してヤコブの場合はどう記されているでしょうか。
年齢の比較
  • ヤコブの最期はどうであっと聖書は記しているでしょうか。ヤコブの最期は床に寝たままで病気の状態でした。彼は力をふりしぼって床に座ったとあります。ヨセフと会い、ヨセフの息子たちを祝福しました。そしてその後、ヤコブは他の息子たちを呼び寄せて、ひとりひとりを祝福したあと、自分を祖父が買った墓地に入れて欲しいと命じてから、「足を床の中に入れ、息絶えた」とあります。祖父のアブラハムや父イサクのように長寿を全うすることはありませんでしたが、臨終の際には、息子たちに看取られて祝福の中にその生涯を閉じました。「足を床の中に入れ、息絶えた」(48:33)とありますが、それは神から与えられた信仰の旅路において、ヤコブに託された使命を全うしたことを伺わせます。
  • 死に至るまでの17年間は愛する息子のヨセフの近くで生き、ヨセフによって養われたので、物質的な不自由さはありませんでしたが、その生涯の多くは父イサクのような平安な生活をすることはありませんでした。なぜなら、ヤコブの生涯は、常にストレスに満ちた生活をして来たからです。そのストレスに満ちた生涯を概観してみることにします。

(1) 家を出ることを余儀なくされた

  • 彼は長子の権利を得るために、父と兄をだましてそれを手に入れました。しかしそのことで、ヤコブは家に居られなくなり、家を出るはめになります。彼は母リベカの伯父のラバンのところに向けて出発し、はじめて自分ひとりの不安と怖れに満ちた旅を経験します。

(2) 伯父のラバンに騙された

  • やがてラバンのところに行くと、その娘のラケルに恋をし、結婚したさに7年間無償で働いて、いよいよ結婚しようする段になって、ラバンにだまされます。だましたヤコブが、皮肉にも、まんまと伯父のラバンにだまされるのです。ヤコブははじめてだまされる経験をしたのです。ヤコフは騙されて、ラケルの姉であるレアとかかわりをもたせられてしまいます。ヤコブはいつ週間後にラケルも自分の妻として娶ることが赦されましたが、そのためにさらに7年間、無償で働くことを余儀なくされます。

(3) 安息のない、争いに満ちた家庭

  • ヤコブの正妻が二人、それぞれの正妻のはしためが二人、つまり、四人の女性を妻にもち、そこから多くの息子たちが生まれますが、それはそれで、家庭内には妻たちの夫の愛を巡ってのバトルが(妬みや争い)展開します。心休まる家庭とは到底言えないような環境の中にはからずも身を置く羽目になります。
  • また、家族を養うために、家長として、それなりの仕事をしなければなりませんでした。家長として、父親として、その責任を果たさなければならないというストレスは絶えることがありませんでした。
  • また、その日暮らしだけのためだけでなく、将来に備えて自分の知恵を用いて、自分の財を築かなければという不安もありました。そのために、ヤコブは伯父をだまして、自分の財を築くしかありませんでした。なぜなら、伯父のラバンはヤコブを自分の好きなように仕える奴隷と同程度に考えていたからです。ヤコブに優れた知恵と知識が与えられていましたが、それは自分の財を築くためのものとして使いました。それはそれなりに成功したのです。しかしそれは同時に、ラバンとその息子たちの大きな不信を買い、安心してそこに入ることができなくなってきました。人とのかかわりの悪化は強いストレスとなります。

(4) 自分の財を築くために伯父のラバンを騙す

  • ヤコブが財を築くためには、人(ここでは伯父)を欺くことなしには成し得なかったのです。ここには大きなストレス、緊張の連続があったと思います。やがて、その伯父のところから自分の故郷へと帰るのですが、そこにはかつて騙した兄のエサウがいます。

(5) 兄エサウとの再会を契機に「恐れ」にとらわれるヤコブ

  • どうしてもその兄に会わなければなりません。「かかわりの恐れ」です。その恐れがヤコブの中にふくれあがって来ます。そのために兄への贈り物を用意したり、いろいろな画策もするのですが、兄が自分に対して報復するかもしれないという恐れの霊に縛られてどうすることもできなくなります。実際はヤコフでの一人相撲だったのですが、自分が犯した罪のゆえに、恐れを取り払うことができなかったのです。そのストレスがヤコブの中に最高潮に達したとき、神の取り扱いを経験するのです。もものつがいをはずされたヤコブは、「なんとしても、私を祝福してください」と切実に訴えます。その訴えに神は聞かれ、ヤコブを祝福されました。具体的には、「あなたの名は、もうヤコブとは言われない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」と言われますが、その意味するところは、自分の弱さを認めて、神の祝福をどこまでも求めることにおいて、神を動かしたという意味です。ここでの「人」というのは御使いことだと思います。あるいは、「人」を「自分」に置き換えると、「あなたは自分に勝った」ということなります。つまり、びっこになった自分の弱さを認めることで神の助けを真に求めるようになったことで、あなたは戦いに勝ったのだ、祝福を求めることにおいて勝利した」という意味です。
  • 「恐れ」を持つということは大変なストレスを抱えることになります。同時に、それを取り扱われるときにも、ある意味で、ストレスがかかるのです。「恐れ」に対する真の勝利を得るためには、神を信頼して神により頼むことがなければストレスから解放されることはないのです。それまでの自分でなんとか切り抜けようとする生き方では、恐れから解放されるばかりか、ますますその恐れに押しつぶされてしまうのです。ヤコブはここではじめて安息を得る光を見出したと言えます。とは言え、日々の歩みの中には絶えずこの「恐れ」がやってきます。しかし、そこから抜け出す道を、抜け出す光をヤコブは経験したのです。

(6) 息子たちの悪行に対する無力さ

  • さて、自分のうちにある「恐れ」の問題が落ち着くと、今度は息子たちのしでかす悪行に大変に悩まされます。もうどうして良いのか、どう処理してよいのか、自分でもわからなくなってしまったほどでした。

(7) 最愛の妻ラケルと最愛の息子ヨセフの死

  • その後、ヤコブがベテルに戻ってからのこと。自分がとても大切にしていた息子のヨセフがその兄たちの妬みによってエジプトに売られるという出来事が起こります。父ヤコブにはヨセフは死んだと報告され、ヤコブは生きる意欲を失ってしまうのです。愛する者を失うということはかなりのストレスです。すでにヤコブは故郷に帰る途中で最愛の妻ラケルを失っています。配偶者を失うことはストレスの中でも最高度のストレス、100%のストレスを抱えると言われています。ですから、その上、不妊の妻ラケルが産んだ最愛の子ヨセフを失ったことも、ヤコブにとっては相当のストレスだったのです。
  • しかし、人生の最後の17年間は、比較的穏やかに過ごしますが、最期は病気で亡くなるのです。ですから、父や祖父のように「平安な老年を迎え、長寿を全うして生き絶えて死んだ」という訳には行きませんでした。ヤコブにはアブラハムやイサクにはない特別な領域がありました。それは自分の罪が神によって取り扱われるという経験です。


  • ヤコブの人生のストレスはどこから来たのか。愛する者との死別を別にすれば、それは彼の罪からです。
    自己中心的な心、自分にない物をなんとしても欲しいと思う心、そこから、人を騙し、出し抜いて、それを得るという生き方をずっとしてきたのです。それゆえに、自分が大切にしているものが失われた時、生きる力をも失ってしまうようなことが起ったのです。神はヤコブの深い所にある問題を取り扱おうとされたのです。
  • ヤコフの問題は私たちの中にもあります。ヤコブの神は、神のご計画を実現するために、私たちの問題を取り扱われる神です。決して、私たちを投げ捨てたりはしませんが、私たちのうちある自分の罪に気づかせ、そこから解放しようと取り扱われるのです。ですから、それを取り扱われるときに、私たちの側では痛みやストレスを経験するのです。神のご計画のために召された者であるならば、このストレスから免れるということはありませんが、このストレスを乗り越えるためには、自分の力や知恵に頼ることなく、神を信頼して、ゆだねるということを学ばなければならないのです。ヤコブはそのことを学んだ模範なのです。

2011.11.13


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