****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「終わりの日」の幻

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2. 「終わりの日」の主の山の幻

【聖書箇所】2章1~22節

ベレーシート

  • 2章は、1節にあるように「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば」が記されています。2~4節のことばは、ミカ書4章1~3節と全く同じです。これはどう理解すべきでしょうか。預言者ミカはイザヤと同時代に活躍した預言者ですが、イザヤと異なる点はイザヤが「ユダとエルサレムについて示された」のに対して、ミカの幻は「サマリヤとエルサレムについて見た」ものだということです(ミカ1:1)。おそらく、啓示のことばが預言者集団(預言者の共同体)の中で、共有されていたものかもしれません。つまり、預言者たち共通の幻だったと言えます。「終わりの日」に起こる(実現する)幻をしっかりと理解し、受け止める必要があります。
  • 今日の新しい聖書理解において重要なことは、聖書のあらゆる箇所が、常に、神のご計画の全体的・鳥瞰的視点から読み解かれる必要があるということです。これまでの置換神学ではそれは不可能です。なぜなら、その必要がないからです。聖書をありのままに読むならば、神のイスラエルの民に対するご計画もありのままに受け入れられなければなりません。これがユダヤ的・ヘブル的視点から聖書を読むということでもあります。どんなに熱っぽく聖書を語ったとしても、その人が聖書全体を学んで語っているかどうか、分かる人には分かる時代が来ているのです。特に、メシア(キリスト)の再臨前後についての知識は必修科目ということになります。その知識がなければ、神の約束の実現を明確に描くことができないだけでなく、これまでのように、聖書とは異なる別のイメージをおのずと描いてしまうことになります。特に、俗に言う「天国」がそうです。日本人のクリスチャンの多くが、聖書の教えている「天国」(神の支配する御国)を正しく描けず、聖書とは非なるイメージをもっていることに気づかずにいるのです。

1. 「終わりの日」の幻

【新改訳改訂第3版】イザヤ書2章2~5節
2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも【主】の光に歩もう。

  • この箇所は繰り返し何度も味わうべき箇所です。というのは、イェシュアをメシアと信じる者たちのすべてが、この「終わりの日」が実現する時代に生きることになるからです。ある者はよみがえって、ある者たちは反キリストの支配する大患難を潜り抜けて、メシア王国(千年王国)の祝福にあずかることになるからです。

(1) 「終わりの日」とは

  • イザヤ書2章には、「日」に関する語彙が多く見られます。

    ①2節「終わりの日」(「アハリート・ハッヤーミーム」、אַחֲרִית הַיָּמִים)
    ② 11, 17, 20節「その日」(「ヨーム・ハフー」יּוֹם הַהוּא)
    ③12節「万軍の主の日」(「ヨーム・ラドナイ・ツェヴァーオート」
    (יּוֹם לַיהוה צְבָאוֹת)

  • これらの「日」は表現が異なりますが、すべて同義です。つまり2章に語られていることは、メシアの再臨に起こる光景が連動する事を意味しています。

(2) 「主の家の山は、山々の頂に堅く立ち」とは

  • イザヤ書2章2節にある、「【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々が流れて来る」とはどういうことでしょうか。二つの意味合いがあります。ひとつは字義どおりの意味、もうひとつは比喩的な意味です。前者の字義通りに解釈するなら、主の家の山、すなわちエルサレムは地形的激変によって最も高い山になるからです。つまり未曾有の大地震が起こるからです。ヨハネの黙示録16章18節には「この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震」だと記されています。この地震によってオリーブ山が南北に裂け、中央に、東西に延びる非常に大きな谷ができます。ゼカリヤ書14章4節にこう記されています。「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」と。エルサレム周辺の地形は山地です。この地震の変動でエルサレムはそれが南北に裂かれた北側に位置するようになり、他の山よりも高くなるということです。南の方から見ると、「北の端なるシオンの山」のように見えるということです。
  • 後者の(比喩的な)意味での「【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち」とは、霊的な意味においてそうなるのです。つまりエルサレムがメシアの支配(統治)における中心的な場所となるからです。事実、王であるメシアを礼拝するために世界中の国々から人々が流れるようにして集まって来るのです。その意味において「そびえ立つ」ようになるのです。
  • 「堅く立つ」と訳されたヘブル語は「クーン」(כּוּן)の受動態動詞で、予め定められていたことが実現して確立することを意味しています。また「そびえ立つ」と訳されたヘブル語は「ナーサー」(נָשָׂא)の受動分詞で「高く上げられる」ことを意味します。
  • イザヤ書2章3節の「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう」の「上る」(「アーラー」עָלָה)ということばも、エルサレムが世界の中心となることを示唆しています。

(3) 主のみおしえが流れ出る

  • 回復されたエルサレムに敬意を払い、主を礼拝するためにやって来る諸国の民を、エルサレムは迎え入れます。そしてそこから、主のみおしえが流れ出るのです。「そこ」とは人間のからだにたとえるならば「腹の底」に当たります。イザヤ書2章3節にある「教える」は「ヤーラー」(יָרָה)、再臨のキリストが「天から降りて来られる」ことも「ヤーラー」(יָרָה)で、まさにこの方によって、世界の中心であるシオンから主のみおしえ(トーラー)が「流れ出る」(「ヤーツァー」יָצָא)ようになるのです。そして人々はそのことを喜び、輝くようになるのです。ちなみに、「流れて来る」とは比喩的な表現ですが、ヘブル語の「ナーハル」(נָהַר)には「輝く」という意味があります。つまり「流れて来る」という表現の中に、御国における神の民の栄光の輝きが示唆されているのです。

(4) 世界平和の実現

  • 再臨によるメシアの統治によって、はじめて剣が鋤に変わり、槍がかま(剪定はさみとも訳されます)に変わり、二度と戦いのことを習わなくなります。世界の平和はメシアの再臨によってのみ実現するのであり、人間的な方策や政治的努力によって平和をもたらすことは不可能なのです。それゆえ、初代教会の挨拶は「マラナ・タ(主よ。来てください)」でした。

2. 悔い改めの呼びかけ

  • 5節の「ヤコブの家よ、さあ、私たちも【主】の光のうちを歩もう。」に注目してみたいと思います。「ヤコブの家よ、「さあ」と訳されたヘブル語は「レフー」(לְכוּ)は、「歩く」を意味する「ハーラフ」(הָלַךְ)の命令形(二人称単数)で、悔い改めを促す言葉として使われています。新共同訳はこうした類いの語彙は訳さない方針のようです。

(1) 「わたしも」の「も」が意味すること

  • この5節の注目点は、「私たちも」の「」という意味です。なぜ「私たちも」となのかと言えば、3節に「多くの民が来て言う。『さあ、・・・』」とあるからです。「多くの民」とは「諸国の民」のことで、異邦人のことです。つまり、2章2~4節にある「終わりの日」の終末のヴィジョンは、ユダの民よりも先に異邦人に啓示されることを示しています。イェシュアが「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」と言われたのは、このことを意味すると考えられます。事実、新約聖書の「使徒の働き」を見ると分かるように、御国の福音はまずユダヤ人に伝えられましたが、彼らはそれを拒んだことで福音が異邦人に伝えられるようになったのです。神の民が御国の福音に与るのは異邦人よりも後だということです。すなわち「終わりの日」(キリストの再臨)の直前なのです。

(2)「主の光のうちを歩む」とは

  • ここでの「主の光」とは、神のヴィジョンと関係があります。つまり、それは神のマスタープランのことです。使徒パウロはエペソ1章で「光」概念を、「神のご計画とみこころも、御旨と目的」がイェシュアによって実現するこしだとしています。そしてこのことを悟った者のことを「光の子ども」(エペソ5:8)と呼んで、「光の子どもらしく歩みなさい」と勧めています。それは明るく元気でのびのびという意味ではなく、神のご計画とみこころを知る者として生きることを意味しています。


3. キリスト再臨時のさばきと警告

  • イザヤ書2章6~22節には、神に従わない神の民に対するさばきと警告が記されています。

(1) さばきの宣言

  • 6節に「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた」とあります。「捨てる」と訳された原語は「ナータシュ」(נָטַשׁ)で「そのまま放置する、見捨てる、投げ棄てる」ことを意味します。ここでは預言的完了形で記されており、それは必ず実現することを意味します。その理由が6節後半から22節において説明されています。
  • ヤコブの家が捨てられることになるのは、東から西にある国々のように、「偽りの神々を拝んだから」です。「偽りの神々」とは偶像の神のことです。しかし「終わりの日」には、地を揺るがすために、主が立ち上がられる時、「高ぶる者はかがめられ」「高慢な者は低くされ」ます。
  • キリストの再臨の前には、神の民であるユダヤ人は反キリストを約束されたメシアだと信じるようになり、だまされて契約を結びます。その結果、一時、平和を手にし、経済的にも繁栄して非常に裕福となりますが、堕落も起こります(2:6~9)。ウジヤ王の時代に起こったのと同じことが起こるのです。そのために主は、彼らを回復する教育的懲罰として反キリストによる大患難期を通らせるのです。
  • 「主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩のほら穴や、土の穴に入る」と二度も記されています(イザヤ2:19, 21)。またヨハネの黙示録6章でも、小羊の封印が次々と開かれ、第六の封印が解かれたときには以下のようなことが起こると預言されています。

【新改訳改訂第3版】黙示録6章12~17節
12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。
13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。
14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ
16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

  • しかしキリストが再臨される時には、メシアに逆らう者たちは自滅させられます。ですから、「その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる」(イザヤ2:11)事が起こるのです。そのようにしてメシア王国(千年王国)が実現します。この時には、キリストの花嫁も天から降りて来て、主とともに地上にいるのですから、大いに「その日」の来るのを待ち望まなければなりません。

(2) 警告のことば

  • この日の到来が確実であることを信じる者は、22節に警告されていることばを容易に理解できるはずです。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書2章22節

    鼻で息をする人間をたよりにするな。
    そんな者に、何の値うちがあろうか。


    ●「たよりにするな」と訳された原語は「ハーダル」(חָדַל)です。この動詞は、主がことばの混乱を与えたことで人々がバベルの塔を建てるのを「やめた」(創世記11:8)という箇所で初めて使われています。「捨て置く」「拒絶する」「あきらめる」という意味もあります。私は、ここではより積極的な意味で「息する人間をはっきりと拒絶せよ。」という主の警告の命令として受け取るべきだ思います。なぜなら、「終わりの日」には、サタンから権威を与えられた反キリストがその統治力と知恵、および超能力において人間の目を盗んで自分をすばらしい存在と思わせ、多くの者を騙すからです。

「終わりの日」のみならず、今日においても、「主おひとりだけが高められる」信仰へと導かれることを祈ります。


2014.7.19


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