****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「理解を超えた大いなること」


7. 「理解を超えた大いなること」

【聖書箇所】エレミヤ書33章1~26節

ベレーシート

●今回はエレミヤ書の心臓部(29~33章)の最後の部分であり、かつ総括的な章です。エレミヤに語られた神の心臓にふれる重要な事柄がこの33章に寄せ集められています。それらを「あなたが知らない理解を超えた大いなること」(33:3)というタイトルでまとめることができます。「理解を超えたこと」(口語訳「隠されていること」、新共同訳「隠されたこと」、関根訳「及び難いこと」、NKJV「mighty things」、TEV「marvelous things」)と訳された原語は、動詞「バーツァル」(בָּצַר)の分詞・受動態・複数で、「近づきがたいこと、要塞化されたこと、防御工事がされたこと」から「理解し得ないこと、隠されたこと」という意味が派生しています。それに「大いなる」(「ガードール」גָּדוֹל)という形容詞がついていることで、神のみこころにおける「大いなる秘密」、簡単に知ることのできない「理解を超えた大いなること」が、この章にまとめられています。しかもそのことを、主を呼び求める者に告げ知らせる(「ナーガド」נָגַד)と主ご自身が語っておられるのです。神は人に知らせることなく、事をなさる方ではありません。ご自身のご計画を、その秘密を、主を呼び求め、主に尋ね求める者には必ず啓示してくださる方なのです。そのようなメッセ―ジとはどのようなものなのでしょうか。それがイェシュアの語った「御国の福音」なのです。

1.「終わりの日」における回復

●エレミヤ書(30~33章)には、「終わりの日」、つまり終末預言を示す語彙が多く使われています。

A. 回復の時期を示す語彙

(1)「見よ」「ヒンネー」(הִנֵּה)⇒30章3,10,18,23節/31章8,27,31, 38節/32章37節/33章6, 14節
(2)「その時代が来る」「ヤーミーム・バーイーム」(יָמִים בָּאִים) ⇒30章3節/31章27, 31, 38節
(3)「その日は」「ハッヨーム・ハフー」(הַיּוֹם הַהוּא)⇒30章7節「大いなる日、比べようもない日、それはヤコブには苦難の時」
(4)「その日になると」「ハーヤー・ハッヨーム・ハフー」
(הָיָה בַיּוּם הַהוּא)⇒30章8節 
(5)「そのとき(に)」「バーエート・ハーヒー」(בָּעֵת הַהִיא)⇒31章1節
(6)「そのとき」「アーズ」(אָז) ⇒31章13節
(7)「再び」「オード」(עוֹד) ⇒31章4, 5節
(8)「その日には」(=「それらの日々に」=「バッヤーミーム・ハーヘ—ン」(בַּיָּמִים הָהֵן)⇒31章29節
(9)「終わりの日に」(=「終わりの日々に」「べアハリート・ハッヤーミーム」(בְּאַחֲרִית הַיָּמִים)⇒30章24節

●これらはすべて「終わりのこと」を啓示するものです。「聖書は、わたしについて証ししているものです」(ヨハネ5:39)とイェシュアは言われました。しかしその「イェシュアの証しは(=イェシュアを証しするのは)預言の霊」(黙19:10)によってです。パウロは霊によって「預言することを熱心に求めなさい」(Ⅰコリ14:1)と言いました。主によって集められたエックレーシアの一人ひとりが、自分の口を開いてイェシュアのことを語ることが、すなわち「預言すること」です。復活のイェシュアによって息を吹きかけられた者たちが、イェシュアのことを口で語ることによって、エックレーシアは力を与えられ、建て上げられていくのです。

B. 回復の対象者

(1)「イスラエルの家とユダの家」 ⇒31章31節
(2)「ユダとイスラエル」 ⇒33章7~8節
7 わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す
8 わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す

●「ユダとイスラエル」とは全イスラエルのことです。老シメオンは幼子イェシュアを抱いたときに預言的啓示を受けました。その預言的啓示とは「万民の前に備えられた救い」でした。彼は「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」人ですが、それは理解の型紙が破られるものでした。彼は「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光」を見たのです。しかも両親に、幼子の死と復活を通してそれがなされることまで預言したのです。「ユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直」し、「彼らをきよめ、彼らのすべての咎を赦す」のは、私たち異邦人が彼らに接ぎ木されて、万民の救いが完成するためなのです。このように、神のご計画は徹頭徹尾、イスラエルを基軸としています。イスラエルの回復は単にイスラエルの問題ではなく、万民の救いがかかっているのです。

C. 回復の内容

(1) 「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」(30:22、)
彼らはわたしの民となり、わたし彼らの神となる。」(31:1、32:38)
(2) 「わたしは彼ら(北イスラエル)を北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。」(31:8)
(3) 「彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、主が与える良きものに・・喜び輝く」(31:12)
(4) 「新しい契約を結ぶ」(31:31)
(5) 「見よ。わたしは、かつてわたしが怒りと憤りと激怒をもって彼らを散らしたすべての国々から、彼らを集めてこの場所に帰らせ、安らかに住まわせる。」(32:37)

※エレミヤ書29~33章には、アブラハム契約、シナイ契約、モアブ契約(32:37)、ダビデ契約(33:15)、新しい契約(31:31)が根底に流れています。

D. 回復のための神の動機 

(1) 主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛したそれゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた・・」(31:3)
(2) エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──【主】のことば──」(31:20)
(3)「わたしは、真実をもって、心と思いを込めて・・」(32:41)

●神のご計画を貫いているのは、永遠のかかわりを求める「愛」と「あわれみ」と「真実」です。


2. 「この都」についての回復

【新改訳2017】エレミヤ書33章6、9~11、15~16節
6 見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。
9 この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる。』」
10 主はこう言われる。「あなたがたが、人も家畜もいない廃墟と言うこの場所で、人も住民も家畜もいない、荒れすたれたユダの町々とエルサレムの通りで、
11 楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ─主は言われる。」
15 その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。
16 その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの都は『主は私たちの義』と名づけられる。」

●33章では、「この都」の回復が特に強調されています。「この地」(「バーアーレツ」בָּאָרֶץ)の中心は、「この都」(「ハーイール・ハッゾート」הָעִיר הַזֹּאת)なのです。ただし、エレミヤ書33章6節、9節、16節にある「この都」はすべて人称代名詞の「それ」(「ラーハ」לָּהּ)で表されています。「この都」とは「エルサレム」(=「イェルーシャーライム」יְרוּשָׁלַיִם)のことで、その雅名は「シオン」(「ツィッヨーン」צִיּוֹן)です。ここに、神は「その日、その時」、つまり「終わりの時」に、ダビデのために義の若枝を芽生えさせるのです。「若枝」とはメシア・イェシュアのことです。
※「この都」についての言及は、エレミヤ書32章3, 24, 25, 28, 29, 31, 36節、33章4, 5, 6, 9, 16節参照。

【新改訳2017】詩篇87篇1~7節
1 主の礎は聖なる山にある。
2 主はシオンの門を愛される。ヤコブのどの住まいよりも。
3 神の都(「イール・ハーエローヒーム」עִיר הָאֱלֹהִים)よ 
あなたについて 誉れあることが語られている。 セラ
4 「わたしはラハブとバビロンを わたしを知る者として記憶しよう。見よ ペリシテとツロ クシュもともに。
『この者は この都で(=原文は「そこ」を意味する「シャーム」שָׁם)生まれた』と。」
5 しかし シオンについては こう言われている。 「この者も あの者も この都で(「バーハ」בָּהּ)生まれた。 いと高き方ご自身が シオンを堅く建てられる」と。
6 主が「この者は この都(「シャ―ム」שָׁם)で生まれた」と記して 国々の民を登録される。 セラ
7 歌う者も 踊る者も 「私の泉はみな あなたにあります」と言う。

●この詩篇でも、3節の「神の都」だけは「イール・ハーエローヒーム」で表されていますが、他の「この都」は、副詞や代名詞で表されています。「神の都」が「シオン」に言い換えられ、そのシオンについて「誉れあること(すばらしいこと)」として語られています。だれが語っているのかといえば、それは「主」です。「誉れあること」と訳された「カーヴァド」(כָּבַד)は、「尊ぶ、重んじられる、重くなる、栄光を得る」という意味です。ちなみに、「カーヴァド」の名詞形の「カーヴォード」(כָּבוֹד)は「栄光」を意味します。神の都について、神の重い事柄として語られているのです。その「重い事柄」とは、「神の都シオンが万民の母となる」ということです。

●4節にある「ラハブ(=エジプト)、バビロン、ペリシテ、ツロ、クシュ(エチオピア)」は異邦人の代表です。贖われた異邦人と「イスラエルの残りの者」がシオンで生まれたとされ、やがて同じ母のもとでともに住むことを預言しています。神はこのシオンを堅く建てられます。これがメシア王国における神のご計画です。すべての神の民がいのちの泉としてのシオンに戻るのです(イザヤ2:2~3)。

●ここで、エレミヤ書33章に戻ります。

6  見よ。わたしはこの都回復(=傷を覆う被膜「アルハー」אֲרֻכָה)と癒やし(מַרְפֵּא)を与え、彼らを癒やす(「ラーファー」רָפָא)。そして彼らに(לָהֶם)平安と真実(שָׁלֹום וֶאֱמֶת)を豊かに(עֲתֶרֶת)(わたしは)示す(גָּלָה)。※「彼ら」とは、次節の7節にある「ユダとイスラエル」です。
7  わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す。

●「この都」と「ユダとイスラエル(原文は「の捕らわれ人」=שְׁבוּת)を回復させ」とあり、「都」と「そこに住む人々」は、同時に、回復されることが分かります。

9  この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる(רָגַז)。』」

●「震える」と「恐れ」とは同義で、ここは強調表現となっています。神にとって「この都」は、神の栄誉の証しとなるのです。


3. 「エルサレムの平和のために祈れ」とは

【新改訳2017】詩篇122篇1~6節
1 「さあ【主】の家に行こう。」人々が私にそう言ったとき 私は喜んだ。
2 エルサレムよ 私たちの足は あなたの門の内に立っている。
3 エルサレム それは 一つによくまとまった都として建てられている
4 そこには 多くの部族 主の部族が上って来る。イスラエルである証しとして 主の御名に感謝するために。
5 そこには さばきの座 ダビデの家の王座があるからだ。
6 エルサレムの平和のために祈れ。・・・

●1節に「さあ【主】の家に行こう。」人々が私にそう言ったとき 私は喜んだ」とあります。作者がなぜ喜んだのかがとても重要な気がします。それは、自分が神の民として選ばれていること、また同じ信仰をもつ同胞がいることの喜びです。同じ霊を与えられて神を慕い、神を礼拝する喜びです。私たちにそれがあるでしょうか。天のエルサレムにある「いのちの書」に名が記されている者たちとやがて会うことになると考えるだけで、霊が喜んでいるでしょうか。イェシュアが、伝道から帰って来た弟子たちが「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します」と報告したときに、イェシュアは言われました。「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と。私たちがやがて相まみえるのは、悪霊ではなく、主にある兄弟姉妹たちなのです。

●メシア王国では、神の都エルサレムがまさに地の中心となります。そこでキリストは死なれ、キリストが呼び集められたエックレーシアが誕生しました。そこから御国の福音が世界中に伝えられました。そして再び、主キリストはそこに戻って来られます。この地上に神の国(千年王国)が実現し、主に贖われた人々が王であるキリストを礼拝するためにエルサレムを訪れる時が来るのです。その門の内に「私たちの足は立っている」と預言しています。詩篇も預言の書として読まなければなりません。

●まさに、エルサレムは不思議な地です。世界中にあるエックレーシアは一つだけです。そのエックレーシアは「天の都エルサレム」の写しです。神のヴィジョンは、キリストにあって、すべてのものが一つにされることです。主の家である「エルサレム」は、神の民を一つに結び合わせる神の選びの地であり、かつ、キリストにある平和と一致のシンボルです。そこに住むことは永遠の特権であり、最高の喜びではないでしょうか。

●3節「エルサレム それは 一つによくまとまった都として建てられている」の原文を直訳すると、「エルサレムよ、建てられている、都として、結び合わされた、そこに、一緒に」となります。動詞の「結び合わせる」の「ハーバル」(חָבַּר)と、副詞の「一緒に」の「ヤフダーヴ」(יַחְדָּו)を重ねることで、より一層の親密な結び合いが強調されています。エルサレムはこの地上において唯一、神ご自身の臨在の場所として選ばれた場所です(詩132:13)。そこで御子イェシュアは十字架の贖いを成し遂げられ、聖霊によって誕生したのがエックレーシアです。再びそこにキリストの再臨があり、千年王国が実現される中心的な場所です。そこには神と人とのユニティーが実現されます。天と地が一つになる場所です。ヤコブが「天からの梯子」の夢を見て、枕にした石(エベン=メシアの象徴)に油を注いだ出来事がありましたが、それは預言的啓示でした。ヤコブが天と地が一つになっている場所を「ベテル」(神の家)と名づけたことも、「預言」なのです。

●メシア王国は完全な意味で「敵意がない」とは言えません。しかし、獣と呼ばれる反キリストも偽預言者もともに火と硫黄の池に投げ込まれ、サタンも「底知れぬ所」に幽閉されているので、生身のからだを持った者が平安と喜びをもって生きることができます。恐れから解放された安息を享受できるのです。

●さて6節に「エルサレムの平和のために祈れ」とあります。これはどういうことを意味しているのでしょうか。「エルサレムの平和のために祈れ」をヘブル語で見るなら、「シャアルー・シェローム・イェルーシャーライム」とあり、「エルサレムの平和を求めよ」という意味になります。原文では「祈れ」ではなく、「求めよ」です。

画像の説明

●「シャーアル」(שָׁאַל)は「尋ね求める、願う」ことを意味します。同じ子音で「シャーウール」(שָׁאוּל)は、イスラエルの最初の王サウルの名前ですが、彼は神を尋ねることに失敗します。そのため、彼に代わってダビデに王位が与えられます。そのダビデは「一つのこと」、すなわち「最も大切なこと」を尋ね求めました。

【新改訳2017】詩篇 27篇4 節
一つのことを私は主に願った(שָׁאַל)。それを私は求めている(בָּקַשׁ)。
私のいのちの日の限り 主の家に住むことを
の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために

●「シャーアル」(שָׁאַל)も「バーカシュ」(בָּקַשׁ)も、「神のみこころを尋ね求める」ことを意味する語彙です。ダビデは「主の家に住むこと」、そこで「主の麗しさを思い巡らす」ことを、生涯の第一のこととしたのです。なぜなら、その素晴らしさを経験し続けたからです。どのような経験であったかは彼の詩篇を読めば分かります。その一端を27篇の中に見てみましょう。その5~6節にダビデが「一つのことを求めた」理由が記されています。

【新改訳2017】詩篇27篇5~6節
5 それは 主が 苦しみの日に私を隠れ場に隠し その幕屋のひそかな所に私をかくまい 岩の上に私を上げてくださるからだ。
6 今 私の頭は 私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
私は 主の幕屋で喜びのいけにえをささげ 主に歌い ほめ歌を歌おう。

●大切な点は、「岩の上に私を上げてくださるからだ」という点です。「苦しみの日に私を隠れ場に隠し」と、「幕屋のひそかな所に私をかくまい」とうのは、預言的・奥義的なことばです。「隠れ場に隠し」「幕屋のひそかな所に私をかくまい」とは、霊の中に置かれることを意味します。どんな台風にも必ず「目」があります。その台風の目の中に隠してくださるという霊的経験です。台風の目は風がなく、雲もないだけでなく、天と地が一つとなり、つながっています。地の現実を天から概観できるのは、復活と昇天のキリスト、および神の右の座に着かれたキリストを経験することができるということです。これが「岩の上に私を上げてくださる」経験であり、「私の頭は 私を取り囲む敵の上に高く上げられる」経験なのです。ですから、ダビデはイスラエルの国に勝利をもたらすことができたのです。とすれば、主のものとされた私たちも、そのことを第一のこととして求めなければなりません。なぜなら、その第一を求めなければ、ことになってしまうからです。ここに、へブル語の両義性が見て取れます。つまり、この「滅ぶ」(「シャーオール」שָׁאוֹל)と、「よみ=死者の国」を意味する「シェオール」(שְׁאוֹל)ということばが、「尋ね求める」(「シャーアル」שָׁאַל))同じ語根を持っているのです。ですから、「よみ」「シャーアル」(שָׁאַל)に行かないためにも、求めることが重要なのです。

●ところで、「平和」(「シャーローム」שָׁלוֹם)の語源である動詞「シャーレーム」(שָׁלֵם)は、神のご計画が完全に実現・成就することを意味します。それが実現・成就するとき、御国のあらゆる祝福がもたらされることになります。その祝福の総称が「シャーローム」なのですから、「エルサレムの平和のために祈る」ということは、イスラエルとハマスの戦争がなくなるようにと祈ることではなく、神が支配する都である「御国が来ますように」という求めになるのです。そのためには、御国の福音がどういうものかを知ることが不可決まのです。

●神のご計画において、エルサレムは極めて重要な位置を占めています。まずは、その名称それ自体に隠されている秘密を探ってみたいと思います。つまり、「エルサレム」ではなく、ヘブル語の「イェルーシャーライム」の意味を知らなければなりません。

●創世記 22 章はアブラハムの最大の試練が記されている有名な箇所です。神から「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。・・・一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい」と命じられて、アブラハムは神がお告げになった場所、すなわち「モリヤの地」に出かけました。「モリヤ」とは、「主が示す所」という意味です。父と子がその所に向かって一緒に歩いたのです。4 節に「三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた(「ラーアー」רָאָה)」とあります。「モリヤの地」の「山の上」とは「エルサレム」のことです。アブラハムと一緒に出かけた息子のイサクは父に尋ねます。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にするための羊は、どこにいるのですか」。その問いに対して父アブラハムは「神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えて(原文は「見つけてרָאָה)くださるのだ」と答えます(8 節)。モリヤの山に着いて、アブラハムが息子のイサクをほふろうとしたとき、「主の使い」(単数の「御使い」は受肉前の御子)が天から彼を呼び、「手を下してはならない。」と止め、アブラハムが神を恐れていることを確認しました。アブラハムが目を上げて「見る」(「ラーアー」רָאָה)と、そこには角をやぶに引っかけてひっかけている一匹の雄羊(イェシュアの型)がいたのです。そこでアブラハムは、その場所を「アドナイ・イルエ」と名付けたのです。

●そこで、今日でも「主の山には備えがある」(14 節)と言われているとありますが、「アドナイ・イルエ」を直訳するなら、「主の示された山は主によって見られている」(未完了受動)という意味になります。つまり、主が示された山(エルサレム)には神のご計画がある、神のヴィジョンがそこにあるという意味になります。これが「エルサレム」の「エル」(イェルー)の意味です。そしてさらに「エルサレム」(イェルーシャーライム)の後半の部分である「サレム」(シャーライム)が結び合わされています。「サレム」は神の祝福の総称を意味する「シャーローム」(שָׁלוֹם)で、その複数形が「シャーライム」なのです。

「エルサレム」という町(都)の名称に秘められているのは、「神のヴィジョンとそこにある神のすべての祝福」です。エルサレム(イェルーシャーライム)は神の聖なる歴史の中心としてそのすべてが集結する場所であり、神の永遠のご計画における重要な鍵語(Keyword)なのです。常に天と地が一つに結びつけられる所として、回復されるのです。

エルサレムの歴史的変遷

①「エデンの園」には、神と人とが住んでいました(創世記 2:8,15)。
②「サレム」の王メルキゼデクが突然に現われ、アブラハムを祝福しました(創14:18~20)。
③「モリヤの山」(=エルサレム)でアブラハムは信仰の試練を受けます。主はイサクの代わりになる一頭の雄羊を備えられました。アブラハムはその場所を「アドナイ・イルエ」と名づけました。
④ ダビデはエルサレムを全イスラエルの都と定め、そこに契約の箱を安置しました。これがダビデの幕屋と言われるものです。神である主はそこにご自身の名を置かれました。
⑤ ソロモンはエルサレムに神の宮(神殿)を建てました。しかし偶像礼拝の罪によってイスラエルは二つに分断しました。北イスラエルはアッシリアによって滅びました。
⑥ バビロンによってエルサレムは破壊され、ユダの民はバビロンに捕囚とされました。
⑦ペルシアの王キュロスによって帰還が許されたユダの民は、エルサレムに神殿(第二神殿)を再建しました。
⑧ 神の御子イェシュアはエルサレムで苦しみを受け、殺され、三日目に復活し、昇天しました。
⑨ エルサレムはローマ軍によって破壊され、ユダヤ人は世界離散を余儀なくされました。
➉ 教会が携挙された後に、反キリストはユダヤ人と七年間の契約を交わします。しかし三年半の後に反キリス トは正体を現し、エルサレム神殿(第三神殿)において自分が神であることを宣言します。ユダヤ人は獣と呼
ばれる反キリストによる未曾有の大患難を経験します。
⑪ ハルマゲドンの戦いの後、エルサレムは破壊されます。
⑫「イスラエルの残りの者」たちが民族的回心した後、メシアはエルサレムの東のオリーブ山に地上再臨します。反キリストと偽預言者は硫黄の燃える火の池に投げ入れられ、サタンも底知れぬ所に幽閉されます。そしてメシア王国が千年の間地上に実現します。千年の終わりにサタンの幽閉が解かれた後に最後の審判が行われ、主にある者たちはそのまま新しい天に準備されていた「新しいエルサレム」へ移されます。いのちの書に名の記されていなかった者たちはサタンと同様に火の池(ゲヘナ)に投げ込まれます。その前に古い地と天はあとかたもなくなります。
⑬ メシア王国の中心はエルサレムです。
⑭ 「新しいエルサレム」が、「新しい地」へと降りてきます。「新しいエルサレム」は永遠に神と人とがともに住む神の幕屋です。そこでは、イスラエルもエックレーシアもなく、またユダヤ人も異邦人の区別もない、「神の民」、あるいは「神のしもべ」が存在します。「神のしもべ」とは最高の栄誉の称号です。

●神のご計画は常に「この都」であるイェルーシャーライムを中心にして展開し、やがて「メシア王国」で成就するのですが、それさえも、本体である「聖なる都」「新しいエルサレム」の写しでしかありません。その完成された本体こそ、「理解を超えた大いなること」です。それがいかなるものであるかを、「シェーム・イェシュア」によって尋ね求めるように、神は促しておられるのかもしれません。

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三一の神の霊は私たちの霊とともにあります。 
      

2023.12.24
a:295 t:2 y:1

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