****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「わが愛する者」

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雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

5. 「わが愛する者」

【聖書箇所】 1章9〜11節、15節

ベレーシート

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  • 9〜11節は花嫁に対する初めての花婿のことばです。花婿が花嫁を呼ぶときに、決まって「わが愛する者(よ)」と呼びかけます(1:9, 15/2:2, 10, 13/4:1, 7/5:2/6:4)。逆に、花嫁が花婿に向かって呼びかけるときは、やはり決まって「私の愛する方」です。そのことで、呼びかけの主体がだれであるかが分かります。
  • 9〜17節を二回に分けて瞑想します。一回目は花婿が花嫁の美しさをたたえる歌です(9〜11節、15節)。二回目は花嫁が花婿の美しさを慕う歌です。前回でも扱ったように、「美しい」という言葉(「ヤーフェ」יָפֶה)は、女性に対しても、男性に対しても使われていました。この箇所には花婿と花嫁の歌のかけ合いがあります。

1. パロの戦車をひく雌馬にたとえられた花嫁

  • 9節で花婿は、「わが愛する者よ。私はあなたをパロの戦車の雌馬になぞらえよう。」と歌っています。「パロの戦車の雌馬」とはどういう意味でしょうか。普通、戦車を引くのは雄馬のようです。それを裏づけるかのように、聖書の中で「雌馬」(「スーサー」סוּסָה)という語はこの箇所しか出てきません。とても珍しいのです。一説に、「かつてエジプト軍がユダヤへ攻め上ったとき、ユダヤの方は雌馬を放ったところ、エジプトの戦車をひく雄馬は雌馬を追いかけ、エジプトの作戦は狂ってしまった。雌馬にたとえられた花嫁は、雄馬が魅了されるほどに美しいということか」とありますが、興味深い話です。
  • そもそもエジプトの馬は賞賛されていたようです。ソロモンもエジプトから多くの馬を輸入しました(馬に頼ることを神から禁じられているにもかかわらず)。ですから、その馬の美しさに花嫁がたとえられていると考えてもおかしくありません。花婿は花嫁の美しさに魅了されているのですから。

2. 「宝石をちりばめた首飾り」の真意

  • しかしその美しさが外面的なところでとどまっているなら、雅歌の解釈としてはふさわしくありません。10節の「あなたの頬には飾り輪がつき、首には宝石をちりばめた首飾りがつけてあって、美しい」という真の意味を理解しなければなりません。
  • 宝石をちりばめた首飾りを作るためには、宝石に穴を開けなければなりません。イェシュアが山上の説教の中で、「豚の前に、真珠を投げてはなりません。」と言われました(マタイ7:6)。「真珠」と「聖なるもの」は同義です。すなわち、それは「神のみことば」そのものです。それをその価値を知らないものに与えてはならないということを語っています。
  • 花嫁の首にかけられる首飾りとは、宝石(真珠)の一つ一つに穴を開けて糸を通して作られるものですが、それは一つ一つの宝石に穴が開けられて、それを糸で結ぶことで、一つのつながりになります。そのように、一つ一つのみことばが他のみことばと関連づけられ、結ばれることで、神の世界の美しさが見えてきます。イェシュアご自身も弟子たちにそのようになさいました。

【新改訳改訂第3版】 ルカの福音書24章26〜32節
26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

  • みことばの首飾りは、一つ一つのみことばを深く掘り下げると同時に、それをある関連性をもって一つの糸でつなげることで、今まで見えなかった神のみこころが見えてくることを象徴しているとも言えます。それはみことばを味わう瞑想の力とそれによって啓示される驚きの美しさです。それを花婿が自分を慕う花嫁に与えようというのが、11節のことばが意味することだと信じます。
  • つまり、雅歌1章11節の「私たちは銀をちりばめた金の飾り輪をあなたのために作ろう」とは、「神のことばの隠されたつながりを悟る者とならせよう」と解することができるのではないかと思います。

2. 「なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。」が意味すること

【新改訳改訂第3版】雅歌 1章15節
ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。
なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。

  • 15節では、花婿が花嫁の美しさを「あなたの目は鳩のようだ」と表現しています。この比喩はいったいどういう意味なのでしょうか。イェシュアは「からだのあかりは目です」と言われました(マタイ6:22)。「もしあなたの目が健全である(=澄んでいる)なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗い。」と言われました。それは「目」が全身の状態を写し出す存在だという意味です。ヘブル語で「目」は「アイン」(עַיִן)です。この「アイン」は目という意味の他に、「輝き」、あるいは「泉」(源泉)という意味があります。
  • 一方の「鳩」もノアの洪水の後でオリーブの若葉を口にくわえてきたように、「使者」という意味合いがあります(新約では鳩は「聖霊の象徴」)。つまり「あなたの目は鳩のようだ」という比喩は、単に、目の形が鳩に似ているとか、純粋な目だという意味ではなく、あなたの目からは愛の輝きが放たれている、それを告げ知らせようとしているという意味合いで使われています。そうした愛のまなざしは人の心をひきつけるはずです。事実、雅歌4章9節にはこうあります。

【新改訳改訂第3版】雅歌 4章9節
私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。
あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、
私の心を奪ってしまった。


●新改訳、フランシスコ会訳、バルバロ訳は「私の心を奪う(奪った)」、新共同訳・岩波訳は「私の心をときめかす」と訳しています。
●雅歌には、「鳩」についての言及が七回あります(1:15/2:12, 14/4:1/5:2,12/6:9)。

  • 花婿が花嫁のただ一度のまなざしで、あるいは首飾りのただひとつの宝石で心奪われてしまった、そんなかかわりが雅歌の世界にあるのです。なんとすばらしい花嫁の霊性でしょうか。今日のキリスト教会に求められているのは、この霊性なのです。


2015.8.8


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