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6. イスラエルにおける王の理想像としてのダビデ

歴史書(1)の目次

6. イスラエルにおける王の理想像としてのダビデ

1. ダビデが理想的な王となるための素地(16~17章)・・〔忠実さを試される経験〕
  

  • 少年ダビデはサムエルを通して非公式の形で王としての任職の油を注がれた。しかしダビデがイスラエルの理想的な王となるためには、10余年という神の訓練の期間を要したのである。
  • (1) 羊飼いの務めに対する忠実さ(16章)

    ①<神の選びの原則は何か>

    • 「人はうわべを見るが、主は心を見られる」・・神はダビデの内に理想的な王の素地を見ておられた。その素地とは<忠実さ>ということである。

    ②<羊飼いの務めにおいて養われた忠実さの訓練>

    • ダビデは牧者が羊に対する関わりを通して、やがて理想的な王となるべく訓練を受けていた。それは第一に、与えられた務めに対してどこまでも忠実であり、最善を尽くすという訓練である。神に仕える者にとってこれにまさる近道はおそらくない。また第二は、羊飼いが羊に対する取り扱いの訓練である。

  • (2) ゴリアテとの戦いに見るダビデの信仰(17章)

    ①<主の御名があざけられることに対する聖なる怒り(憤り)>

    • 主の御名がはずかしめられている現実をどれだけ自分の問題として受け止めることができるか。この心なしにリバイバルへの渇望は在り得ない。⇒パウロの憤り 使徒17章16節参照。

    ②<状況に支配されない信仰>

    • 戦いの相手は巨人ゴリアテであった。ダビデは羊飼いの仕事をしながら、獅子や熊と何度も格闘し、主によって救い出されるという経験を持っていた。信仰の個人的体験の積み重ねがゴリアテとの戦いにおいても発揮された。いざという時に出てくるものは、それまでに得たものだけである。17章37節の確信を見てみよう。

    ③<手段や方法に頼らない信仰>

    • ダビデは石で戦ったが、本当の武器は「万軍の主の御名」であった。単なる借物ではなく、自分のスタイル、スタンスを持つ事が重要である。

2. ダビデが理想的な王となるための賜物(18章)・・・・〔愛される経験〕

  • (1) 無二の友ヨナタンの存在

    ①<神によって結びつけられた友情>(1節)

    • 「ヨナタンの心はダビデに結びつけられた(原文受身形)」

    ②<私欲のない友情>

    • ヨナタンにとってダビデの存在は、自分の父の王位を脅かすライバルとして、妬みの対象となってもおかしくない。しかしヨナタンのダビデに対する愛は純粋で、無私無欲であった。

    ③<首尾一貫した友情>

    • ヨナタンは父に対してもダビデに対しても忠誠と愛を保ち続けた。またその狭間に立って彼は生涯、苦しみ続けた。⇒ヨハネ15章13~15節参照。
  • (2) ヨナタンの友情の遺産

    ①<ダビデの生涯におけるヨナタンの存在意義>

    • この意義は大きい。彼によってダビデは人から愛されるという経験を深く味わった。しかもヨナタンはサウル王の息子であり、いわば王子である。ヨナタンのダビデに対する愛は、後にダビデが社会の中で失われ、忘れられ、淋しく歩む者に対する愛となって表われた。ヨナタンの愛は無駄ではなかった。「愛された者だけが、人を真に愛することができる」というのは真理である。

    ②<メフィボセテの失権に対するダビデの態度>(Ⅱサムエル9章)

    • サウルの孫であり、ヨナタンの息子である。当時の周辺諸国の通念では殺されて当然の存在である。しかし父ヨナタンのゆえに、彼はダビデの計らいにより、破格の恵みによる豊かな生涯を送った。具体的には足の不自由な者が王室に出入りすることは禁じられていたが、メフィボセテだけはいつまでも王ダビデの権威の下で保護され、自由と十分な供給を与えられたのである。それは彼の父ヨナタンのダビデに対する愛のゆえである。

3. ダビデが理想的な王となるための訓練(19章)・・・・〔磨かれる涙の経験〕

  • ダビデは王となるべく油注がれた。しかしダビデが30歳にしてイスラエルの正式な王となるまでの約10年間、彼は流浪の旅を経験する。サウル王の妬みを買い、追われ、数々の辛い目に会い、忘恩の仕打ちを受けた。これらの経験を通してダビデは人間の真相を知り、その罪深さを、身をもって知らされる。しかし下積みの苦難を味わったことがダビデの人格を磨き、やがて王としてふさわしい者とされていった。また、苦しみの経験は数多くの味わいのある珠玉の詩篇を生み出した。

(1) サウルから追われ<流浪の旅>を余儀なくされた経験の中での神の訓練

①<主を恐れる訓練>

  • 「人を恐れると、わなに陥る」(箴言29章20節)というみじめな経験(21章)。この経験を通して、どんな苦境の中にあっても「主を恐れて」歩むことを学んだ。詩篇34篇を見よ。21章のダビデとは思えないほどである。そこには「主を恐れる」ことの祝福が訴えられている。

②<権威に対する服従の訓練>

  • 二度にわたる復讐のチャンスに見るダビデの態度。ダビデは油注がれた者に対して、決して手を下そうとはしなかった。これは自分の部下に対して、権威の神性をあかしする機会となったに違いない。 ③<窮地に立たされる訓練>
  • 苦境の状況の中でのある一つの判断によってダビデは相次ぐ危機に立たされた。しかし神の助けは思いがけないところからやってくる。神の逆転劇がある。追い詰められた危機の中で、ダビデは神を仰ぎ、ピンチをチャンスに逆転させる出来事が起こった(30章)。
  • 具体的には、ダビデが長い間、苦楽を分け合い、生死を共にしてきた部下たちから離反されるような出来事に遭遇した。部下たちから憎まれ、離反されればダビデの将来は暗い。しかしその大ピンチの中に主の勝利の備えがあることをダビデは信じて「主によって奮い立った」のである(6節)。結果として、このピンチは将来のダビデの王国の大きな足がかりを作るチャンスとなった。たとえ万策が尽き果てたと思われるときにも、神の逆転劇があることを信じよう。
  • 「積極的思考の訓練」・・「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4章13節)

  

  • (2) ダビデが王となった後の神の訓練

    ①<神の時を待つ訓練>

    • サウル王が死んで後、7年6ヶ月後にはじめてイスラエル全体の王となる(Ⅱサム5章)。それまでダビデは何をしていたのか。すでにダビデはへブロンでユダ部族の王となっていた。サウルの死後、ダビデは空白と緊張の続く中で、黙して神の時を待った。というのもサウルの死後、サウルの将軍アブネルが自分の野心のために、サウルの子イシュ・ボシェテを王としたためである。ダビデはサウルの死後も7年半という期間を待つことを受け入れたのである。
    • 「待つ」ということは非常に難しい霊的訓練のひとつである。ダビデの偉大さは、自分の立場を押し上げ、勢力を拡大するために、自分の力で何かをした人ではなかった点にある。神の約束が成就するまで忍耐深く神を待った人である。人間的な画策によってではなく、最善の時に、最善の方法をもって導かれる神にすべてをゆだねたとき、事態はどうなっただろうか。7年半という期間に、ダビデはユダ部族だけでなく、全イスラエルから好意をもって迎え入れられるようになったのである。ダビデの王位はいわば熟した果実が落ちるようにダビデの手にもたらされた。それを記しているのが、Ⅱサム5章1~3節である。

    ②<中傷に対する訓練>

    • ダビデの息子アブシャロムが謀反を起こした時、都落ちしたダビデに対する中傷に対して、正しくさばかれる主にゆだねた。ダビデは人を自分のために決して利用しようとはしなかった(Ⅱサム15章、16章)。
      
  • (3) 神の訓練の意義と祝福(へブル書12章参照)

    ①<人格を磨く下積みの経験>

    • この経験は人間の真相を知り、神の時を忍耐深く待ち、神への信頼が養われる上で大切な時期である。厳しい訓練は人格を磨き神に用いられていくための必修科目なのである。

    ②<徒弟関係の育成(共育)>

    • 訓練の時期にダビデ王朝を担う中核(4百人)が得られる。ダビデは神の訓練を受けつつ、苦しみの中を共に歩んだ忠実な部下たち(後の親衛隊)を訓練し、育成した。ちなみにサウロ王は「勇気のある者や、力のある者を見つけると、その者をみな召し抱えた」(Ⅰサム14章52節)とある。

    ③〈多くの協力者に恵まれる〉

    • ダビデはヨナタン、ダビデのために命をささげた「三勇士」のみならず、多くの協力者に恵まれた王であった。Ⅱサムエル23章。

4. ダビデが理想的な王となるための最終的な主の取り扱い

  • (1) 得意の絶頂期に起こった罠・・・バテ・シェバとの姦淫の罪(Ⅱサムエル12章)

    ①罪の結果  

    • a. ウリヤの殺害 (完全犯罪の企み)
    • b. 生まれた子のさばきとしての死

    ②だれでも陥りやすい罠。うまくいっているときが最も危ない。


    ③正しい認罪と悔い改めに対する神の破格の赦し
    「私は主の前に罪を犯しました」(詩篇51篇)

  • (2) 人口調査の罪(Ⅱサムエル24章)

    ①罪の結果・・疫病による7万人の死


    ②<人口調査の問題点>

    • a. 兵力の確認
    • b. 〔徴募制〕から〔徴兵制〕への切り替えの誘惑。つまり神の王国の世俗化、専制国家へと踏み出す危険性があった。

    ③<イスラエル王制の理念の視点から逸脱の警告>

    • a. 〔エゼキエル書34章の警告〕・・ここではイスラエルの王の牧者性の喪失と真の牧者を遣わす神の約束が述べられている。
    • b. 〔サムエル記最後の章の意義〕・・サムエル記がこの出来事をもって終わっていることに大きな意味がある。といのは、この人口調査の真の問題点は、サムエルが規定した王制の理念を根底から翻してしまう危険があった。イスラエルが周辺諸国と何ら変わらない王制へと変質させてしまう動機がダビデの心に潜んでいたからである。野心による王国の私物化が起こるならば、神の民としての<聖>が喪失してしまう懸念があった。
    • c. 〔ダビデに見る牧者の心〕・・・Ⅱサムエル24章17節

5. ダビデにまさる真の王イエス・キリスト

  • ダビデ以降、預言者サムエルの警告どおり(Ⅰサム8章参照)、イスラエルの多くの王が牧者の心を失って行く。その結果としてイスラエルは亡国という憂き目に会う。預言者エゼキエルは、イスラエルの王の牧者性の喪失と真の牧者なるメシアを神がお遣わしになることを預言した。
  • エゼキエル書34章にあるように、羊を知り、羊を養い、敵から守り、憩わせ、そして羊のためにはいのちを捨てるという、そのような牧者こそイスラエルの真の理想的な王の姿なのである。
  • (1) 真の牧者としての王なる神

    ①エゼキエル書35章に見る牧者

    • 「まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」

    ②イザヤ書40章11節

    • 「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」
      
  • (2) 真の大牧者イエス・キリスト

    ①マタイの福音書9章36節

    • 「群集を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」

    ②ヨハネの福音書10章10~11節

    • 「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。・・わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。・・わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」

    ③他に、イザヤ書53章6節、Ⅰペテロ2章25節、ルカ福音書15章を参照。

     
  • (3) 今日的課題
    主イエス・キリストこそ神の王国を治める永遠の大牧者である。今日の教会に求められているのは、大牧者の代理者として、牧者の心を持ったリーダーシップではないだろうか。

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