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3D瞑想法の実際(3)ールカの福音書19章1~10節「ザアカイの救い」

21. 3D瞑想法の実際(3)ールカ19章1~10節「ザアカイの救い」

はじめに

  • ルカの福音書19章10節の聖句ー「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」はルカの福音書全体のキーワードです。ザアカイの話の最後の聖句は、ルカ福音書の救いについての神学が要約されています。なぜそのように言えるかを読み解いてみたいと思います。

1. 縦の次元から読む

  • 与えられた聖書のテキストの中にある味わうべきことば(瞑想となるキーワード)を自分で選びます。人によって、それぞれいろいろな言葉が選ばれるはずです。たとえば6節の「ザアカイは急いで降りて来て、そしてイエスを大喜びで迎えた」とか、9節の「きょう、救いがこの家に来ました。」とか、10節の「人の子は、失なわれた人を捜して救うために来たのです。」という節を選んだとします。そしてそれが意味することをそれぞれ自分なりに味わいます。
  • もしひとりではなく、複数で共に読み、瞑想したことをそれぞれ分かち合ったあと、さらに選ばれたことばやフレーズについて互いに「突っ込みを入れる」ことで、否応なくさらに深く考えるように仕向けられます。なにゆえにザアカイは「木から急いで降りて来て、イエスをしかも大喜びで迎えたのか。なんのためらいもなかったのか。この従順はあまりに素直すぎないか、不自然ではないか」といった具合にです。また「きょう、救いがこの家に来た」というフレーズでは、なぜ「ザアカイ」ではなく「この家に」という表現が使われたのか。ここでの「救い」とはどういう意味で使われているのか。最後の10節の「失われた人」とはどういう人のことを言うのか。あるいは、「人の子」ってどういう意味なのか。こうした「突っ込み」を入れるだけでもかなりのことを考える必要に迫られるはずです。一人で読んでいるならばいい加減なところで終わるところが、みんなで読むことで、今まで考えもしなかった視点からものを考えるように仕向けられ、瞑想の訓練がなされるのです。こうした読み方が3D瞑想法の「縦の次元から読む」ということです。

2.  横の次元から読む

  • 「横の次元から読む」とは、文脈(コンテキストの流れ)を大切にして読むということです。というのは、ザアカイのテキストは脈絡なしに置かれているのではなく、まさにそこに置かれているという必然性があるからです。文脈を見ていくと、18章9節あたりからひとつのまとまりをもって流れて来ていることに気づかされます。

(1)18:9~14

  • ここでは取税人の方が義と認められたということです。パリサイ人ではなかったというイエスのことばが中心です。このことはパリサイ人にとってはまさに青天の霹靂でした。

(2)18:15~17

  • ここから神の国に入るのはどのような者たちかということが扱われていきます。その最初の部分である18:15~17 では、「神の国に入るのは、このような者たち」、つまり「子どものように神の国を受け入れる者たち」だとイエスは断言します。「神の国」、イコール「イエス」です。つまりイエスを受け入れる者たちのことをここでは「子どものような者」と言われているのです。へブル的視点からいうならば、「子ども」とはイエスの弟子たち、あるいは社会的アウトロー(取税人や遊女、羊飼いなど)を意味しました。ちなみに「大人」は当時の宗教的指導者たちを意味していました。このことはこれまでになかった新しいへブル的視点です。

(3)18:18~25

  • ある金持ちの役人がイエスのもとに来て、「永遠のいのちを得る」ためには何をしなければならないかという質問をします。イエスは永遠のいのちを求める彼のうちに、最も欠けていることを気づかせるために、「あなたの財産をみな売り払って、貧しい人に施しなさい」と言います。すると彼はこれを聞いて非常に悲しんでイエスのもとを去ります。永遠のいのちとは何よりも神とのかかわりを第一にすることです。そのことがこの役人に欠けていることをイエスは見抜かれていたのです。彼は永遠のいのちをこれまでの自分が持っているものに付け加えることができるように考えいたようです。イエスは 「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と付け加えました。これはほとんど不可能という表現です。

(4)18:26~34

  • それを見聞きしていた弟子たちは、「ではいったいだれが救われるのか」と驚きます。それについてイエスは「人にはできないことが、神にはできるのです」と語ります。弟子たちは神の国のために、すべてを捨てたことを自負しています。そのことについてイエスは必ず報われることを語ります。しかし、その弟子たちにイエスは「人の子は異邦人に引き渡されて、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられ、むちで打たれて殺されます。しかし。人の子は三日目によみがえる」という話をされますが、その意味についてだれひとり尋ねる者はなく、理解した弟子はいませんでした。このことばは彼らには隠されていて、話された事が理解できなかったのです。なぜなら、弟子たちのメシアの理解からほど遠い事柄であったからです。

(5)18:35~43 

  • ここでは、ある盲人が必死に開眼を求める話です。盲人の目はイエスによって開かれました。盲人の目が開かれるということはメシアのひとつのしるしでした。ルカがこの話をこの文脈の中に置いたのは、イエスに従いながらも、イエスの語られることが見えない、理解していない弟子たちとは裏腹に、ひとりの盲人が「主よ。目が見えるようになりたいのです」という切なる祈りにイエスは答えられて、彼の目を開かれたという事実です。イエスは盲人に対して「あなたの信仰があなたを直した」とその信仰を賞賛されましたが、その信仰とは、見えるようになる(理解するようになる)ことをひたすら求める者に対して、イエスは目を開かせることのできる方(メシア)であるということです。イエスを正しく理解して従っていくことが求められているのです。そのためには、イエスに対する自分のイメージが砕かれる必要があります。霊的な目が開かれてはじめて本当のイエスに出会うことができるのです。そしてそこから真の従順がはじまります。そして次に「ザアカイの話」が来るのです。

(6)19:1~10

画像の説明
  • 先の金持ちの役人は永遠のいのちを求めながらもそれを得ずしてイエスのもとを去りましたが、ここでは金(マモン)に縛られているひとりの取税人ザアカイがその摩力から解放されるという出来事が起こります。まさに、「人にはできないことが、神にはできる」ということの神のあかしです。10節の「救い」とは、お金(マモン)に支配された人生から解放されたことを意味していますが、それは同時に、神の国に入る事であり、永遠のいのちを得ることでもあるのです。
  • ところで、ヘブル的表現では同じ思想を異なることばで表わします。パラレリズムという思考法、あるいは修辞法です。ここでは「救い」を「義と認められる」「神の国に入る」、「永遠のいのちを得る」、「霊の目が開かれる」ということばで置き換えられています。                           
  • このように「横の次元から読む」ということで、置かれた聖書箇所が前後の文脈によって大きな流れをもっていることが理解できるようになります。これでだけでも大変な発見ができるということですが、さらに奥があります。


3.  奥行きの次元から読む

  • この読み方ができるためには原語の理解が必要です。難しい領域ですが、この視点が開かれると、みことばを瞑想する上で霊的視点がさらに開示されます。一見、難しいように思えますが、ヘブル語なり、ギリシア語なりのアルファベットを覚えることで、辞書を使ってことばの意味を調べることが出来ます。英語の辞書を使うためには、英語のアルファベットを知らなければ辞書を引くことも、その意味を調べることもできません。しかし、知っていれば辞書でその意味を調べることができます。同様に、神のことばを学ぼうと思う者は、最低限、原語のアルファベットを覚えるだけで新しい世界が見えてきます。その方法を教えられてこなかっただけで、必要なツールを手にすれば容易に知ることができるのです。みことばにいのちをかけていこうとしている人々は、この世の学校教育で英語を学ぶように、教会では聖書が書かれた原語教育を施し、自分で聖書を調べることができる水準まで引き上げていくべきだと思います。必修科目ではなく、少なくとも選択科目として。                                     
  • さて、この箇所(19章1~10節)から原語による「三つのキーワード(動詞)」を取り上げて、イエスとザアカイの出会いの神秘に触れてみたいと思います。一つは、5節の「~することにしてある、~しなければならない」という意味の「デイ」δει、3節と10節にある「熱心に捜す」ことを意味する「ゼーテオー」ζητέωという言葉、そして最後は「泊まることにしてある」の「泊まる」と訳された「メノー」μενωという言葉です。

(1) 神の必然としての「デイ」δειということば

  • イエスがいちじく桑に上っているザアカイに向かって、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と呼びかけました。「泊まることにしてある」というのは不思議な言葉です。一度も会ったこともないのに、相談もなく、だれがそんな予定を入れたのか。それはイエスの側です。
  • イエスは「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」(ヨハネ6:44)と言われました。イエスとかかわりを持つことが出来るのは御父が引き寄せられたからです。それなしには御子とかかわりを持つことが出来ないのです。ここに神の必然があります。
  • 「デイ」δειという動詞は、ヨハネの福音書4章にあるイエスとサマリヤの女との出会いにも使われています。「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」(4:3~4)。なぜサマリヤを通って行かなければならなかったのか。それはそこに必ずそうしなければならない神の必然があったからです。事実、イエスはそのサマリヤの地でひとりの女性と出会い、永遠のいのちを与えることができたのです。彼女の証言によってサマリヤ人のうちの多くの者がイエスを信じたのでした(ヨハネ4:39)。
  • このように神との出会いは、決して偶然でなく、神の必然の中にあるのです。あなたがイエスと出会ったのは、あなたがこの世に生まれる前から、いや天と地の基が置かれる前から、キリストにおいて定められていたことであったのです。それが時至ってあなたはキリストと出会い、神の子とされたのです。とすれば、私たちはその神の必然に心を開きつつ、歩まなければならなくなるはずです。

(2) 熱心に見出そうとする 「ゼーテオー」ζητέω

  • ザアカイとイエスの出会いが神の必然の中にあったとすれば、そこにはなんらかの出会いの兆候があるはずです。翻訳された聖書を読むだけでは分かりませんが、原文で見ていくと、ルカ19:1~10の中に同じ言葉が二度使われているのがわかります。そのことばとは「ゼーテオー」ζητέωです。しかもそれはザアカイとイエスの双方の行動に使われています。

【ザアカイの場合】

  • 3節「彼は、イエスがどんな方か見ようとした」
    ここには「見る」という動詞「エイドン」είδονの不定詞と、「懸命に試みる、見出そうと探し求める」という意味の動詞「ゼーテオー」ζητέωが並んでいます。「ゼーテオー」の時制は「未完了」です。つまり、ザアカイは単なる興味本位にイエスを見ようとしたのではなく、懸命に、熱心に見ようとし続けたのです。ですから、そのことが彼をしていちじく桑の木に登らせたのです。ザアカイの側に熱心な求道が見られるのです。彼の求道の行為の中に御父が彼を引き寄せていることを伺わせます。

【イエスの場合】

  • 10節「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
    「捜して」と訳されている部分が「ゼーテオー」ζητέωです。人の子とはイエスご自身のことですが、イエスは完全に失われてしまった人を見出そうと熱心に捜し求めておられたのです。ここにも御父の引き寄せを見ることができます。「救い」は万軍の主の熱心によってのみなされるということを想起させます。

(3)かかわりの秘儀である「メノー」μενω

  • このザアカイの話で意外と気づかない視点があります。それはイエスが「泊まることにしてある」と言われた言葉です。
    (1)では「~しようとしている」という神ご自身の必然があることをお話ししましたが、その必然の内容としてここでは「泊まるということばがあります。ヨハネの福音書の最も重要なキーワードである「とどまる」と訳される「メノー」μενωです。
  • ギリシア語の「メノー」μενωはヨハネの福音書では全体の118回のうち、40回も使われていることがわかります。」新約聖書の中では特段に多い数です。そのヨハネの福音書の最初に使われている箇所は1:32節です。そこにはこうあります。バプテスマのヨハネがはじめてイエスと出会った時です。そのときヨハネはこう言っています。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」ーこの「とどまる」という所に「メノー」が使われています。御霊がイエスにとどまっておられたがゆえに、イエスは神のことばを自由に語ることができたのです(ヨハネ3:34)。
  • しかしここで知ってほしいことは、38節と39節に使われている「メノー」μενωです。バプテスマのヨハネが「見よ。神の小羊」と言って指し示されたイエスに関心をもって、ヨハネの二人の弟子がイエスについて行って、こう尋ねます。「先生(ラビ)、今どこにお泊りですか。」と。ここでの「泊まる」ということばが「メノー」の現在形です。その質問にイエスは答えられます。「来なさい。そうすればわかります。」そこで二人はイエスについて行って、イエスの泊まっておられる(「メノー」の現在形)ところを知ったのです。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。」とあります。「いっしょにいた」ということばも「メノー」です。イエスと「一緒にいた、あるいは一緒に過ごした。」、つまり「過ごす」イコール「泊まった」(アオリスト時制が使われていますが、それは彼らは自分の自由意思で泊まったことを意味します)のです。するとどうなったでしょう。彼らはこのイエスが「メシア」であると分かったのです。霊の目が開かれたのです。このように、「とどまる」「泊まる」と訳される「メノー」には、霊的な事柄に目を開かせるという面があることがわかります。このことはきわめて重要な点です。
  • ザアカイは悔い改めて救われることができたけれども、その後はどうなったのかという話があります。聖書はその後のザアカイの歩みを想定できるように記されています。その歩みとは「イエスがザアカイのうちにとどまり、ザアカイもイエスのうちにとどまりつづけた」と考えられるからです。これこそイエスが「あなたの家に泊まることにしてある」という真意であり、「救い」だということが言えます。
  • イエスは言われました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と。このイエスのことばを重く受け止めなればなりません。


2012.8.14


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