****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

26.「ヨハネ13章の『今は来れないが、後で来る』というしるし

26. ヨハネの13章の『『今は来れないが、後で来る』』というしるし

ベレーシート

●前回はイェシュアが弟子たちの足を洗うことの意味について学びました。今回はそのことを思い起こしながら補填をし、13章にある他の事柄について触れたいと思います。他の事柄とは、イスカリオテのユダの裏切りに対するイェシュアの心情について、さらにはペテロに対してイェシュアが語った「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます」という本意について、分かち合いたいと思います。

1.「新しい戒め」・・洗足という霊的な交わり

●イェシュアが弟子たちの「足を洗う」時に「上着を脱ぎ」(4節)、そして再び「上着を着る」(12節)ことをしています。聖書で「(上着を)脱ぐ」とは「死ぬ=(いのちを)捨てる」という意味で、「(上着を)着る」とは「よみがえる=(いのちを)得る、受ける」という意味です。つまり、「洗足」の出来事は、イェシュアの死と復活(死んで生きる)を表す象徴的な啓示だということです。

●洗うのが全身ではなく、なぜ「足」なのでしょうか。「足」を意味するヘブル語は「レゲル: רֶגֶל」で、その初出箇所である創世記 8章9節にその理由が預言的に啓示されています。再度、確認しておきたいと思います。

【新改訳2017】創世記 8章9節
は、その休める場所(מָנוֹחַ)を見つけられなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。が全地の面にあったからである。彼は手を伸ばして鳩を捕らえ、自分がいる箱舟に入れた。

●「鳩は、その足を休める場所を見つけられなかった」とあります。さばきの水がいまだ全地の面にあったからです。「」は「聖霊」のメタファーです。「鳩の足」とはキリストの死と復活によって与えられる「いのちを与える御霊」を預言的に象徴するものです。また「足を休める場所」とは御霊が内住することになる「人の霊」を意味します。つまり「鳩が、その足を休める場所を見つける」とは、人の霊の中に「いのちを与える御霊が内住すること」の預言的・奥義的啓示だったのです。創世記8章9節では、まだそれが「見つけられなかった」、すなわち「まだなかった」のです。これは、ヨハネの福音書7章39節にある「イェシュアはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかった」(原文は「まだなかった」)ことの預言的啓示の型です。この預言が実現したのはいつかといえば、それは復活の日の夕べ、イェシュアが弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われた時です。イェシュアはそのことを預言的・奥義的に示すために、弟子たちの「足」を洗われたのでした。しかしその意味を悟る者はだれ一人いませんでした。なぜなら、それを理解させる聖霊がまだなかったからです。この聖霊こそ「いのちを与える御霊」(Ⅰコリント15:45)であり、人をきよめて新創造する「再生と刷新の洗い」(テトス3:5)なのです。

●「再生」はすでに包括的になされていますが、いまだ完成されていません。ですから聖霊による刷新の洗いが必要なのです。エックレーシアでなされる「洗足式」や「聖餐式」はこの「聖霊の刷新」を意味しています。しかし、宗教はそれを制度化し、儀式、慣例となってしまい、聖霊による刷新に至っていません。これはユダヤ教の教え、つまり、「罪と死の律法」に他なりません。聖霊による刷新は、私たちの「理解の型紙」を打ち破って(死んで)、いのちをもたらします。初代教会の「パン裂き」はまさに聖霊による刷新であり、そこではいのちの上塗りが日々なされていたのです。これこそが、イェシュアのいう「新しい戒め」(13:34)であり、「互いを愛すること」(同)なのです。「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです」(13:17)の意味です。このことを回復することがエックレーシアの務めです。「ほうれんそう」(報告・連絡・相談―話し合い)ではなく、聖霊によるいのちの刷新こそが、エックレーシアの本来の務めでなければならないのです。その意味で、イェシュアの「新しい戒め」を受けとめる必要があるのです。

2. 洗われても、その交わりの中にいなかったイスカリオテのユダ

【新改訳2017】ヨハネの福音書13章2, 18~22, 25~31節
2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
18 ・・・・・わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。
19 事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。
20 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
21 イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」
22 弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。
25 ・・・・「主よ、それはだれのことですか。」
26 イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。
27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」
28 席に着いていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、分かった者はだれもいなかった。
29 ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。
30 ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。
31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。

●イェシュアが弟子たちの足を洗われた時、イスカリオテのユダはどこにいたのでしょうか。彼はその交わりの中にいたのですが、「洗足」といういのちの交わりの中にはいなかったのです。イェシュアが弟子たちの足を洗われる前に、「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた」(13:2)とあります。そしてイェシュアが弟子たちの足を洗われた後、ユダがパン切れを受け取った時点で「サタンが彼に入った」とあります。ユダはイェシュアから「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい」と言われて、その場を離れます。イェシュアのことばは直接的にはユダに語られています。しかし悪魔(サタン)に対して語ったとも言えるのです。

●「サタン」は旧約で34回、新約では14回使われています。「悪魔」という語彙は新約のみで、37回使われます。ヨハネの13章では「悪魔」と「サタン」の双方が使われています。いずれもイスカリオテのユダにかかわっています。敵の策略のすべてを知っておられたイェシュアが御父のみこころを実現させるために、イェシュアの方からイスカリオテのユダにひと切れのパンを分け与えることで、ユダの裏切りを先導させたかたちです。つまりヨハネの福音書の場合、イェシュアの受難と死は、サタンの策略によってもたらされたものではなく、イェシュア自身が自らの意志でそれを引き受けられたものであることが分かります。しかしそのことはイスカリオテのユダも、他の弟子たちも知りませんでした。ですから、「ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った」(13:30)のです。

●30節には「時は夜であった」とあります(ただし、原文には「時は」という語彙はありません)。これは時間的な夜という意味ではなく、しるしとしての「夜」(ヌュクス:νύξ)、つまり「暗闇が支配する時」を意味し、その夜にイェシュアは捕らえられ、受難と死がもたらされるのです。イェシュアの死は、この世の罪を贖う神の愛を現すという御父から与えられた使命の究極的表現であり、それは同時に、神の栄光をこの世に示す最も効果的な最後の「しるし」となります。そうした流れの中に、イスカリオテのユダの裏切りが位置づけられています。彼の存在は、イェシュアの敵対者たちの思いを遂げる上できわめて好都合な存在(キーパーソン)だったと言えます。

●「ユダの中に入ったサタン」でさえも、被造物の中で最も賢く狡猾な存在でありながら、自分の巧みな策略が逆に神の計画を実現させてしまうとは夢にも思っていなかったはずです。高慢なサタンが神の知恵によって欺かれたことに気づいた時には「時すでに遅し」で、地団駄踏んで悔しがったに違いありません。パウロはⅠコリント人への手紙2章で「・・私たちは、・・知恵を語ります。・・・その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」(6~8節)と記しています。神は「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」(Ⅰコリ1:19、イザヤ29:14)という預言を見事に実現されたのです。ああ、神の知恵は何と底知れず深いことでしょうか。この神が私たちの神であられることはなんとすばらしいことでしょうか。

●イェシュアから足を洗ってもらったユダですが、彼ははじめからそのいのちの交わりにはいなかったのです。イェシュアはすでにそのことを見抜いていたのです。

①【新改訳2017】ヨハネの福音書13章2節
夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
②【新改訳2017】ヨハネの福音書13章10~11節
10イエスは彼に言われた。「・・・あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
11イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
③【新改訳2017】ヨハネの福音書13章18~19節
18 わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。(※この預言は詩篇41篇9節です。詩篇41篇はメシア詩篇)。
19 事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。
④【新改訳2017】ヨハネの福音書13章21節
イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」
※「心が騒いだ」の以前の訳は「霊の激動を感じて」でした。すでにイェシュアは11章33節で、死という現実を前にして「心を騒がせて」(=⾃ら奮い⽴たせ)とあり、12章27節でも「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」と語った後で、「今わたしの心は騒いでいる」と語っています。そして今回の13章21節では、⼗字架の死を前にして「心が騒いだ」のです。つまり「心が騒ぐ」とは「霊において奮い⽴たされる」ことを意味します。怯むのではなくその反対です。イェシュアが⼗字架という最も重い使命を神の計画に従って遂⾏するためです。ですから、13章27節で「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい」と、イェシュアがサタンに対して主権的に命じているのです。これはサタンがイェシュアの⽀配下にあることを暗示しています。ヨハネの福音書では、共観福音書のように「のろわれる、わざわいだ、不幸だ」といったユダに対するイェシュアの心情は一切語られていません。
⑤【新改訳2017】ヨハネの福音書13章26~29節
26 イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。
27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」
28 席に着いていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、分かった者はだれもいなかった。
29 ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。
※ユダの思いに、イェシュアの他には誰一人気づいていません。 

●27節に「そのとき、サタンが彼に入った」とありますが、イェシュアはそれまでに繰り返し、繰り返し、「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります」と語っていたのですから、ユダは自分のことが悟られていると知っていたはずです。悔い改めるチャンスは幾度もあったはずです。しかしユダは悔い改めることをしませんでした。ですから、そのような者は遅かれ早かれ、いのちの交わりから出て永遠の暗闇に入っていくのです。「洗足」という「いのちの交わり」が、「主との交わりの中にいる者たちのためである」ということを、イェシュアは暗に語っていることになります。

●ユダが出て行ったとき、イェシュアは再度「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました」(31節)と言われました。「栄光を受ける」とは、イェシュアの「わたしの時」のことで、それは同時に「暗闇」が最高潮になる「時」でもあるのです。しかしイェシュアは、死と復活を通して「神聖な新しいもの(New Creature)を生み出す」のです。このことを「人の子は栄光を受け(アオリスト受動)、神も人の子によって栄光をお受けになりました(アオリスト受動)」と宣言しているのです。これは御子が栄光を受けられたことで、父なる神も栄光を受けられたことを意味しているのですが、次節の32節では以下のように言い換えられています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書13章32節
神が、人の子によって栄光をお受けになった(アオリスト受動)のなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに(ユースュス:εὐθὺς)与えてくださいます

●ここで「神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます(未来形)。しかも、すぐに与えてくださいます(未来形)」とは、「復活によってイェシュアに栄光を与えてくださる」ことを語っているのです。このことをイェシュアはすでに「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(2:19)と言われていました。これはイェシュアが死人の中からよみがえることの預言だったのです。

3.「今はついて来ることはできないが、後にはついて来る」

【新改訳2017】ヨハネの福音書13章33, 36~38節
33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行く(=去って行く)ところに、あなたがたは来ることができません
36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く(去って行く=ヒュパゴウ:'ὑπάγω')ところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます(アコリューセオー:ἀκολουθέωの未来形)。」
37 ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」
38 イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

前回「時」に関連することで、「今は分からなくても、後で分かるようになります」(7節)がありました。「今は」とは洗足時のことですが、「後で」とはイェシュアが死んだ後、三日目に「いのちを与える御霊」となられて「人の霊の中に内住された後に分かる」ということでした。何が分かるのかといえば、「足を洗う」ことの意味です。しかし今回、ペテロに対して「わたしが行くところに、あなたはついて来ることができません。しかしにはついて来ます」と語られました。同じく「今」と「後」がありますが、意味は異なります。「今と後の間」に、「あなたは三度わたしを知らないと言います」が入ります。イェシュアによって足を洗われた者は大丈夫なのかといえば、決してそうではありません。ペテロは足を洗ってもらい、いのちの交わりの中にあったにもかかわらず、「三度わたしを知らないと言います」とあるように、イェシュアを否認してしまうことが起こるのです(18:16~17, 25~27)。ペテロの「あなたのためなら、いのちも捨てます」ということばは肉であり、肉はイェシュアを否認してしまうのです。このことにペテロは全く気づいていません。

●と同時に、「あなたは三度わたしを知らないと言います」というイェシュアのことばは、イスラエルの失敗を重層的に預言しています。というのは、神の選びの民イスラエルはその歴史において三度の大きな偶像礼拝の罪を犯します。
偶像礼拝とは「神と人がともに住む家(幕屋・神殿・宮)」を破壊する罪であり、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3)という第一戒に対する罪です。イスラエルはその罪によって、以下の苦しみを自ら招きます。

①バビロン捕囚という苦しみ
・・・ソロモンから始まる偶像礼拝によって
②世界離散という苦しみ
・・・ユダヤ教の内なる偶像礼拝(ストイケイア)によって
③未曾有の大患難という苦しみ
・・・反キリストをメシアと信じる偶像礼拝によって

●イェシュアという名前は「ご自分の民をその罪(複数=偶像礼拝)から救ってくださる方」(マタイ1:21)という意味であり、それは「インマヌエル」(インマーヌーエール:עִמָּנוּאֵל)=「神が私たちとともにおられる」(同23節)を実現してくださる方として遣わされた方です。「インマヌエル」は復活されたイェシュアがその日の夕べ、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言った時に人の霊の中においてすでに包括的に実現されています。しかしいまだ、マルフート(御国)としては完成されていないのです。完全な御国としてのインマヌエルの実現はイェシュア・メシアが地上再臨される直前、イェシュアをメシアと信じる「イスラエルの残りの者」を起こすことでなされます。こうして、千年にも及ぶ「メシア王国」において「インマヌエル」が実現されるのです。

●ところで、「今はついて来ることができないが、後にはついて来る」という話に戻りましょう。これはどういう意味なのでしょうか。「今はついて来ることができない」とは、イェシュアの死について来ることができないということです。イェシュアが捕らえられた時、弟子たちはみなイェシュアを見捨てて逃げてしまいます(マタイ26:56)。しかし、世にいるご自分の者たちを愛してきたイェシュアは、彼らを「最後まで愛された」と記すヨハネの福音書では、イェシュアを捕らえようとする者に対して、「・・わたしを捜しているのなら、この人たち(=弟子たち)は去らせなさい」と言っています(18:8)。続く9節の「あなた(御父)が下さった者たち」とは、あの書(=いのちの書)に名が記されている者たちのことです。

●「今はついて来ることができない」とはイェシュアの(十字架の)死について来ることができないことを意味していますが、「後にはついて来る」のです。それは弟子たちがイェシュアの証人となって殉教することを意味します。「証人」とは「マルテュス:μάρτυς」で「殉教者」という意味を含んでいます。

【新改訳2017】使徒の働き 1章8節
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人(=殉教者)となります。

●「聖霊があなたがたの上に臨む」ことを「聖霊のバプテスマ」と言います。これは外(上)から聖霊の力で覆われることを意味します。この力に「満たされる」ことを「ピンプレーミ: πίμπλημι」と言います。これによって、弟子たちはキリストの福音を大胆に語る力が与えられるのです。ですから、キリストとその教えに敵対する勢力とは自ずと対峙することになります。しかしどんなに反対され、脅されたとしても、「私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」(使徒4:20)となるのです。それゆえ殉教も辞さないことになるのです。しかしそのような証人となるためには、機能不全を起こしていた「人の霊」が「いのちを与える御霊」によって回復され、「インマヌエル」されている必要があります。この成就を、「外側の満たし」である「ピンプレーミ:πίμπλημι」に対して、「内なる満たし」である「プレーロー」(πληρόω)と言います。この「内と外の聖霊の満たし」がなされることで、はじめて「後にはついて来る」、つまり「イェシュアの証人となる」ことが可能となるのです。「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言ったペテロは、その時点では、どちらの聖霊にも満たされてはいなかったのです。

べアハリート

●皆さんは「クウォ・ヴァディス」という映画を見たことはあるでしょうか。正確には「ドミネ・クウォ・ヴァディス」ですが、「主よ、何処においでになるのですか」という意味です。私は高校生の時、まだキリストに出会う前にこの映画を見て、信仰がもたらす力に圧倒されました。信じることに自分のいのちを懸ける感動の記憶が呼び起こされます。この映画は、二世紀に書かれたペテロの殉教の物語です。ローマでペテロの説教を聞いたヘロデ・アグリッパの妾が心を打たれ、今までの生活から足を洗おうとして、ヘロデ・アグリッパとはもう寝ないと決心します。その影響は他の女性たちにも影響を与えます。男たちはその原因がペテロの説教にあることを知り、彼を亡き者にしようということになりました。その計画は、彼らの妻たちを通して、ペテロの集会に知らされることになります。すると、そこに集まっていた弟子たちが、ペテロにローマから逃げるよう勧めます。そこでペテロはローマの町の門を出た時、そこにローマの門をくぐって都に入って行くキリストとすれ違います。その時、ペテロは「主よ、何処においでになるのですか」と尋ねるのです。主が「ローマに十字架にかかりに行く」と言うと、ペテロは「主よ、再び、十字架にかかられるのですか」と尋ねます。主の答えは「然り」。このことを聞いたペテロは我に返り、もとのところに戻り、捕らわれの身となり、逆さ十字架で殉教を遂げたという伝説です。ペテロの殉教はヨハネの21章にあるように、主の限りない愛に対してなされることを暗示しています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書21章18~19節
18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
※これはペテロが晩年に殉教することを物語っています。
19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

●イェシュアの「わたしに従いなさい」(Fellow me
=レーフ・アハライ:לֵךְ אַחֲרַי)とは、「わたしの後を歩みなさい」です。私たちの歩みが「死と復活を通ったイェシュアの芳しい香りを放つ歩み」でなければなりません。実に重い一言です。初代教会では最初の殉教者ステパノがその模範となりました。彼が聖霊に満たされていたからです(使徒6:3,5,8,7:55)。しかし忘れてはならないのは、エックレーシアの霊の交わりにおいてこのような彼が育ったということです。それはイェシュアが命じた「新しい戒め」(ヨハネ13:34)の内実である「互いに足を洗い合うこと」が儀式ではなく、信仰によって実体化されていたからです。聖書はこう記しています。

【新改訳2017】使徒の働き2章42~47節
42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた
43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし
47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

●彼らはイェシュアの「新しい戒め」を霊によって実体化していたのです。そのような中から、ステパノのような人が形造られたのです。中でも最も大切なのは「パン裂き」です。これは今日の聖餐式のような儀式的なものではなく、霊を活用してともにイェシュア・メシアのことばを「食べ飲みする」ことです。しかも「毎日」です。彼らはみことばに隠された奥義に日々触れて歩んでいたのです。この歩みを回復することが、今日の「王なる祭司」である私たちに求められているのではないでしょうか。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。

2025.1.19
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