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2章5節「地にはまだ、野の灌木もなく」


創世記2章5節

【新改訳2017】

地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった。
神である【主】が、地の上に雨を降らせていなかったからである。
また、大地を耕す人もまだいなかった。

【聖書協会共同訳】

地にはまだ野の灌木もなく、野の草もまだ生えていなかった。
神である主が地上に雨を降らせず、土を耕す人もいなかったからである。

ה וְכֹל ׀ שִׂיחַ הַשָּׂדֶה טֶרֶם יִהְיֶה בָאָרֶץ וְכָל־עֵשֶׂב הַשָּׂדֶה טֶרֶם יִצְמָח כִּי לֹא הִמְטִיר יְהוָה אֱלֹהִים עַל־הָאָרֶץ וְאָדָם אַיִן לַעֲבֹד אֶת־הָאֲדָמָה׃


ベレーシート

●2章5節は4b節からつながっています。つまり、「神である【主】が、地と天を造られたときのこと。地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった」とあり、「造られたときのこと」は「べヨーム・アソート」(בְּיוֹם עֲשׂוֹת)で、「造られた時に」とも訳せます。「ヨーム」(יוֹם)は「日、昼、時」を意味する語彙で、「アソート」(עֲשׂוֹת)は「アーサー」(עָשָׂה)の不定詞です。

●2章5節には、神である主がなぜ人を造ろうとしたのか、その根拠が示されています。「野の灌木」と「野の草」が「人」と深いつながりがあるということが理解できます。

1. 人が造られる前の地の状況とその理由

(1) 状況

●1章2節では「地は茫漠として何もなく」とありましたが、2章5節前半も同様に、「地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった」とあります。1章と同様、地はすでにありますが、その「地」(「エレツ」אֶרֶץ)の状態がどのようなものであったのかを、2章5節は説明しています。

(2) 理由

●そして5節の後半には、「地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった」理由(כִּי)として、「神である主が地上に雨を降らせず、土を耕す人もいなかったからである」(聖書協会共同訳)と記されています。

2. 5節にある四つの否定的な表現

●5節には四つの否定的な表現がありますが、みな一様ではありません。
5節前半の「地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった。」には「テルム」(טֶרֶם)という副詞を2回用いて (動詞を伴いながら)、「まだ・・ない」という否定を表しています。「テレム・イフイェ」(טֶרֶם יִהְיֶה)で「まだなかった」を、「テルム・イツマーハ」(טֶרֶם יִצְמָח)で「まだ生えていなかった」を意味します。そのいずれにも「ホール」(כֹל)、あるいは、「ホル」(כָל־)を伴って、「一切~ない」と全否定の意味になっています。したがって、地にはまだ一本の野の灌木もなく、野の草も一切生えていない状態だったのです。

●5節後半の理由(כִּי)を説明する文節にも二つの否定の語彙が使われています。いずれも副詞ですが、ひとつは「ロー」(לֹא)で「神である【主】が、地の上に雨を降らせていなかった」からであり、もう一つは「アイン」(אַיִן)で「大地を耕す人もまだいなかった」からです。大地を「耕す」(「アーヴァド」עָבַד)人がまだいなかったという表現からは、人の務めが大地(=土「ハー・アダーマー」הָאֲדָמָה)を「耕す」ことにあるということが分かります。2章15節で、エデンの園に置かれた人の務めが「耕すこと」と「守ること」にあると記されているので、そこで再度取り扱います。2章5~7節の焦点は人が造られることに当てられています。

3. 「野の灌木」と「野の草」が意味するもの

●口語訳は「スィーアッハ」(שִׂיחַ)を「木」と訳していますが、新改訳では「灌木」と訳されます。「灌木」と訳された「スィーアッハ」(שִׂיחַ)の用例は、創世記21章15節とヨブ記30章4, 7節しかありません。創世記21章の場合の灌木は、野ではなく荒野にあるもので、アカシヤの木ではないかともいわれています。神がモーセに初めて現れた柴もアカシヤです。祭壇の薪もそうです。ヨブ記30章4, 7節では「藪」と訳されています。

●もしこの語彙が広い意味での「」を意味するとすれば、「野の草」とともに植物全体を象徴するものとなりますが、おそらく、それは表面的な意味で、真の意味するところは、「木」も「草」も人の食べ物となることを表す象徴です。また、木は「幕屋を造る際の材木となる木」、および「復活のいのちを表すアロンの杖となるアーモンドの木」(神の権威となる木)ともなることから、神と人とがともに住む上で必要なものであることを表しています。

●いずれにしも、「いのちの息」を吹き込まれた人が造られる前には、地の野(「サーデ」שָּׂדֶה)には「木と草」は何一つ存在していなかったのですが、逆に、人が造られるならば、それらが重要な意味を持つことになることを予知させます。

4. 「雨を降らせる」とは何を意味するのか

●「地」にある「野の灌木」(「スィーアッハ・ハッサーデ」שִׂיחַ הַשָּׂדֶה)、「野の草」(「エーセヴ・ハッサーデ」עֵשֶׂב הַשָׂדֶה)、「雨を降らせる」(「マータル」מָטַר)、「土地を耕す」(「アーヴァド」עָבַד)、これらはいずれも、「」、あるいは「イスラエルの民」の存在と深く関連し合っています。創世記はモーセによって書かれたことを思えば、当然のことなのです。

●つまり、野の灌木と野の草が生えるためには、雨を降らせる神である主と大地を「耕す」人(イスラエル)の共働の働きが不可欠であることを示唆しています。以下の聖句は、神である主がイスラエルの民に呼びかけているモーセの訣別説教です。

【新改訳2017】申命記32章1~2節
1 天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。地よ、聞け。私の口のことばを。
2 私のおしえは雨のように下り、私のことばは露のように滴る。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。

●ここでの「」(「マータール」מָטָר)は、「主のおしえ(「イムラー」אִמְרָה)」、すなわち、主の口から出ることば、神のことば(トーラー)を表わす比喩となっています。しかも、「雨」は「若草」と「青草」にいのちを与えて生かすものとしてたとえられています。「若草」(「デシェ」דֶּשֶׁא)と「青草」(「エーセヴ」עֵשֶׂב)とは、神のことばに生きる人のことで、ここではイスラエルの民を示唆しています。


2020.4.1
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