****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

16.「ヨハネの福音書9章の『生まれつきの盲人のしるし』」


16.「ヨハネの福音書9章の『生まれつきの盲人のしるし』」

ベレーシート

●今回は、ヨハネの福音書9章から、「生まれたときから目の見えない人」のしるしを扱います。いわば「盲人の奥義」とも言えます。神にとっては奥義ではありませんが、人にとっては奥義(隠された秘義)なのです。【新改訳2017】では「生まれたときから目の見えない人」(アンスローポス・トュフロス・エク・ゲネテース:ἄνθρωπος τυφλὸν ἐκ γενετῆς)とあります。ヘブル語訳では「母の胎にいた時から盲目として生まれた人」(イーシュ・アシェル・ノーラド・イッヴェール・メーレヘム・イッモー:אִישׁ אֲשֶׁר נוֹלַד עִוֵּר מֵרֶחֶם אִמּוֹ)です。「盲人」は四福音書の中で46回登場しますが、「生まれたときから目の見えない人」というフレーズはここ1回限りです。本メッセージでは「生まれつきの盲人」と表記することにします。

【新改訳2017】ヨハネの福音書9章1~7節
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。


1.「通りすがりに」(パラゴー:παράγω)

●1節でイェシュアは「通りすがりに」とあります。一見何ら目に留まらない表現です。ギリシア語の「パラゴー」(παράγω)の現在分詞が使われています。「パラゴー」は「パラ」(παρά)+「アゴー」(άγω)の合成語で「傍らを通る」を意味します。「通りすがりに」(新改訳2017)、「道の途中で」(新改訳改訂第三版)、「道をとおっておられるとき」(口語訳)、「進んでいくと」(新共同訳)などと訳されています。ヘブル語訳では「アーヴァル」(עָבַר)が使われています。「アーヴァル」は「ヘブル人」(イヴリート: עִבְרִית)の語源となっています。つまり「ヘブル人」とは「川を渡って来る者」という意味で、人間中心の世界から神中心の世界に、人間の価値観から神の価値観へと「渡って来る」という意味を含んでいます。つまり、イェシュアは御国の重要な事柄を、弟子たちにある実地訓練を通して教えようとされているのです。ちなみに、マタイの福音書にある「パラゴー」(παράγω)を例に挙げて、「パラゴーの奥義」を見てみたいと思います。

(1) 【新改訳2017】マタイの福音書9章9節

イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

●イェシュアがどこからどこに向かって進んで行くのかを知るためには、その前後関係を知る必要があります。マタイの8章から9章8節には「イェシュアに与えられた権威」が記されています。病を癒やす権威、みことばの権威、自然界を支配する権威、悪霊を追い出す権威、そして、罪を赦す権威です。その権威を間近に見た人々は恐れて、「このような権威を人(イェシュア)にお与えになった神をあがめた」(9:8)とあります。そして9節に「そこから進んで行き(παράγω)」とあり、罪人の代表ともいえる「取税人マタイが召し出される」という出来事が続いています。彼がイェシュアによって招かれたということで、取税人や罪人と言われた人々がイェシュアと食卓を共にします。ここに、罪赦された罪人たちがやがて「天の御国」において、主との食卓にあずかるという終末的祝福の型があります。さらに続いて、12年間不治の病であった長血の女が癒やされる出来事、また12歳で死んでしまった会堂司ヤイロの娘が起き上がる(よみがえる)出来事が記されています。「長血の女」も「死んだ娘」も、いずれも「12」という数によって「イスラエル」に起こる出来事を啓示する話となっています。それは、天の御国においてはどんな病も癒やされ(=救われ)、たとえ死んだ者でもよみがえるという出来事が啓示されているのです。あるいは前者が「イスラエルの残りの者」、後者は「旧約の聖徒たち」と理解することもできます。

(2) 【新改訳2017】マタイの福音書9章27節

イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、
「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。

●イェシュアが「進んで行くと」(παράγω)、そこには「目の見えない二人の人」が登場し、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んで目が開かれます。イェシュアが神のご計画に従って「進んで行くと」、「目の見えない人」たちの目は開かれ、「悪霊につかれた口のきけない人」の口はものを言うのです。これは、イェシュアこそ紛れもなく旧約に預言されていたメシアであることの証拠なのです。ところが、イェシュアは「目の見えない人」たちの目が開かれたことを「だれにも知られないように気をつけなさい」と厳しく命じます。しかしその命令は守られず、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言う群衆と、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言うパリサイ人たちの反応が真逆に分かれていくのです。とりわけパリサイ人の反応は、その後さらに発展してイェシュアに対する殺意へとつながっていきます。

(3) 【新改訳2017】マタイの福音書20章29~30節、34節

29 さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。
30 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。
34 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

●マタイの福音書16章21節以降から、イェシュアはエルサレムにおけるご自分の受難と死、そして三日目によみがえらなければならないことを、繰り返し弟子たちに示し始めます。しかし弟子たちはこのことをまったく悟ることができません。そしてやがてイェシュアの一行が公生涯最後のエルサレムに近づく一週間前に、三度目の「通られる」(παράγω)があります。そしてそこにも「目の見えない二人の人」が登場します。これは偶然ではなく、意図的にマタイは書いているのです。「目の見えない二人の人」はイェシュアによって目が開かれた後、イェシュアについて行っています。

●このようにマタイにおける三つの「パラゴー」から、イェシュアがメシアであること、また神がご計画しておられることに人々(私たちを含めて)の目を開かせようとしているさまが見えてくるのです。その意味で、わずか三回(9:9、9:27、20:30)しか使われていない語彙「パラゴー」(παράγω)はきわめて重要だと言えます。とすれば、ヨハネの福音書9章の「パラゴー」も同様に、イェシュアがメシアであることを啓示する出来事が語られようとしていることが分かるのです。

2. 「生まれたときから目の見えない人」についての問答

【新改訳2017】ヨハネの福音書9章1~3節
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。

●2節の「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」という彼らの質問はとても自然な反応に見えます。ところが弟子たちの質問は、「善悪の知識の木だけを取って食べた人」の反応であり、質問なのです。そこからは何も良いことは生まれてきません。あるのは「死」です。

【新改訳2017】創世記2章16~17節
16 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

●この箇所について、アシュレークラスでは原文を通して別訳を推奨しています。原文から以下のように訳せるのです。

16 神である主は人に命じられた。「あなたは園のすべての木から必ず食べなさい。」
17 善悪の知識の木(それだけ)から、食べてはならない。その木(だけ)から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。

●善悪の知識の木(に限定して)、それだけを食べるなら、弟子たちが質問したように、「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」という質問になるのです。ところが、いのちの木であるイェシュアの答えは異なっていました。イェシュアの答えは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざ(複数)が現れるため」でした。もし私たちがいのちの木を食べるならば、イェシュアが答えたような視点が開かれるのです。これが「霊の目が開かれる」ということですが、「生まれつきの盲人」を見ると、何とかわいそうな人かと思ってしまい、その理由を見つけようとします。それは私たちが「生まれつきの盲人」だからです。「生まれつきの盲人」とは他でもない、私たち自身なのです

●弟子たちの質問は、4章の「礼拝すべき場所はゲリジム山か、それともエルサレムか」(20節)、8章の「姦淫の現場で捕らえられた女を石打ちにすべきか、否か」(5節)と同様に、いずれも「善悪の知識の木に属する者」「肉に属する者」の質問です。これらの質問は人に死をもたらすだけです。しかしいのちの木であるイェシュアの答えは違いました。サマリアの女に対しては、「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」(4:23~24)と答え、姦淫の女を告発する律法学者とパリサイ人に対しては、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言い、姦淫の女に対しては「わたしもあなたにさばきを下さない(=罪定めをしない)。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」(8:11)と言われました。この姦淫の女はやがて登場する「イスラエルの残りの者」と解釈できます。そして生まれつきの盲人についての弟子たちの質問に対しては、「この人に(数々の)神のわざが現れるため」と答えます。それゆえ、盲人は死ではなく、いのちがもたらされる契機を秘めていることになります。

●「善悪の知識の木」だけを取って食べたユダヤ教(=神殿ユダヤ教、律法主義であるストイケイア)は死をもたらすだけで、人にいのちをもたらすことはできない宗教体系です。「善悪の知識の木」に限定された宗教(ユダヤ教)は「然りと否」で死をもたらします。しかし「いのちの木であるイェシュア」はいのちをもたらすのです。いのちとは「数々の神のわざが現れる」ことなのです。私たちはみな「生まれつきの盲人」です。しかしそれは神のわざが現れる機会・契機となるのです。それが誰に顕されるのかは誰にも分かりません。その機会が与えられているということが「盲目の奥義」なのです。イェシュアは「生まれつきの盲人」に対して、以下のように言われました。

【新改訳2017】ヨハネの福音書9章6~7節
6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

(1)「唾・泥・塗る・洗う」

●イェシュアは「地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗」りました。この一連のイェシュアの行為は何を意味しているのでしょうか。「地面」(カマイ:χαμαί/アダーマー:אֲדָמָה)は「土」と同義です。「土」と「唾」を混ぜ合わせることで「泥」になります。「唾」というと汚いイメージがありますが、ここではそうではありません。「唾」はイェシュアの口から出る「霊であり、いのち」(ヨハネ6:63) である神のことばです。ですから「泥」はイェシュアの人性と神性のミングリング(混ぜ合わせ)を意味し、その泥をイェシュアは「盲人の目(複)に塗り」ました。泥を目に「塗る」ことで、イェシュアの「いのちを与える霊」が人の霊の中に入ってそれと混ざり合い、イェシュアの霊と一つになることを意味します。「塗る」は「エピクリゾー」(ἐπιχρίω)で9章6節と11節のみです。ヘブル語訳も「マーラハ」(מָרַח)で、イザヤ書38章21節の一箇所だけです。そこでは「干しいちじくを腫物の上に塗る」ことで「治る」ことがわかります。干しいちじくにそのような効用があるというのではなく、神がそうしたことを用いて「治した」のです。

●その後で、イェシュアは彼に「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われました。これは内側で起こった霊的事実を公に証しするための「洗い」(バプテスマ)です。「シロアムの池」とはエルサレムにある池です。「シロアム」は「遣わされた者」で、冠詞付きの「ハッシローアッハ」(הַשִּׁלֹחַ)と表記します。それは「人となられたイェシュア」を表します。ですから、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」とは、神から遣わされたイェシュアによって、「あわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって救ってくださった」(テトス3:5)ことを証しするということです。バプテスマによって自分の古い人を洗い流すことで、私たちは霊によって生き、神のご計画の展望を持って生きることができるようになるのです。これが神の光(御顔の光)に照らされることの意味です。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録 3章17節
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない

●私たちはラオディキアの教会のようであってはなりません。自分が「生まれつきの盲人」であったことを忘れてはなりません。旧約には霊的開眼を求める者たちがいました。バビロン捕囚を経験した者たちです。

【新改訳2017】詩篇119篇18節
私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。
あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。
(原文直訳)
取り除いてください 私の目の覆いを。
そうすれば、私は目を留めることができます。
あなたの教え(トーラー)にある不思議さに。

●「目を開く」とは霊的な開眼を意味します。ここでの「開く」と訳されたヘブル語の「ガーラー」(גָּלָה)は「覆いを取り除く」ことを意味します。目の覆いが取り除かれることによって、「主のみおしえのうちにある奇しいこと(=不思議なこと)」である「キリスト」に目を留めることができるようになるのです。なぜなら、使徒パウロはローマ人への手紙10章4節で「律法が目指すものはキリストです」と明確に述べているからです。まさに詩篇119篇18節は預言的です。

(2) 霊的開眼の例としてのパウロ

●「パウロ」という名前は「小さな者」という意味です。しかし彼のヘブル名は「サウロ」(シャーウール:שָׁאוּל)で「尋ね求める者」という意味です。彼はユダヤ教の中で十分な教育を受け、ギリシア文化の中で訓練され、ローマ市民という三重の資格を持った人です。彼はストイケイアの中でより高い地位を求めていた人です。サタンはそうした彼を支配し、駆り立て、先導してイェシュアに従う者を迫害させました。教会の最初の殉教者ステパノが石打ちにされた後、「サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた」(使徒8:3)とあります。さらにエルサレムにいる者だけでなく、散らされた聖徒たちがいるダマスコにまで行って、そこにいる者たち(男も女も)すべてを縛り上げて、エルサレムへ引いて来て投獄しようとしました。そのための一切の権限を、彼は大祭司から受けていたのです。「教会を荒らす」とは、教会を完全に「荒らす、破壊する」(リュマイノマイ:λυμαίνομαιの未完了形)という意味で、ヘブル語では「へへリーヴ:הֶחֱרִיב」です。これはまさに「荒らす忌まわしいもの」(獣と呼ばれる反キリスト)と関連する語彙と言えます。そのようなサウロが、天からの光と天からの声を聞いたのです。

【新改訳2017】使徒の働き9章3~5節
3 ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
5 彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

●サウロが知らないにもかかわらず、「主よ、あなたはどなたですか」と言っているのは、あまりにも不思議な経験をしたからだと言えます。すると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」という答えです。死んで墓にいるはずのイェシュアの声を、彼は光に照らされて聞いたのでした。サウロはイェシュアを迫害しているという意識はありませんでしたが、この「わたし」という表現に、「イェシュアと彼を信じる者たちが一つであること」を悟ったに違いありません。主(יהוה)がイェシュア(יֵשׁוּעַ)であること、そしてイェシュアという名が救いを意味すること、それだけでサウロは福音を悟る契機となったのです。イェシュアは彼を盲目にし、三日後に霊の目を開かせたのです。そしてイェシュアこそメシアであることを悟らせました。このことを、「目から鱗のような物が落ちた」と記しています。

【新改訳2017】使徒の働き9章8~12, 17~22節
8 サウロは地面から立ち上がった。しかし、目を開けていたものの、何も見えなかった。
それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。
9 彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。
10 さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。「アナニア」に神のあわれみ「ハーナン: חָנָן」があります。
主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。
11 すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。
12 彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」
17 そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。 あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
18 するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、
19 食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、
20 ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。
21 これを聞いた人々はみな驚いて言った。「この人はエルサレムで、この名を呼ぶ人たちを滅ぼした者ではないか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではなかったか。」
22 しかし、サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

●「ますます力を増し」(未完了形)の「力」とは聖霊による力です。その力が増し加わることによって、「イェシュアがキリスト(メシア)であること」を聖書によって証明する (=論証する) ことができ、「ユダヤ人たちをうろたえさせた」のです。「うろたえさせる」(スュケオー:συγχέωの未完了形)とは「狼狽させ続ける」ことで、ユダヤ人にとって、自分たちが拠って立っている基盤を根底から崩される恐れを意味します。迫害する側であったパウロが、今や迫害される側となってしまうほどに完全に変えられてしまったのです。まさにパウロは神による驚くべき「立ち返り」(シューヴ:שׁוּב)の模範であり、「シロアムの池で目を洗って、目が見えるようになった盲人」と言えます。

べアハリート

【新改訳2017】イザヤ書35章4~6節
4 心騒ぐ者たちに言え。
「強くあれ。恐れるな。
見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。
神は来て、あなたがたを救われる。」
(※「復讐=神の報い」がやって来るときとは、キリストの再臨の時です)
5 そのとき、目の見えない者の目は開かれ
耳の聞こえない者の耳は開けられる
6 そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね
口のきけない者の舌は喜び歌う
荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。

●これは御国のヴィジョンです。キリストの再臨(携挙・地上再臨)の時、「盲人、ろう者、足の不自由な者、口のきけない者」が癒やされるのです。これらはメシアによってのみ癒やされます。御国の民は神の数々の恵みのわざに与るのです。

三一の神の霊が、私たちの霊とともにおられます。

2024.9.01
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