****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

霊性の回復への道としての「詩篇の瞑想」

2. 霊性の回復への道としての「詩篇の瞑想」

1. なぜ、詩篇の瞑想なのか

  • この問いは私にとっていつも大きな問いです。それは相撲で言うところの「四股を踏む」ことにたとえられます。なぜ、相撲の力士たちが、しかも幕下の力士から横綱に至るまでみな同じく四股を踏むのか、単なる準備運動だというだけでは済まない、口で説明できない奥深いものがあるのだそうです。四股を踏むのは相撲の基本中の基本であるといわれながら、きちんと四股を踏める人はきわめて少ないそうです。きちんとした力士が一日にどのくらい四股を踏んでいるかというと、200~300回だと言われます。これを日々繰り返すことが基本なのです。
  • 詩篇を瞑想することは、神とのかかわりにおいて、人とのかかわりおいて、自分とのかかわりにおいて、そして敵とのかかわりにおいて、力士が四股を踏むような鍛練と似ています。
    「幸いなことよ。まことに、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむその人。」(詩篇1篇3節)とあります。「昼も夜もその教えを口ずさむ」-これが霊的な意味での四股を踏むことです。「口ずさむ」と訳された原語はハーガーで詩篇における瞑想用語の一つです。この場合の瞑想とは、単なる頭だけの問題ではなく、心も体も生活すべてを含めたライフスタイルを含んでいます。

2. 神の恩寵の世界を引き出していく修練としての瞑想

  • 信仰の世界においても、瞑想は神の恩寵の世界を引き出していく修練だと信じます。地道な瞑想の修練を通して、次第に、神の民は「主の教えを喜び」と感じるようになり、「幾千の金銀にまさるもの」「蜜よりも甘く」感じられるようになり、ついには「あなたのみことばは私を生かします」と告白できる経験を豊かに味わえるようになっていったのです。多くの霊想書を書いたアンドリュー・マーレーという人ははっきりと「教会が衰退するのは、神を瞑想することをおろそかにしたからである。」と述べています。

3. キリスト教の歴史における詩篇の瞑想の伝統

  • 相撲の力士たちが例外なくみな四股を踏むことが基本中の基本として実践されているように、詩篇を瞑想することは、神を信じる者にとっていつの時代においても基本といえます。というのも、キリスト教の歴史の中でベネディクトをはじめとする修道院の系譜において、あるいは、キリスト教神学の父アウグスティヌスや宗教改革者のルターやカルヴァンたち、および大衆伝道者のスポルジョンといった人々がいかに詩篇の瞑想を大切にしてきたかを考えるなら容易に理解できます。今日に生きるキリスト者たちも、再び、「詩篇の瞑想」の伝統を回復して取り組む価値があると信じます。
  • 詩篇の世界には、旧約と新約を通して流れる神の救いの計画の全貌があり、神と人、あるいは敵とのかかわりの妙のすべてがあります。そこには、いつの時代の人々においても汲みつくすことのできない霊的な富が無尽蔵に隠されています。それゆえ、霊性の回復への道は地道な取り組みこそが鍵だと信じます。早道、近道はないようです。

2009.12.21


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