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門、入口、垂れ幕(「わたしは門です」)改


4. 門、入口、垂れ幕(「わたしは門です」改)

【聖書箇所】出エジプト記26章36節、27章16, 18、38章18節

ベレーシート

●幕屋について学ぶ時に大切なことは、「なぜ」と問いかけることです。そもそも幕屋は天における神の住まいの「影」であり、「本体」を啓示しています。すべて(材料、寸法、比率、色)がひとつひとつ意味を持っているのです。ですから、これは何を象徴しているのかと問いかけることが重要なのです。これはイェシュアが御国のことをたとえで語られたことと同様です。イェシュアが「たとえ」を用いて語られたのは、人々に分かりやすく語るためではありません。人々がたとえを聞いて、「その意味は何ですか」と問いかけない限り、その意味は隠れたままなのです。そこで、三つの門が意味することは何かを問いかけてみましょう。さらに、大庭に入る門(幕)がなぜ東側にあるか、門の幅の比率が入って行く順に2対1対1となっているのはなぜか、と問いかけ続けながら、その意味について考えてみたいと思います。

1. 三つの門の幕の材料と模様と柱の位置

(1) 幕の用語

三つの幕.JPG

●右図の三つの幕のうち、神の民が神を礼拝するために最初に通る門の幕(A)と祭司が入ることのできる聖所の幕(B)は同じ語彙です。それは「マーサーフ」(מָסָךְ)です。しかし聖所と大祭司が年に一度しか入ることのできない至聖所とを仕切っている「垂れ幕」(C)には「パーローヘット」(פָּרֹכֶת)という語彙が使われています。この垂れ幕には「ケルビム」(「ケルヴィーム」כְּרֻבִים)の模様が刺繍されています。大庭に入る門の幕と聖所に入る幕が同じ語彙であるということは、おそらく幕の模様が同じであると考えられます。

●今日、いろいろな幕屋のレプリカが造られており、インターネットでもそれを見ることができますが、使われている素材は同じであったとしても、その模様はみな異なっています。

(2) 「青色、紫色、緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布」

●大庭に入る門の幕と聖所に入る幕(=「マーサーフמָסָךְ)の模様は以下の通りです。

画像の説明

●あるいは、以下のような模様もあります。いずれも重要なことは、「青色、紫色、緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布」という同じ材料で作られていることです。

画像の説明

至聖所への垂れ幕.JPG

●ちなみに、至聖所の入り口の「垂れ幕」(「パーローヘットפָּרֹכֶת)の模様は右の通りで、ケルビムが巧みに織り出されています。また、このケルビムの模様は幕屋本体に最初にかぶせるおおい(内側の最初の幕)にも織り出されています。つまり聖所では、入り口の幕以外はすべてケルビムの模様を見ることができるということになります。「垂れ幕」とそれに巧みに織り出された「ケルビム」については別の機会に取り扱う予定ですが、「巧みな細工」とは、両面(表裏)を貫いてある織物のことで、刺繍よりももっと高度な技術を擁する織物だということです。

(3) 色の象徴的意味

●幕はいずれも「亜麻布」を下地として、その上に他の三つの色の撚り糸が織り込まれています。四つの色はイェシュアのご性質を象徴しています。

(1)「青色」
●青は果てしなく広がる天の色で、イェシュアが「肉において現われた神」であることを示し、かつ、神の恵みとまことを象徴しています。
●祭司の着る「聖なる装束」には「金色、青色、紫色、緋色」が使われます(出28:6, 15/39:2, 5, 8)。特に、「金色と青色」とは切り離させない関係にあり、「金」(「ザーハーヴ」זָהָב)と「青」(「テヘーレット」תְּכֵלֶת)の二つを結ぶ接続詞がありません。たとえば、
①幕屋をおおう一番内側の幕には、金の留め金が青いひもに通され、その留め金で幕をつなぎ合わせています(出26:4, 6)。
②大祭司の着るエポデが胸当てからずり落ちないように、金の輪に通された青いひもでしっかりと結び付けられています。
③聖所の中に置かれた純金で作られた聖なる用具は、移動の際、契約の箱を除いてすべて青い布でおおわれました(民数記4:7~12)。
●「金色」が御子イェシュアの栄光、永遠性といった本質を表すとすれば、「青色」は主の愛と恵みといった神のご性質を表していると言えます。天の青の美しさは、イェシュアが地上での歩みの中で豊かに表されています。
●天的な色、また神の恵み深いご性質の象徴である「青色」は、着物のすそのふさに付けられたひもの色です。青いひものついた服装は、神の民が歩くとき、彼らが神のものとされていることを思い起こさせました。しかし、律法学者たちやパリサイ人たちはこのひもの本来の目的を忘れ、自分たちが神の律法を堅く守っていることを称賛されたいがために青いひもを長くしてしました。それは人目をひくためであり、世から聖別されているという評判を得るために着飾ったのです。反対に、信仰によってイェシュアの着物のふさに触れた長血の女は、たちどころにしてきよめられています。

(2)「紫色」
●青と緋は対照的な色です。幕屋の織物で青色と緋色が隣接して並べられることはありません。二つの強烈な対照性のためです。青色と緋色を混合したのが紫色(「アルガーマーン」אַרְגָּמָן)です。それはイェシュアが「神であり、人である」(インマヌエル」=「神がわれらとともにおられる」)という不思議な存在を象徴するだけでなく、メシアとしての「王」を象徴する色でもあります。紫色でも赤紫に近い色とされています(マルコ15:17, 20/ヨハネ19:2, 5)

(3)「緋色」
●緋色は完全な人として来られたイェシュアを象徴しています。しかも、受難を通らなければならないことを示しています。このことは「緋色」が示している重要なメッセージです。
●「緋色」を意味するヘブル語は二つあります。ひとつは「トーラアット」(תוֹלַעַת)、もうは一つは「シャーニー」(שָׁנִי)です。イザヤ書に「たとい、あなたがたの罪がのように赤くても、雪のように白くなる。たとい、のように赤くても、羊の毛のようになる。」(1:18)とあります。
「緋」と訳された「シャーニー」(שָׁנִי)は二度染めした真っ赤な色(血の色)です。また「紅」と訳されたことば「トーレーアー」(תּוֹלֵעָה)はえんじ虫の一種の昆虫で、雌が産む赤い物質を含んだ卵を染料に用いるために、「トーラット・シャーニー」(תוֹלַעַת שָׁנִי)と呼ばれます(出25:4/26:1, 31, 36/27:16など)。実際の色は紫に近い深紅のようです。これは贖罪的意味を持った色です。

アネモネ.JPG

●青色が天の象徴的な色であったように、緋色は地上を象徴する華麗な色です。イェシュアが「野のゆり」を見なさいと言ったその「野のゆり」は、ヘブル語の「シューシャン」(שׁוּשַן)の複数形で、その花の色は緋色です。
●また、イェシュアは「最後のアダム」と言われます。土から造った最初の「アダム」(אָדָם)の語源は「アーダム」(אָדַם)で、その形容詞「アードーム」(אָדֹם)は「赤い」(血の色)という意味でもあります。雅歌5章10節には、花婿のことを「赤く」(「アードーム」אָדוֹם)と表現していますが、それは「顔つやが赤い」「血色の良い」という意味で、力といのちに満ちた象徴です。ダビデも若い頃は「紅顔」の美少年だったとあります(Ⅰサム17:42)。「紅顔」は「血色の良い」(אַדְמֹני)ことを表わしています。

④「亜麻布の(白)色」
●「亜麻布の色がない」のは、イェシュアが何の汚れもない義なるお方(無罪性)であることを象徴しています。「撚り糸で織られた亜麻布」は、古代、エジプト人だけが「漂白された上等の亜麻布」を作っていたようです。それは今日でも複製することのできないほどに、上等で繊細なものであったようです。

●出エジプト記の中に少なくとも24回ある「青色、紫色、緋色」という色の順序は決して入れ変わることはありません(亜麻布の白は最初に来たり、最後に来たりしますが)。これらの色はイェシュアを表しています。マタイはこのイェシュアの名を「インマヌエル」と呼ばれるとしました。なぜなら、「インマヌエル」とは、「神が人とともにおられる」という意味だからです。まさにそれを象徴しているのが、三つの門(入口)の幕に織り出された四つの色(青、紫、緋、白)なのです。

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(4) 幕の面積

●幕屋の入口の三つの幕はすべて「青色、紫色、緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布」という同じ材料で作られており、以下のように、面積はいずれも同じく100平方キュビトだということです。

① 大庭への入口の幕(長さ/幅20キュビト、高さ5キュビト)
② 聖所への入口の幕(幅10キュビト、高さ10キュビト)
③ 至聖所の垂れ幕(幅10キュビト、高さ10キュビト)

●すべての幕の面積が等しいということは何を意味しているのでしょうか。100という数字を表わすヘブル文字は「コフ」(ק)です。これは「希望」を表わすヘブル文字です。神は門をくぐるすべての者に対して等しく、神と人とが共に住むことの希望を備えておられると言えます。

●庭への入口は幅が20キュビトと広いですが、高さが5キュビトだけです。ここでの広さは神の愛の広さを示しているように思います。しかし、聖所と至聖所の入口は幅は10キュビトで、庭の入口の半分ですが、その代わり、高さが2倍の10キュビトになります。10キュビトの高さは少なくとも4.5mはあります。従ってだれもその高みにまで手を伸ばすことができないような神との至高の交わりとなります。門(入口)は狭くなり、それを味わう人はおのずと少なくなりますが、キリストを深く知る、より崇高な、より深い神との親密な交わりが備えられていることを示しています。

●これらの幕は、いずれも入口としての役割を持っており、かつ外部から近づく人の目から内部を覆い隠しています。従って、それらは自ら神を尋ね求めることがなければ、神のご計画における希望を知ることも、また味わうこともできない「仕切り」ともなっているのです。


2. 大庭、聖所、至聖所の入口の幕を支えている「柱」

●さて次に、それらの幕を支えている大庭、聖所、至聖所の入り口の「柱」の数とその配置を見てみましょう。

①「大庭への入口の柱」は以下のように4本です。

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②「聖所への入口の柱」は以下のように5本③「至聖所への入口の柱」4本です。その配置は以下の通り。

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●聖書では柱の数が記されていても配置については書かれていないため、以下のような柱の配置図もあります。しかし、柱を組み立ててから「契約の箱」などを入れることを考えると、以下の配置図では、聖所の入口が狭く、また至聖所の垂れ幕を支える柱に台座があるとはいえ、不安定になると考えられます。

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3. 「わたしは門です」

●聖書で神が語られる場合には、至聖所の部分から語られます。しかし、私たちがそこに向かって行く時には、反対からです。以下の図は、私たちが礼拝する流れを記しています。最初の門を通って、大庭に入り、そして祭壇でいけにえをささげます。イスラエルの民の場合はそこまでです。後は、祭司たちが水で身をきよめ、聖所に入ります。そこで祭司たちは聖所の中で燭台に火をともし、各部族分のパンを机に備え、そして香壇で香をたきます。その奥は、大祭司のみ、年に一度、しかも血を携えて入ります。ただしモーセは出入り自由でした。神から呼ばれる時にはいつも至聖所に入って神の声を聞いたのです。

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●イェシュアが語られた門に関する三つのことばを取り上げたいと思います。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書10章9節
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。


●しかし重要なことがあります。単に、最初の入口を通って幕屋の大庭に入るだけではいのちを得ません。さらに聖所の入口と至聖所の入口(垂れ幕)を通らなければいのちを得ないのです。ただその二つの門は最初の入口よりも半分の広さしかありません。つまり「狭くなっている」のです。それゆえ、イェシュアは警告して次のように言われました。


【新改訳改訂第3版】マタイの福音書7章13~14節
13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。


●新約聖書で使われている「門」と訳されたヘブル語は、いずれも「ペタハ」(פֶּתַח)で、「入口」とも訳されます。


【新改訳改訂第3版】ルカの福音書 13章24節
努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。


●ここで「努力して」とはどういう意味でしょうか。多くの日本語訳を見るとどれもみな「努力する、全力を尽くして、懸命に」という意味で訳されています。それもそのはず、原文のギリシア語は「アゴーニゾマイ」αγωνιζομαιという動詞が使われており、その語義は「競技で勝敗を競う、福音のために苦闘する、獲得しようと努力奮闘する」ことだからです。

●使われているギリシア語の語義がそうであったとしても、そこでの文脈は神の国について「からし種」と「パン種」の二つのたとえが語られた後です。前者のたとえはきわめて小さくてもやがては全地を支配するようになることを意味し、後者は目には見えなくてもやがては内に拡大する力をもっていることを表わしています。神の国は今は小さく目に見えずとも、やがては全地をおおうほどに拡大することが語られた後に、先のことばが語られています。「狭い門」が意味するのも同じです。狭い所に大勢の者が押しかけることで狭き門というのであれば、「アゴーニゾマイ」αγωνιζομαιでも構わないはずです。しかしここで言われている「狭き門」とは「それを見出す者がきわめてまれである」という意味です(マタイ7:13~14も参照)。とすれば、「努力して」という言い回しはどうみても不自然です。

●そこでヘブル語ではどう訳しているかを調べてみると、そこに使われいる語は「アーマツ」の強意形ヒットパエル態の命令形「ヒットアンメツー」(הִתְאַמְּצוּ)です。「強くあれ、雄々しくあれ」という有名なフレーズがあります。ヘブル語で「ハザク・ヴェ・エマーツ」と言います。後者の「エマーツ」אֱמָץが「アーマツ」אָמַץの命令形です。つまり、これは「雄々しくあれ」という激励用語です。このフレーズが語られた背景には、目に見える敵に対する「恐れ」がありました(ヨシュア記1:9)。しかし、ルカ13章24節のことばの背景にあるものは、マイノリティー・コンプレックス。つまり、マイノリティー(少数であること)に対する恐れです。ルカ12章32節にも「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがのたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」とあります。小さいこと、少ないことを恐れる者に、イェシュアは、神の国は将来必ず実現することを語り、「多くの者たちが見向きしないことであっても、勇気をもって神の国を求め続けることを堅く決心せよ」と励ましているのです。

●「寄らば大樹の陰」ということわざがあるように、だれでも大きいことや多いことは、安心ができ、良いことだと考えます。ですから、多くの者たちがそうした門から入り、そうした道を歩もうとします。しかし、イェシュアの言われるのはそれとは逆です。多くの者たちが見向きしない門、注目しない道を歩むためには、マイノリティー・コンプレックスに陥ることなく、常に「雄々しくあり続ける」ことが必要なのです。したがってここは「努力して」というよりも、「自ら雄々しくあって、狭き門から」と理解する方が自然な気がします。


●すべて神を礼拝する者たちは、この東にあるただ一つの門を通らなければなりませんでした。ユダヤ人も異邦人も、割礼の有無、奴隷も自由人も一切区別なく、すべての者が東の門から入らなければなりません。東から西へ向かって、これが礼拝の順序でした。

4. 幕屋の門(入口)はなぜ東側なのか

門は東に.JPG

●イェシュアは、「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」(ヨハネ10:9)と言われましたが、それは幕屋に入って神と共に住む(交わる)唯一の門だという意味でもあります。では、なぜその門が東側にあるのでしょうか。

●「東」というヘブル語は「ケデム」(קֶדֶם)です。「東の方、東側」は「ケーデム」(קֵדֶם)です。いずれも名詞ですが、この語の元になっている動詞の「カーダム」(קָדַם)は次のような意味があります。東は太陽が上って来る方角ですが、そこから「会う」「迎える」「出迎える」という意味を持っています。しかも動詞の場合には強意形ピエル態で使われます。たとえば、詩篇21篇3節では「あなたは彼(王)を迎えて(קָדַם)、すばらしい祝福を与え、彼のかしらに純金の冠を置かれます」とあります。同じく詩篇59篇10節では「私の神は、私を迎えに(קָדַם)来てくださる。」(新共同訳では「神は私に慈しみ深く、先立って(קָדַם)進まれます。」)。つまり、動詞の「カーダム」は「先立って、出迎える」という神の先取的な恩寵的行為を表わす意味を持っているのです。それゆえに、入口が東の方になければならないのです。

●ヨハネの福音書3章に登場する人物に「ニコデモ」がいます。彼はパリサイ人であり、イスラエルの教師です。その彼がイェシュアのところに尋ね求めて来たのです。ニコデモの方から尋ね求めて来たかのように記されていますが、イェシュアは「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」(ヨハネ6:44)とありますから、彼は御父に引き寄せられて来たと言えます。その「ニコデモ」の名前をヘブル語では「ナクディーモーン」(נַקדִּימוֹן)と表記します。これは「カーダム」(קָדַם)に、受動態の接頭辞「ヌーン」(נ)がついた形とみなすことができます(ヘブル語聖書にはそのように使われている用法はありませんが)。つまり、神に「出迎えられた者」と考えられるのです。事実、ニコデモはイェシュアの弟子となりました。

●その彼にイェシュアはきわめて重要な真理を語られました。その真理とは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」ということです(同3:3)。同義的並行法で換言すると、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(3:5)となります。新改訳は「水と御霊によって」と訳していますが、「によって」の部分のギリシア語は「エク」(ἐκ)です。この前置詞の基本的な意味は「~の中から」です。もしそのように訳すならば、もう一度「水と御霊の中から生まれること」が「新しく生まれること」だと理解できます。「水と御霊(神の霊)」と言えば、創世記1章2節の混沌の状態です。そこからもう一度創造されることに等しいのです。

●このことをパウロは、「キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)と表現しました。この新創造が実際になされるのは、神のご計画における最終の段階において、古いもの(以前の天と以前の地)が過ぎ去って、新しい天と新しい地になってからのことです。つまり「水と御霊(=神の霊)の中から」とは、再び、新しく創造されることを意味しています。そうでなければ、永遠の御国(神の国)、すなわち「新しいエルサレム」に入ることはできないという真理です。キリストを信じるということは、この永遠の御国に入ることが保証されたことを意味するのです。神はその手付金として「御霊」を与えてくださり、そのことを信じて望みを持つことができるように、またその前味を味わえるようにしてくださっています。しかしそれはどんなに求めたとしても、それはあくまでも「手付金」「前味」「おぼろげ」「からし種」程度なのです。

●アダムとエバが罪を犯したために、人は、神と共に住むことのできたエデンの園の東の門から追放されてしまいました。しかし、再び、今やその門がキリストによって東の方向に向かって開かれているのです。「わたしはその門です」(「アーノーヒー・ハッパータハ」אָנֹכִי הַפָּתַח)。「門」(入口)はただひとつしかありません。すなわち、イェシュアという門以外に、救いの門はないのです。

●広い道を行く多くの人々は、「宗教なんてみな同じだ。どんな道(宗教)を通っても行き着く所はみな同じ山の頂上だ。」とか、「そもそもイエス・キリストだけが真理だと言い張ることが、宗教対立を引き起こしているのだ。」と言うかもしれません。しかしそうした考えに流されることなく、イェシュアの言ういのちに至る門が狭いものであることを信じて、そこを通って行くことがいのちを得る道であることを堅く信じなければなりません。

2016.2.5


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