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過越の祭りの晩餐

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No.3  過越の祭りの晩餐

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ベレーシート

  • イェシュアはユダヤ当局によって逮捕される夜、ユダヤの習慣にしたがって、弟子たちに過越の祭りの食事の準備をするように指示されました。エルサレムのある二階にある大広間が確保されて、その夜に食べるパンや小羊が整えられます。そして「時が来た時」、イエスは12弟子たちとともに食卓につかれました(ルカ22:14)。そしてイエスはこう言われたのです。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに待ち望んでいたことか。」と。つまり、イエスはこの過越の食事をすることをとても楽しみしていたというのです。なぜ、そんなにも楽しみにしていたのでしょうか。なぜ、それを待ち望んでいたのでしょうか。聖書における「食事」の意味は、神と人との交わりを意味しています。「過越の祭り」における食事は、イスラエルのいわば建国となった出来事を祝う食事でした。ところが、この過越の食事が、イェシュアによって「最後の食事」となると同時に、「新しい食事」ともなるからです。
真の晩餐の風景.JPG
  • 「最後の晩餐」と題されたレオナルド・ダ・ピンチの絵は有名です。その絵はイェシュアが十字架にかかられる前の晩に、イェシュアと弟子たちとが食事をしている風景を描いたものですが、。実際のユダヤ人たちの食事の風景とは異なります。実際の食事は右図にあるように、横になった形で食事をしていたようです(当時のユダヤ人たちの食事)。「最後の晩餐」という表現は聖書の中にはありません。しかしこの表現が正しく使われるとすれば、イスラエルの歴史の中でずっと継続してきた「過越の祭りの食事」が啓示してきたことの真の出来事が実現して、「過越」をルーツとしてきた食事(祭りは晩から始まるために「晩餐」と呼ばれます)、今晩で最後となるという意味で理解される必要があります。
  • 「過越の祭り」も「過越の食事」も神によって制定されてきたものですが、その制定された「過越の食事」が意味してきたことが、今晩の食事を契機に終わりを告げるという意味です。つまり、ユダヤにおいて継承されてきた「過越の祭りを祝う食事」の形態は、今夜限りで廃止されるという意味です。ですから、イエスは続けて弟子たちにこう言われました。「あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就されるまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」と。このことばの意味することは、「過越が神の国において成就するあかつきには、再び、食事をする、ただしその食事は、婚宴としての食事(盛大な晩餐会)」という含みがあります。それは神の国が完成する時、つまり、キリストの再臨を待たなければなりません。その時が来るならば、規模においても、質においても、私たちの想像を超える規模の大祝宴をするが来るからです。それまでイェシュアは弟子たちと共に食事をすることはないが、「イェシュアを覚えるための食事」をするようにと、新たな過越を意味する食事を制定されたのです。それが、今日の「主の晩餐」「聖餐」と呼ばれるものです。

1. 「過越の祭り晩餐」の席で語られた「聖餐」の制定の背景

(1) 第一の杯

  • イェシュアは食卓についた弟子たちに、まず当時のユダヤの過越の食事の習慣にしたがって、杯を取り、感謝をささげて、「これを取って、互いに飲みなさい」と言われました。この杯は第一の杯といって、食卓を聖別する杯です。いわば、「過越の祭りを祝って、まずは乾杯」といったところのものです。
  • それから、弟子たちは食卓に着くのですが、このとき、問題が起こりました。どんな問題かというと、それは席順の問題でした。だれがどこの席に着くのか、だれが一番偉いかということで弟子たちの間に言い争いが起きてしまったのです。そのとき、イエスはやおら手ぬぐいを腰に巻き、水の桶に水を入れ、弟子たちの足を洗いはじめました(ヨハネ福音書13章に記されている洗足の出来事)。
  • イェシュアが弟子たちの足を洗い終わると、いよいよ食事が運ばれてきました。当時の「過越の食事」のメニューは決まっていました。焼かれた小羊の肉と種の入れないパン、ぶどう酒、そして苦菜などです。それを食べながら、イエスは弟子たちうちの一人が裏切ることを予告されます。そして主が、苦菜に浸したパン切れをユダに渡しました。彼はなにも言わずにその食卓から離れ、暗やみに一人出ていきました。

(2) 第二の杯

  • 聖書には記されていませんが、この後、第二の杯と言われる二杯目の杯を飲んだ後で、ホスト役のイエスは、過越の祭りの意味を説き明かしたはずです。それがユダヤの「過越の食事」の伝統的な順序だったからです。
  • そこで今回は、過越の祭りのルーツとなった出来事をお話したいと思います。なぜなら、その出来事が啓示してきた真の出来事がイェシュアの十字架の死という出来事によって実現するからです。

2. 過越の祭りのルーツ

(1) イスラエルの歴史において最初の日となる記念すべき出来事

  • 神はエジプトからご自分の民を解放するために、モーセとアロンをパロのもとに遣わします。ししそう簡単に解放するはずがありません。奴隷によって成り立っていた国ですから、彼らが勝手なことをしては、ましてやそれがいなくなったら大変なことになってしまうからです。そこで神はエジプトに対して、災いを与えます。そしてエジプトの神々にまさる力を見せつけていきます。むしろパロはより心をかたくなにしていきました。そこで主なる神は、最後の災いとして、エジプト中の初子を死に至らせるという禍を与えようとします。これは人も家畜もすべて、初子が死ぬという禍です。この10番目の禍によって、神はイスラエルとエジプトをはっきり区別することをします。つまり、神の指示によってこの禍からイスラエルは守られるようにしたのです。その指示が次に記されていることです。

(2) 「過越の祭りのルーツ」

①家族ごとに1頭の羊を用意する。アビブの月の10日目に羊を選ぶ。ユダヤ暦の最初の月とするアビブの月ー(日本にも1月を睦月、2月をきさらぎ、3月を弥生、4月を卯月、皐月(さつき)、水無月、文月、葉月・・というように、アビブの月とは3~4月頃です。その月の10日目のこと。
②その羊は傷のない1歳の雄であること。
③その羊を四日間見守ることーそれは傷とか病気とか、どこが欠陥がないかをチェックするためー

小羊の血(過越).JPG

④14日目の夕暮れにその羊をほふり、その血を取って、イスラエルの家々の二本の門柱とかもいにそれをつける。
⑤その夜、その羊の肉を火に焼いて食べる。それと種を入れないパンと苦菜を添えて(エジプトの苦しみを思い起こすため)食べる。
⑥焼いた羊の肉を朝まで残してはならない。
⑦急いで食べること(脱出するために)。
⑧その月の14日目の真夜中に、主はエジプト全土を巡り、人をはじめ家畜に至るまで、すべての初子が打たれる。しかしイスラエルの家々の門柱とかもいに塗られた血を見て、さばきはそこを通り越すので、イスラエルの家には滅びは起こらない。

※この「過越」のことをヘブル語で「ペサハ」と言います。動詞のパーサーからきたことばですが、パーサーは「過ぎ越す」「通り越す」という意味だけでなく、「覆う」(親鳥が雛をその羽で覆うように)、「守る」という意味もあります。エジプト全土に死をもたらす災いが襲う時、門とかもいに塗られた小羊の血が災いから守り、その結果として災いが過越して行ったのです。この禍いによってエジプトの王パロは敗北を認めざるを得ませんでした。即刻、エジプトから出て行けということになったのです。初子たちの葬儀をする中、イスラエルの民たちは急いでエジプトを脱出します。このように、過越の出来事によってイスラエルの民たちは4百年にわたるエジプトでの苦しみから解放され、神の約束の地に向かって旅立ったのです。

⑨神はこの日を「主の祭り」として祝い、代々にわたって守るべき「永遠のおきて」としたのです。

(3) 過越の祭りの制定

  • 主の定めた永遠のおきてによれば、最初の月(アダブの月)の14日の夕方から21日の夕方まで以下のことが定められました。
    ①七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第1日目には、家からパン種を取り除かなければならない。種を入れたパンを食べる者はイスラエルから断ち切られる。
    ②第一日と第七日には聖なる会合を開くこと。この期間中はどんな仕事もしてはならない。ということが定められました。

(4) 「ペサハ」の歴史的経緯

  • 聖書の中に「過越」ということばを調べてみると、それがどこで出て来るかによって、イスラエルの歴史において、神が制定した「過越の祭り」がどのように扱われたかが見えてきます。

①民数記9章2~5節
エジプトを出た民たちは、一年後にシナイの荒野で過越のいけにえをささげています。

②ヨシュア記5章10節 
40年後にイスラエルの民はヨシュアを指導者としてカナンの地へと入って至った後、ギルガル(本営)に宿営しているとき、エリコの草原で民たちは過越のいけにえをささげました。

③Ⅱ歴代誌29章1~36節 ヒゼキヤの宗教改革(B.C.720年)、
ヒゼキヤがまず取り組んだのは宗教改革であり、その改革事業の幕開きは宮きよめでした。父が死んで即位すると、時を移さず「その治世の第一年」に宮きよめに着手しました。はからずもその月は「第一の月」、つまり「ニサンの月」であり、過越の祭を行うべき月(出エジプト記12章)でしたが、宮きよめが終っていなかったので実施出来ませんでした。ヒゼキヤは人々に計り、その過越の祭を翌月の「第二の月」にずらして行うことを決めました。ヒゼキヤの呼びかけによっておびただしい大集団がエルサレムに集い、過越と種を入れないパンの祭が挙行されたのです(13~15節)。喜びに満ちた盛大な過越は七日間が終ってもなお七日間延長され,王とつかさたちからの多大な贈り物が参加者に与えられたことも加えて、全集団は在留異国人も含め、かつてなかった主の祝福を実感し、感謝と賛美にあふれた祭りであつたことが記されています(21~27節)。

④Ⅱ歴代誌35章 善王ヨシヤ B.C.637年
ヨシヤもヒゼキヤに並んで良い王となった人物です。祖父のマナセは最悪の王でした。彼の治世第18年における律法の書の発見もありましたが、律法の書がそれまで見失われていたのは、恐らくアハズやマナセの治世のような時勢に神殿と律法の書への人々の関心が低下したため、がらくたと一緒にしまい込まれたことが考えられます。しかもこの書は申命記だったようです。

ヨシヤ治世の過越の祭は,ヒゼキヤの盛大さを超えるものであったようです。まさに過越の祭りをするということは、神の民としての存在のルーツとアイデンティティが確立されることなのです。

⑤エズラ記6章19~22節 
バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民たちは、イスラエルに戻って神殿完成したあと、指導者エズラによって再び過越の祭が守られました。

⑥イェシュアの時代
しかしその間に、ユダヤ人たちは敵国の支配の中にあって、神殿の働きを担うサドカイ派という祭司長たちは敵国と手を組み、宗教によってもたらされる膨大な富を手にする仕組みをつくりあげました。彼らは真の信仰からは遠い状態で、宗教を食い物にする者たちだったのです。パリサイ派の律法学者たちも人々から尊敬されることを求め、律法の解釈を振りかざすことによって、それなりの権威をもって民衆を支配するという社会構造を作り出していました。そこにメシアであるイエシュアが登場したというわけです。このメシア・イェシュアの登場は、それまで胡坐をかいていた彼らの権威の座をゆるがす存在となったのでした。それはイェシュアが真の律法(神の教え)を語ったからです。

(5) 過越の晩餐で歌われた賛美

  • さて、イェシュアは過越の出来事のルーツを説明したあとで、弟子たちとともに、詩篇113篇と114篇を賛美しました。そもそもユダヤの習慣ではそれを歌うことになっていたのです。その詩篇とはどんな内容のものなのでしょう。今回は詩篇113篇だけを見ておきましょう。
  • 詩篇113篇1節「ハレルヤ、主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。」から始まって、5~6節では「だれが、われらの神のようであろうか。主は高い御位に座し、身を低くして(「身をかがめて」)天と地をご覧になる。」という神の謙遜について記され、7~8節では、「主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げて、王座に着かせられる。」ということが書かれています。主の謙遜が私たちを、特に、弱い者を、貧しい者を、そして子を産めない女性を、卑しめられることのない、高い地位に引き上げてくださる」ことが記されています。イェシュアはまさにそのことのために来られたことを、この詩篇113篇を賛美しながら、「しもべ」となって私たちのために仕えるためにこの世に来られたことを思い起こされたかもしれません。しかし肝心の弟子たちの心は、イェシュアの思いとははるかに遠い所にありました。なぜなら、彼らは自分のことで心がいっぱいだったからです。
  • そもそもエジプト・ハレルの詩篇(113~118篇)が、過越の祭りに歌われていたことは実に不思議なことです。なぜなら、そこで歌われていたことがまさに神の御子イェシュアによって実現されることを預言していたからです。イェシュアはその歌を歌いながら、自分が過越の羊となるべくこの世に遣わされた思いを強く自覚されたに違いありません。

2016.10.15


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