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見よ。陶器師の手にある粘土のように

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9. 見よ。陶器師の手にある粘土のように

【聖書箇所】 エレミヤ書18章6節(後半)

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【読み】
「ヒンネー ハホーメル ベド ハッヨツェール ケーン アッム ベヤーディー

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、・・あなたがたも、わたしの手の中にある。
【口語訳】
陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。
【新共同訳】
見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、・・お前たちはわたしの手の中にある。
【岩波訳】
見よ、粘土が陶器師の手の中にあるように、お前たちもわたしの手の中にある。
【NKJV】
Look, as the clay is in the potter's hand, so are you in My hand.

【瞑想】

神はご自身の民を、陶器師の手の中にある粘土(あるいは、器)のように自由に取り扱う権利があります。粘土を使って何を造るか、それを壊したり、つぶしたりするのは、いつも陶器師の心のままです。粘土や器が、陶器師に向かって、何か文句を言うことはあり得ません。

陶器師は粘土を選ぶことから始まって、粘土から小さなゴミや石ころを取り除き、柔らかくなるまでよく練ります。そしてろくろに乗せて思いのままの形に仕上げるのです。「ろくろ」は陶器師の創作のためになくてはならない必要な道具です。その意味では、「陶器師」と「粘土」そして「ろくろ」は三位一体と言えます。「ろくろ」を使うことによって、より丁寧に、よりバランスのとれた形に仕上がっていきます。「ろくろ」の原理は回転の繰り返しですが、これは私たちの日々の生活の日課にたとえることができます。「ろくろ」に置かれる粘土のように、私たちも毎日の生活の中で、神の御手によって神のみこころにあったものとして形造られていくのです。

細心の注意を払い、巧みに形造られたそれぞれの器は、最後の仕上げとして、つまり円熟(完成)させられるための最終テストに入ります。それは窯に入れて焼かれることです。火は粘土を陶器に変えます。私たちの人生においても火が必要なのです。

【付記】
聖歌295番の歌詞

1.
成したまえ なが旨 すえつくり(陶匠) わが主よ
われはただなが手の 内にある土くれ
2.
降る雪のごとくに わが内を白くし
なが旨のまにまに 練りたまえ わが主よ
3.
天下る火をもて わが内をきよくし
成したまえなが手の 器なるわが身と
4.
なが旨のなるとき 他の人は見るべし
わが内にます君  キリストの姿を

2013.2.23


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